シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

堀部安嗣「建築の対岸から」

2024年5月16日 堀部安嗣「建築の対岸から」

田瀬理夫に聞く、良いデザインとは? 前編

著者: 堀部安嗣 , 田瀬理夫 

 現代は〈デザインされたもの〉で溢れています。日用品や衣食住に関わるもの、街、旅、教育さえも商品化され、その商品の広報のためにもデザインが不可欠となっています。しかし、それらデザインされたものが集合した暮らしの風景や街並みを眺めてみると、なんとも節操がなくバラバラで、調和の欠けたものになってしまっていると感じるのは私だけではないでしょう。周囲とのつながりや全体の循環を考えない、商売のための利己的なデザインが溢れかえってしまっているのです。〈商品〉と〈自己表現〉と〈デザイン〉とは親和性があり、だからこそデザインがもたらす落とし穴には気をつけなければなりません。

 デザインとは、斬新さや刺激をともなった創造行為と捉えがちですが、私はデザインとは、人と自然と物の関係の〈調整〉や〈修復〉のための行為だと考えています。デザインの力によってそれらの関係が整ってゆき、淀みのない循環が促されるイメージです。つまり本来のデザインとは〈仕組みづくり〉であり、〈総合的なバランス〉のためにあるものなのです。

 近代以前に作られた工芸品や日用品や建築などを見ると、「すばらしいデザインだなあ」と思うことが多々あります。当時はデザインという概念がなかったにも関わらず。それは決して郷愁ではありません。たとえば浮世絵が海外から評価されるのも、画家の技量の高さ以前に、描かれている風景や人の営為に淀みのない調和が存在することへの感動があったからではないでしょうか。かつての日本建築の美しさも、自然と人の営為の関係が織りなすバランスが土台にあって生まれたものでしょう。つまり、自然と人と物の関係がうまく循環して機能しているときには、デザインへの意識が働かなくても、自動的に美しいデザインが生まれるのです。そう考えると、自然と人と物の関係が淀んできたいまこそ、デザインの調整や修復の力に意識を向けるべきではないでしょうか。

 ランドスケープデザイナーで造園家の田瀬理夫さんは、こうしたデザインが持つ本来の力を考える上で多くの示唆を与えてくれる方です。太陽、樹木、土、風、水、動物、虫、菌、そして人の営為。それらを見つめ、研究し、その好循環のために私たちができることを見出し、実践してきました。そしてその循環の中に、建築が淀みなく溶け込むことも考え続けてきました。建築を取り囲む気候風土といった〈大きな環境〉を相手にさまざまなプロジェクトを手がけ、広く俯瞰的な視野を持つ田瀬さんに、自然と人の営為を接続するために、デザインや建築がどんな役割を果たせるかを教えてもらいたいと思います。

国立公園のプロジェクト

堀部 田瀬さんとは現在、香川県さぬき市の大串半島のプロジェクトでご一緒しています。

田瀬 国立公園の活性化プロジェクトね。

堀部 はい。園内の施設が老朽化して、来園者も減少傾向にあるのを回復させようというプロジェクトの一環で、私はそこで休憩や飲食のできる〈活性化施設〉の設計を依頼されたんです。ただ国立公園としてふさわしい、豊かな環境をつくりだすには、建築だけ建て替えても意味はない、つまりランドスケープや造園こそが主役になるくらいでなくてはと考えた。そこで田瀬さんに協力を仰いだのです。

田瀬 私もつねづね国立公園のあり方には疑問をもっていたから、ぜひやりましょう、と二つ返事で承諾しました。

堀部 田瀬さんが最初に送ってくださったデザインがすばらしかった。瀬戸内海の島々が織りなす〈多島美〉のラインが、そのままランドスケープに連なっている。境界を感じさせないデザインとでもいえばよいのか。

田瀬 国立公園のデザインって、これはないでしょう、というようなのばかりなんです。たとえば大串半島にもあった擬木柵(ぎぼくさく)。セメントなどで丸太を模した柵ですが、せっかく豊かな自然があるのに、なぜわざわざ偽物を設置するのか。

堀部 国立公園や都市公園には役所指定の仕様というものがあって、そうしたディテールが悪習として標準化されているんですよね。

田瀬 そう。まずはその擬木柵を撤去するところから始めて、地場の石材を利用した石積を設置したり、地域在来種の樹林や芝地が育つように整備したり、地形ももとの緩やかな丘地形に戻していったり。かつてその土地にあたりまえにあった素朴な風景を回復してゆければと思ってデザインをしました。


堀部安嗣設計 大串半島活性化施設《時の納屋》2024年4月竣工 施工を担当した菅組のYouTubeより

修復士としてのランドスケープデザイナー

堀部 田瀬さんの肩書きは、ランドスケープデザイナー・造園家ですが、何かをつくり出すというよりは、土地をもとの状態に戻してゆく修復士というか、治癒士のように感じます。でも長年このお仕事を続けられてきたなかで、バブル期はもっとクリエイトするような仕事の発注の方が多かったのではないですか。その方がお金も儲かるだろうし、どうしてそういう方向には向かわなかったのでしょうか。

田瀬 私はもともと新宿区市谷仲之町の出身で、小学校の途中で練馬の石神井のあたりに引っ越したのですが、その頃(1950年代)の東京はどちらも美しい場所だったんです。市ヶ谷の外堀の水は澄んでおり、道はピンコロ石で舗装されていて、とても風情があった。石神井も、水が湧き、田畑があり、崖線があり、自然豊かな里山の風景が拡がっていた。それで大学は千葉大学の園芸学部に行ったんですけれど、在学中にどんどん東京の街が変わっていくのを目撃したんです。60年と70年の安保闘争があって、学生が舗装を剥がして投石するから、道は一気にアスファルトになってしまったり…。

堀部 安保が街の景観にまで影響を及ぼしていたんですね。

田瀬 そう。1964年にはオリンピックもあって、歴史とか景観とかまったく無関係に街がどんどん新しくなっていった。そんな状況に失望したんです。そういう体験が原点にあるから、はじめから修復士だったかもしれない。

堀部 大学を卒業された後は?

田瀬 富士植木という造園会社に4年ほど勤め、1977年に独立しました。当時は建築業界や不動産業界に、都市で集住することによって、より良い住環境を生み出そうという気運がありました。たとえば敷地全体で豊かな自然環境を造成したり、共有空間を設けてコミュニティを育んだり。それが面白いなと思って、集合住宅の景観プランの仕事に関わるようになりました。

堀部 田瀬さんは所有という概念に関しても独自の考えをもっていらっしゃいますよね。集合住宅というのも、その概念をもう一度見直して、共に住まうことの豊かさや楽しさを見つけようというものだったのでは。

田瀬 ええ。それで藤が丘タウンハウス(1979年竣工、神奈川県横浜市)とか、ゆりが丘ヴィレッジ(1986年竣工、神奈川県川崎市)といった集合住宅のプロジェクトに関わりました。ただ80年代後半のバブル期に入ると志のある不動産屋も消え、皆ただのマンションになってしまった。

堀部 個人が所有する家がただ集まっているだけの。

田瀬 そう、マンションって集合住宅というより〈住宅集合〉なんですよ。だからとっても面白くないんです。それでマンションの仕事に興味がなくなって。その頃から自分のことをランドスケープアーキテクトって言い始めたのではないかしら。

堀部 マンションでも個人宅でも、庭の仕事が刺身のツマとか、緑のバランのようなものになってしまった。

田瀬 宅地も境界がはっきり定められるようになって、庭は越境ができなくなってしまいました。ランドスケープデザインや庭園の本質って、境界を越えられるところ、もしくは境界を失くすところにあると思っていたんだけれど。

堀部 自然には境界線はありませんから。そもそも人がある土地を所有していると思うのも錯覚ですよね。自分の家の庭に海外からもってきた植物を植えたりなんてことはここ数十年のことで。

田瀬 ガーデニングブームね。

堀部 あれも一つのフィクションで、書割みたいなものでしょう。イギリスのような痩せた土地であれば、そうした文化も必要かもしれないけれど、日本は豊かな土地があって、多様な植生もあるのに、なぜわざわざ舞台セットをつくらなくてはならないのかと思う。

田瀬 でも実は個人宅の庭でもその地域の植生にあわせて植物を植えてゆくと、鳥や虫が行きかうようになって、植生も生態系も境界を越えて広がってゆき、徐々に景色がつながってゆくんですよ。

堀部 隣の家の庭にも連鎖してゆく。

田瀬 そう、人間だけが境界をまたげないんです。戦後の日本思想って結局すべてヒューマニズムでしょう。法律もそう。絶滅しそうな動物を保護するための法律はあるけれど、基本的にはいま生きている人間しか相手にしていない。そうして日本全体の環境を人間の都合で改変しまくっていったことが、災害にも結び付いている。それを回復させるには、鳥とか獣とか虫とか、人間以外のものの声に耳を傾けなくてはいけない。そういう時代にきていると思うんです。

遠野の山岳葬

堀部 田瀬さんが現在取り組んでいるのが、山岳葬のプロジェクトですね。

田瀬 もともと私は岩手県の遠野で、人馬が共存する里山「クイーンズメドウ・カントリーハウス」の開拓プロジェクトを20年以上にわたり手がけているのですが、その遠野のきれいな風景のもとで埋葬もできればと事業を起こしたんです。

堀部 要は合祀ですよね。日本のふつうのお墓は境界線がはっきりありますが、こちらはお墓も共有していこうという考えですね。

田瀬 ええ、山岳葬の山には墓石もなければ、標識もありません。骨は嵩張るから粉骨にして、容器にも入れずそのまま土に戻すつもり。もちろん埋葬された場所は記録するけれど。

堀部 遺族がお参りにきたときはどういう動きになるんですか?

田瀬 細かな所作や埋葬の仕方はこれから決めていきますが、まず山岳葬の意思を持つ人には、生前に自分が埋葬される山の手入れをしてもらいます。お参りにきた遺族は、そんな手入れされたきれいな山から、農作業する人や走る馬や遠くの山をただ眺める―。

堀部 自分がここで眠るんだ、ということがわかっていれば、手入れも丁寧にしますよね。ときには家族と一緒に行ったりして、思い出の場所にもなる。

田瀬 言ってみれば、人が亡くなれば亡くなるほど山はきれいになってゆくという仕組みなんですよ。遠野市には所有者不明の土地がいっぱいあるから、それをどんどん市の管理にして、こういう合祀のための、皆が手入れをする山にすれば、亡くなる人にとっても、遠野の生物や自然のためにも良いことなのではないでしょうか。

堀部 ネイティブアメリカンに、「地球(土地)は親から譲り受けたものではなくて、子孫から借りたもの」という言葉があるんです。風景とか土地とかを未来からの大切な借りものだと思えば、だいぶ意識は変わる。命だって所有しているのではなく、一時的に借りているものだと考えれば、それを山に返すのも自然なことです。

田瀬 山岳葬ではないのですが、遠野のシンボルである早池峰山が見えるテラスをつくろうと、毎月山に入って手入れしていったんです。カラマツを切ったり、泥塀をつくったり、緑の擁壁をつくったり。手入れ自体は結構しんどい作業ではあるんだけれど、そのあとに早池峰を眺めると、神々しくてうつくしい。もうテラスも周りの風景も自分のもののような、すごくハッピーな感覚になるんです。

堀部 人の生と死と、自然のサイクルが溶け合って、両者にとって快適な世界がつくられているような感覚でしょうか。

田瀬 そうですね。あと実際問題として、日本の山林の大半は過去に人の手が入っているから、放ったらかしにしないで、人が修復し、更新し続ける必要があるんです。枝や木を重ねたままにした林床は、荒れ果ててしまうけれど、たとえば倒木を片付ければ、材を集めることにもなるし、その後には全く違う山野草が咲き出す。それがまたきれいなんですよね。

堀部 何か尊い感じがします。

田瀬 庭にハーブを植えるのとはまったく違う達成感やリアリティがありますね。この山岳葬を宗教法人の札束ビジネスではなく、国土環境回復のためのプロジェクトにできたらと思っています。

堀部 田瀬さんご自身もゆくゆくは…?

田瀬 私もたぶんその遠野の山のあたりになると思う。おやじたちが入っている霊園には入らずに。

堀部 先祖代々の、もしくは両親のお墓をどうするかという問題もありますよね。

田瀬 そうね。霊園も悪いところではないのだけれど、日常であたりまえに見えている景色のなかに眠るのが一番幸せでしょうね。そしてやはり自然の一部になっていった方がいいんじゃないかな。

後編はこちら

この記事をシェアする

ランキング

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

堀部安嗣

建築家、京都芸術大学大学院教授、放送大学教授。1967年、神奈川県横浜市生まれ。筑波大学芸術専門学群環境デザインコース卒業。益子アトリエにて益子義弘に師事した後、1994年、堀部安嗣建築設計事務所を設立。2002年、〈牛久のギャラリー〉で吉岡賞を受賞。2016年、〈竹林寺納骨堂〉で日本建築学会賞(作品)を受賞。2021年、「立ち去りがたい建築」として2020毎日デザイン賞受賞。主な著書に、『堀部安嗣の建築 form and imagination』(TOTO出版)、『堀部安嗣作品集 1994-2014 全建築と設計図集』『堀部安嗣作品集Ⅱ 2012–2019 全建築と設計図集』(平凡社)、『建築を気持ちで考える』(TOTO出版)、『住まいの基本を考える』、共著に『書庫を建てる 1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(ともに新潮社)など。

田瀬理夫 

造園家、ランドスケープデザイナー。1949年、東京都生まれ。千葉大学園芸学部卒業。株式会社富士植木勤務を経て、1977年に独立、株式会社ワークショップ・プランタゴを開設。公共施設のランドスケープデザインから、個人宅の造園までを手がける。おもな仕事に国営沖縄海洋博記念公園熱帯ドリームセンター(1979年)、藤が丘タウンハウス(1979年)、ゆりが丘ヴィレッジ(1986年)、板橋区立熱帯環境植物館(1994年)、アクロス福岡(1995年)、クイーンズメドウ・カントリーハウス馬付住宅プロジェクト(2000年~)、赤坂ガーデンシティ(2006年)など。


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら