ナポリタンの明後日
「明後日の方向」という慣用句がある。“見当違い”の意だ。私はこの言葉からある料理を思い浮かべる。
「ナポリタン」がそれである。関西では「イタリアン」とも言うらしい、この世にも不思議なスパゲッティについて考えたい。
私は、ナポリタンに思い切りタバスコを振りかけて食べるのが好きだ。特に、二日酔いの時にするその食べ方が最低で最高なのである。
額から汗が滴り落ち、澱んで濁りまくっていた目は覚め、空っぽの胃袋が大慌てて駆動、ついでに大腸まで動き出す。トイレに行ってコトが済んだら、ようやく社会適合者に復帰できる。
同じように、カレーでそれを迎えることもあるし、辛いうどんなんかでもそれは可能だ。カレーの場合は、ウコンの力もあるのだろうか。科学的根拠は知らないが、私はそう思って勝手に腑に落ちている。
でも、どうして二日酔いの時にナポリタンを食べるのかが不明だ。
極端な話、「辛さ」で脱アルコールするなら、タバスコを飲めばいい。しかしその場合、甘ったるいケチャップが邪魔だ。が、あのケチャップ抜きにタバスコという辛味は存在し得ないと思うのである。そして、「ケチャップ」と「スパゲッティ」と「タバスコ」の三位が一体する融合を、果たしてナポリタン本人は想像したのだろうか。何やら本来の思惑とは違う、とんでもない方向に歪められた格好じゃないだろうか。それが、まるで“明後日の方向”だと思うのである。でも、いいじゃないか、ナポリタンなんだし。
「三国同盟的傑作」の末路
ナポリタンは、トマトケチャップ(諸説あるが、現在のトマトケチャップの原型はアメリカ)と、スパゲッティ(イタリア)とが、日本という地で結合して生まれた不思議な食べ物だ。歴史家や小説家なら仰天するような三国同盟的傑作である。
国籍は日本人で日本語しか喋れない、でも、お父さんとお母さんは外国人で、日本の学校に通う人気者、名前はナポリ、みたいなことなのである。入国管理や国籍取得には厳しいくせに、食べ物や文化に関してはユルユルな、いかにも日本的な食べ物だ。つまり、生まれ落ちた時からすでに“明後日の方向”なのである。
スパゲッティの本国イタリアでは、まさかケチャップなんて代物と絡ませられるなんて思っても見なかっただろうし、アメリカはアメリカで「ケチャップに合わない奴が間違ってる」という不遜さが売りの国でもあったりする。それを「まぁまぁまぁ」と割って入り、仲を取り持ったのが日本といったところか。とにもかくにも、奇天烈なこの組み合わせが日本に定着してしまった。そして、子どもから大人まで人気の食べ物になったのだ。
でも、である。あれはどうしたものか。弁当のおかずの下敷きになったナポリタンのことである。
なんとも無惨なあの末路。主にハンバーグ弁当にそれは見られるが、誰がそんな“彼の明後日”を予測したろう。あたかも「洋食のハンバーグ」という“形式”に準じるようにして、かつ、安価なコストをごまかすだけの弁当のかさ増し要員となり果てている。いわば、ただの記号にまで成り下がった(「記号ナポ」)。本来はメイン級のナポリタンが、である。
ところが、私はそれすら好きなのだ。最近はプレーンなスパゲッティを底上げ&油受け的に使用する弁当もあるが、昔ながらの「記号ナポ」を、私は決して見逃さない。時にはふんぞり返った面をしたハンバーグの裏に隠された生産者の欺瞞を、一口食べては見破り、「材料、ケチったな?」と思うや、近くの不貞腐れたナポリタンをむんずと箸で掴み、それを白飯の上へと叩きつけるのだ。
「おまえは、そんなところにいる奴じゃないだろう!」
ケチャップの力とは偉大なもので、それが一般的にタブーとされている「メシ+スパゲッティ」という炭水化物同士の組み合わせであっても、それを楽に飛び越える何かがある。この際言い過ぎてしまうが、上質なティッシュ程度ならば、ケチャップで食えるかもしれないのだ。ケチャップの力とは、そういうものなのである。
勢いよく白飯に叩きつけられた「記号ナポ」は、意外な展開に目を白黒させている。私は躊躇わずそれで飯をくるみ一気にかっこむ。米一粒一粒と、スパゲッティのトゥルンとした食感が口腔内で混ざり合う――その刹那、ハンバーグを送り込んでやるのだ。そう、二番手扱いで。立場にあぐらをかいているとこうなるのだ。その時の私は、荒廃した高校のラグビー部を立て直した無名監督である。
どうだろう、このフックアップの仕方も、“ナポリタンの明後日”じゃないだろうか?
ナポリタンの構成要素
“フライパン味”と私は言うのだが、エイジングされた「鉄パン(鉄製のフライパン)」には、それこそ秘伝の継ぎ足しタレのような、独自の味が染み込むものである。以前「ライスハック」の回でも書いたが、それをフィーチャリングして、ナポリタンは作られるべきだし、そのローカライズされた味を、お店選びのポイントにしていただきたい。
「普遍」と「癖」と言えばいいだろうか、そこのバランスがナポリタンの魅力だと思っている。「ゼネラル」と「ローカル」のバランスと言ってもいい。
メカニズムを説明しよう。
トマトケチャップも色々だ。酸味が濃いだの薄いだの、甘味が強いだのなんだの個性はある。が、やはり、ケチャップ味は「ケチャップ味」であり、ナポリタンにおいては「ゼネラル(全体的)」なのである。これを担保として、あとはどこで癖をつけるか? それが各フライパンにかかっているような気がする。
そして、具材は、玉ねぎとピーマン。ベーコンもいいが、それよりも普通のハムが望ましい。でも、私はウインナーが好きだ。赤いウインナーも郷愁をそそるが、伊藤ハムの「パルキー」のような物を薄切りにしたい。私はこの3点をナポリタンを作る上での「インフラ」と考える。それ自体では大した個性は生まれない。あくまで標準的な何かなのだ。
この玉ねぎ、ピーマン、ウインナーの3点を使えば、まず不味いものは生まれない。ケチャップ味をつけなければ、他の料理に変化することも可能だ。だからインフラ的というのである。
さらに「有り合わせの妙」というフレームも確かにある。玉ねぎとピーマンとウインナーという「有り合わせの妙」というインフラと、フライパンのローカル性(部分的)とケチャップというゼネラル(全体的)とで、ナポリタンは構成されているのだ。
ナポリタンの文脈
最後に「ナポリタンの文脈」についての考えを記したい。
ナポリタンを好む多くはおじさんとのこと。サラリーマンが多くいる新橋辺りはその聖地で、それ故に「思い出」という“懐古趣味の一品”という誹りを受けてもいるのだそうだ。ずいぶんな話である。開発された当初は「最新」だった物が、いつしか思い出グルメ扱いだというのだ。
確かに、長い歴史の中で「イタメシブーム」なるものとかち当たってしまい、ホンモノ志向のパスタと競争をさせられ、脱落した感はあった。が、それがどうしたである。最新だろうが、オヤジ趣味だろうが、“生まれたからには生きてやる”だ。だってそもそもが、明後日の方向で発生しているのだから。それを私風に言うならば、端から「文脈無視」だったのである。
私は、この文脈無視にこそ未来を感じるのだ。例えば日本人は「カリフォルニアロール」を最初にどう見たのか? 純日本人の寿司文脈からしてみれば、当初は「そんなもの寿司じゃない」というレッテルを貼られた外道料理でしかなかったはずだ。でもどうだ、今日、それは当たり前の物になっただろう。
J-POPはどうだ。ポップスやロックのマナーとフォーミュラは、日本で作られたものだろうか? 違う、その型に倣って量産したものだろう。例えば、因習、慣習、地縁、血縁、同族という“縦糸”だけで文化は面白いバグを生むだろうか? 東京や都市の節操の無い面白みは、あらゆる文脈を破壊するからだろうに。ナポリタンのアイデンティティとはそういうことだろうと私は思っている。
きっとこれからもナポリタンは、さまざまな扱いを時代とともに受けることだろう。どうであろうと良いと思う。これまでも発生当時は先端だった物が、最後尾にさせられたり、ハンバーグの尻に敷かれたり、パンに挟まれたり、メシにバウンドさせられたり、二日酔い覚ましにされたりなのだから。きっとナポリタン自身も、こちらの節操のなさを冷めた顔で期待もせずに見ているはずだ。「どうぞ思うがままに」と。何食わぬ顔で今日も明日も明後日も、ナポリタンはナポリタンでいることだろう。そんなナポリタンが私は大好きだ。
-
マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
この記事をシェアする
ランキング
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- マキタスポーツ
-
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
連載一覧
ランキング
ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら