2023年8月7日
三島由紀夫はなぜあのように生き、死んだのか
平野啓一郎『三島由紀夫論』刊行記念対談
執筆開始から23年の年月をかけて、小説家・平野啓一郎氏は今年4月に『三島由紀夫論』を刊行した。『仮面の告白』『金閣寺』『英霊の声』『豊饒の海』の4作品の精読を通じて、三島が描いてきた「作品世界」と、天皇主義者としての彼の「行動」とを一元的に論じる画期的な三島論。この作品は発売直後からSNSなどで大きな反響を呼び、発売後わずか1週間で増刷決定、1か月以内に三刷が決まるという、高価な文芸批評書としては異例の売れ行きが続いている。
本書の出版を記念して、5月23日にジュンク堂池袋本店にて、刊行記念トークイベントが開催された。著者・平野啓一郎氏の対談相手を務めるのは、「ケア」の概念を軸とした文学研究で知られる小川公代氏。三島とオスカー・ワイルドとの共通性から始まり、セクシュアリティの問題、認識論、ニヒリズムの克服といったキーワードを軸に語り合った。
平野 本日は、ケア論をはじめとして現在大活躍中の、小川公代さんに来ていただきました。どうぞよろしくお願いします。
小川 よろしくお願いします。『三島由紀夫論』、2回読ませていただきました。1回目も十分楽しめましたが、2回目に気づいて発見できたこともあり、こんなに読み応えのある『三島由紀夫論』はないと思いました。
平野 ありがとうございます。
小川 まずこの本を読んで考えさせられたのは、これまで平野さんご自身もテーマとされてきたことだと思いますが、「欲望」についてです。
「欲望」の中には、野心と性向を含むセクシュアリティなど、様々なものが入り混じっています。これについて深く考えさせられ、関連して思い出したのが、オスカー・ワイルドです。
ワイルドは、同性愛による猥褻罪で2年間の懲役刑に服しますが、出所後に発したとされる言葉が、「三島はなぜあのように生き、 死んだのか」という今回のテーマにぴったり重なると思いました。
〈生活すべき生活はみな生活しました。人生は私の唇に波々と注いだ香りのいいカップを差し出してくれたのです。私はそれをすっかり底の澱まで飲んでしまったのです。私は牢獄の中では、むしろ幸福でした。それは霊魂を発見したからです。——〉
「生活すべき生活はみな生活した」というのは、「欲望」を飲み尽くしたということを言いたかったのだと思います。その後、獄中期を経て、霊魂の世界を見出したのだと言っています。
一方で三島は、高度経済成長の時代の中で欲望を満たしたものの、何か霊魂のようなものを喪失してしまったという焦燥感を持っていたのではないか。ワイルドと三島は、希求するものが重なっていると思いました。
平野 三島はワイルドの思想と接続していると思います。
三島の場合は、戦中体験と戦後の生活が非常に大きな対照を成していますよね。大義のために人間が生き、死ぬという戦中の緊張感に対して、戦後社会は全てが相対的に移り変わります。三島は最期までそのことにこだわり、結局は自分は戦後何十年も生きてきたけども、ほとんど鼻をつまんで通り過ぎただけで、生きてはこなかったという認識に至っています。
二十代から四十代手前までは、戦後の高度成長期社会に順応して生活をしていこうとしますが、ものの世界をじっと見ていると、サルトルの『嘔吐』のようにゲシュタルト崩壊を起こして、全然実体がないような感じがする。自分にも世界にも現実感がないなかで、そのよるべのなさから、天皇という、大きな存在に帰着しようとしていくのが三島だったと思います。
三島由紀夫の「認識」論 ―― 現実を台無しにする一方で、虚無化する
小川 三島由紀夫の作品には必ず「認識者」が出てきますね。平野さんの『三島由紀夫論』の柱の部分でもあると思います。「認識者」とは誰なのか、どういう人なのかを定義なさってますね。
平野 認識の問題は三島がずっとこだわっていた問題で、この本の中でもいくつかのアプローチで書きました。
一つは、認識と現実との乖離です。彼は病気がちで学校を休むことが多く、その間にたくさん本を読んだ経験から、自分の知というものと実際の現実との乖離をいつも感じていました。イマジネーション豊かで言語能力も非常に高かったから、実際に現実を見てみるとがっかりする。本物の金閣を見たら案外がっかりするというように、知識によって現実を侵食してしまうと、現実の生き生きとした部分を取りこぼしてしまうと三島は感じていました。だからこそ、全然勉強もせず本も読まないような若者が、世界と生き生きと直接的に交わり合っているような姿を理想化しました。
ただ一方で、認識は現実を台無しにしてしまうけど、台無しにするからこそ、いざというときに行動が可能なんじゃないかと、ポジティブに解釈し直しているところもあります。
『金閣寺』の柏木がその典型です。内翻足という障がいがあって女性と関係を持てないというコンプレックスを抱えていても、現実を虚無化してしまえば、コンプレックスから解放されて融通無碍に生きていける、ということを語っています。
また三島は、テロや暴力を肯定するとも発言していますが、殺人というものを肯定する理屈を何とか構築しようとして、なかなか組み立てられませんでした。これは本人の性格的なものもあるんだと思いますが、三島は結局は人を殺せない人だという感じがします。
そこで、暴力を肯定する理屈として持ち出されるのが「ニヒリズム」で、認識によって全てを虚無化してしまえば何でもできると、認識作用の力をポジティブに解釈し直しています。
小川 確かにそうですね。三島が「何でもできる」と感じて、自由に創作していたはずの小説世界でさえ、テロの成功や殺人は回避されているように思います。三島の作品に登場する反逆者、というか「行動家」たちは、社会を変えようとして行動に移しますが、結局、誰かを殺すというより、その暴力性は自分に向かって行きました。『豊饒の海』第二作『奔馬』で、本多は来賓として招聘された剣道の試合で、剣の名手の飯沼勲という青年に出会います。彼は、第一作『春の雪』に登場する松枝清顕の教育係でもあった飯沼茂之の息子ですが、彼は戦後の日本社会がもたらした政財界の腐敗に怒っていました。純粋性をもって、金にまみれた日本を浄化する反乱を起こそうと、友人と政治結社を結成するのですが、鉄砲を持つ政府軍に対して、彼は日本刀のみで戦います。勲は、自らが汚い権力者となるよりは、むしろ反乱が失敗して、自身の行動と思想が純粋なまま自刃することを望んだ結果でした。
変わることのない本質が顕現する瞬間を夢見て
小川 平野さんの著書『「カッコいい」とは何か』にも書いてありましたが、1967年の週刊誌で「オール日本ミスター・ダンディはだれか?」の1位が三島由紀夫で、2位が三船敏郎さん、3位が伊丹十三さんで4位に石原慎太郎さんがつけています。三島由紀夫はメディアの寵児だったんですね。
平野さんが注目しているのは、ダンディズムは「反抗」がひとつの特徴であるということです。抵抗して戦って行動する部分が比重を占めているマッチョさがありますね。
『金閣寺』における認識か行動かという二者択一の問いは、現実世界を変えるのはどちらかというより、変わるのは自分か、現実世界かという問いに捉え直す必要があると平野さんはおっしゃっていますね。
これは障害学でも大きなテーマになっている問いです。『金閣寺』の柏木は足に障がいを持っていますが、障がい者がマジョリティの社会に順応しなければならないのか、その反対に現実社会がもっと障がい者を包摂する方向へ向かうのかというように、三島由紀夫の小説は、最近のアクチュアルな意味にも読み深めていけるのではないかと思いました。
平野 それは彼がセクシュアリティの問題を考え続けたからだと思います。自分の非常に複雑なセクシュアリティに対して、社会の側が変わってくれることを期待するのか、自分の側が一種の虚無主義者になって、それを超越していくのかと。
『仮面の告白』でしつこいくらいに強調しているのは、「人間の性的指向は変わらない」ということです。この問題が『金閣寺』の柏木という人物の内翻足という生得的な条件に反映されていると思います。どうしても変わらない生得条件として与えられていて、その上でどう生きていくのかを考えるときに、柏木の場合は、自分が変わることで、世界を変えたかのように生きていますが、主人公の溝口はどうしてもそれが納得できないんです。
三島の中では、本質が本質としてある永遠なる時間と、相対的に移りゆく時間とが対比され、二つの時間感覚が明確にあった。時間の流れがどれだけあっても、そこには成長もなければ変化もなくて、人間の本質は不変なんだというのがテーマです。時間の流れとともに社会が良くなっていくというような歴史観に対して、否定的なんです。
むしろ、本質が本質のまま顕現する瞬間を夢見て、自分がまさにこういう存在なんだと存在証明がされる瞬間的な時間の方に魅了されています。最終的にはそれが死というものになっていく。
金閣が消失する瞬間に最も美しく輝くように、喪われる瞬間に本質が顕現するというのが三島の考えです。
そういう意味で『豊饒の海』は作品全体が破綻するようなところで終わりますが、まさにそこで作品の全貌が顕わになるというのが三島の考えだと思います。
小川 どういう物語を書いて終点に行き着くのか、『豊饒の海』4部作とともに自分も死に向かう緊張感の中で生まれてきたのが、語りの表現の仕方だったのだと考えると、すごい覚悟だったのだと思います。「『豊饒の海』という小説全体の主人公は誰かと問えば、本多ということになろうが、最初からそうだったわけではなく、巻を追ってゆきながら、段階的に「副主人公」が主人公となってゆく、と見るべきである。」と平野さんが書かれていることと、「時間感覚」の議論がつながっているように感じました。どんどん生まれ変わって、輪廻する度に新しい記憶を持つ主人公とは異なり、本多という語り手の「認識」の時間は限定されない。それは、本多なら過去にジャンプして主人公との回想を語ることができるからです。『豊饒の海』を読み進めていくと、平野さんが引用された「生まれかわりを使えば、時間と空間がかんたんにジャンプできるんですね」という三島の言葉を思わずにはいられません。「三島の思想にあるのは、クロノス的な時間の、破滅を通じてのカイロス的な聖化である」という平野さんの言葉は、これ以上正鵠を射たものはないだろうというくらい。生と死のあいだに閉じ込められた時間が限定的な存在を超える語り手の視座があります。
平野 三島は30代後半にスランプになり、自分の生を再活性化させる上で、45歳で死ぬという計画を設定し、限られた時間の中で、できることとしないことを整理していきました。生きる上では非常に強い大きな刺激になったと思います。
しかしながら、実際に死に近づいてくると、最後まで死ぬことに対して逡巡が見受けられます。
『豊饒の海』では唯識を使って結局はこの世界は虚無だと書く一方、行動するためには世界に意味があると信じないといけないので、天皇中心にした意味の世界を構築し、そこで行動していこうとしました。
作品は最後は破綻してるかのように崩壊していくし、彼自身も死を絶頂として行動していって、どちらも滅びていくという中に三島は何かを期待していたと思います。
『三島由紀夫論』の注目してほしいポイントは?
――オンラインでの視聴者の方から質問をいただいています。「平野さんの『三島由紀夫論』で着目してほしいところと、またどんな読み方をしたら、そこにアプローチできるかをご教示ください」
平野 まず、『三島由紀夫論』を書く上で2000年代に新潮社から刊行された最新の『決定版 三島由紀夫全集』の存在は大きかったです。これは創作ノートが非常に充実し、対談もたくさん収録されているので、この全集がなかったら書けなかったと思います。
僕は三島由紀夫という人に会うことはできませんでしたけど、全集を通じてできた三島との長い対話の産物だと思っています。
まずは三島本人が何と言っているのかを、全集の中の言葉から本人に語ってもらうことを第一に心がけました。三島は、自作解説を書いているように、自分の作品について語るのが好きな作家だったので、小説を読解する中で三島の言説を踏まえた上で、当時の時代背景を補い、その上で僕の意見を書いてるのがこの本の基本的な作りです。
政治行動をしていた三島と文学者としての三島が、いまだに分離していて、それをくっつけすぎることに対する批判もあるけれど、離れ過ぎてることに対する批判もあるべきだと僕は思うんですね。
小説を読んでいくと、ああいう死に方になる、ある種の思想的な必然が見えてくるので、そのあたりを、特に「存在論」に着目して書いたのが特色だと思います。
長い本ですので、目次を詳しくつけました。最初から読み始めるのが大変そうだったら、面白そうな目次の本文から読むと、大体前後に関係する話がありそれを読むことになって、結局は全部読むことになると思います(笑)。
今日は小川さんのおかげでいろんな話をすることができました。どうもありがとうございました。
(構成、ライティング:田村純子)
-
平野啓一郎
1975(昭和50)年、愛知県生れ。京都大学法学部卒。1999(平成11)年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により芥川賞を受賞。著書に『日蝕・一月物語』、『高瀬川』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』などがある。
撮影:水田学、©︎NOSTY
-
小川公代
上智大学外国語学部教授。専門はロマン主義文学、および医学史。著書に『ケアする惑星』、『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)、『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著、春風社)、『ジェイン・オースティン研究の今』(共著、彩流社)、訳書に『エアスイミング』(シャーロット・ジョーンズ著、幻戯書房)、『肥満男子の身体表象』(共訳、サンダー・L・ギルマン著、法政大学出版局)などがある。
撮影:嶋田礼奈
この記事をシェアする
「三島由紀夫はなぜあのように生き、死んだのか」の最新記事
ランキング
MAIL MAGAZINE
とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 平野啓一郎
-
1975(昭和50)年、愛知県生れ。京都大学法学部卒。1999(平成11)年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した『日蝕』により芥川賞を受賞。著書に『日蝕・一月物語』、『高瀬川』、『決壊』、『ドーン』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』、『ある男』、『本心』などがある。
撮影:水田学、©︎NOSTY
対談・インタビュー一覧
- 小川公代
-
上智大学外国語学部教授。専門はロマン主義文学、および医学史。著書に『ケアする惑星』、『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)、『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著、春風社)、『ジェイン・オースティン研究の今』(共著、彩流社)、訳書に『エアスイミング』(シャーロット・ジョーンズ著、幻戯書房)、『肥満男子の身体表象』(共訳、サンダー・L・ギルマン著、法政大学出版局)などがある。
撮影:嶋田礼奈
対談・インタビュー一覧
ランキング
ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら