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小さい午餐

2020年2月25日 小さい午餐

ラーメン店のラーメンライス

著者: 小山田浩子

 いつ前を通っても閉まっているラーメン屋があった。やっていないのではなくて、日々営業している空気があるのに私が前を通る時には閉まっている。私がそこを通るのは月に1、2回、曜日はまちまちで平日だったり土日祝だったり、ネットで見ても不定休としかわからない。どうしていつも閉まっているのだろう。行きたいな行きたいなと思っていたある日、ようやっと半開きの引き戸の中に電気がついているのが見えた。土曜日午前11時、中で調理している熱気のようなものも感じられる。人がいる気配、戸口には木に筆文字フォントでただいま準備中、と書かれた札が下げてある。折りたたみ式の立て看板も出してありそこに開店時間11時30分〜(スープがなくなり次第終了)。いける、あと30分でオープンするということだ。今からの予定は別に午後イチにずらしたって大丈夫、開店と同時に行こうと思ってぐるっと路地から路地を回って歩いていると、前から見覚えのある人が歩いてきた。あれ、と思って顔を見ると向こうもこちらを見てあれ、という顔になった。昔、職場でお世話になっていた女性だった。ハナノさん! 声をかけると向こうも「オヤマダさん!」おひさしぶりです!「おひさしぶりだねえ。お元気?」はい、おかげさまで。ハナノさんも、お元気ですか?「あいかわらずかなあ」あの、その節は大変お世話になりまして。誇張やお世辞や言い回しではなく私は心底ハナノさんにお世話になった。ハナノさんはずいぶん長くその職場で働いていて、何か困ったことがあって相談すると実にきびきびと助けてくれた。やり方を教えミスをフォローしてくれた。私のような非正規社員にも正社員にも頼られていたのに、彼女自身も非正規で、おそらく皆、内心、彼女のように有能な人を長いこと非正規にしておくなんてこの会社はどうかしていると思っていた。少なくとも私はそうだった。全く変わって見えないが、会うのは何年ぶりになるか。みなさんも、お元気ですか?「そうねー、あ、ノセ部長が定年になったよ」私がいた部署の部長、ミスを指摘したり怒ったりするときに怒れば怒るほど、こちらのミスが重大であればあるほど声が小さくなっていってなにをどう怒られているのかわからなくてそれで余計に怖かった。部長ってもうそんなお歳でしたっけ。「ねー。早いよねー」じゃあだいぶ、雰囲気が変わったでしょうね。「そうねー。オヤマダさん今日はお子さんは?」あ、今日は夫が。「そっかー、オヤマダさんっておうちこの辺やっけ?」いえ、ちょっと用事がありまして、時間が余って、ぶらぶら。ラーメン屋が開いているのを待っているというのは言いにくかったので濁した。ハナノさんはこの辺りにお住まいですか。「うん、そうなんよー」そうなんですね、知らなかった、そういう話もしたことがない。お世話になった非正規社員同士でも、雑談はしたことがあまりなかった。今もあそこで働いているのならもう勤続15年とか20年近くとかになるんじゃないのかと思われるハナノさんは(よく考えたら年齢だって知らない)、今も非正規なのだろうか。「じゃあまた。お元気でね」はい、ハナノさんもお元気で。数十歩離れ時計を見るといい時間になっていた。ラーメン屋に戻ると果たして暖簾が出ていて、今まさに中に家族連れが入っていくところだった。20代くらいの男女とその両親世代の男女4人連れ、開け閉めされる隙間から見える店内カウンターに1つ空席が見えた。私も中に入った。
 女性の店員さんが「お1人ですかー、カウンターへどうぞー」エル字型のカウンターで、私の隣には私と同年代に見える女性とその娘らしい小学生くらいに見える女の子が座っている。女の子は薄いピンク色のダウンジャケットを着て足をぶらぶらさせている。テーブル席は埋まりカウンターもあと1席、幸運だった。ラミネート加工のメニューによるとラーメン、辛いラーメン、汁なし担々麺がある。あとは大中小ライス、チャーシューが載ったライス、メニューに大きく当店のライスは契約農家が作ったおいしいお米を使っていますと書いてある。おいしいお米、ここのラーメンはメニュー写真によれば茶色く濁った鶏ガラ豚骨しょうゆと思しきスープに細いもやし、青いネギ、丸くない巻いていないチャーシューという広島の標準的なラーメンで、そして、こういう広島っぽいラーメンはご飯に合う。ときどき、ラーメンはおいしいのにライスがとてもおいしくない店がある。柔らかかったりぼそぼそだったり変にぽきぽきしたり黄色かったり、なんならちょっとくらいライスがアレでも仕方ないじゃないですかうちはなにしろラーメンがおいしいんですからという態度を感じることもある。私はラーメンと小ライスを頼んだ。黒いエプロンの女性は伝票にボールペンで書きこみながらラーメン小ライスッと厨房に言った。伝票はレジのところに置かれた。厨房のカウンター内にいた揃いの黒いエプロンの男性が短い鋭い声で応じた。ラーメンと小ライス、私の直前に入店した家族連れの若い男性が手を挙げ「すいませーん注文」と言った。濃い灰色のニット帽をかぶっている。彼らは4人掛けのテーブル席に座り、こちら向きに若い方の男女が、その向かいつまり私に背を向けた側に親世代男女が座っている。若い女性の明るい色のニットが、全体に黒っぽいくすんだ冬服の店内で華やかだった。若い男性が「普通のラーメン2つと汁なし担々麺2つ。ラーメンは1つ大盛りあと大ライス」「ライスはお1つですか?」「親父もライス、いる?」年配の方の男性が軽く首を振ったかなにかの間が空いて「じゃ、お1つ。汁なし担々麺は辛さどうされますか」若い女性が「おかあさんは?」と尋ねまた少し間が空いた。年配の方の男女は声がとても小さいようだ。「あ、じゃあ辛さなし1つに、私は普通辛で。あと、汁なし担々麺にはどっちも温泉卵お願いします」若い女性が言い添えた。「はーい、温玉お2つ、汁なし担々麺辛さなしお1つ普通辛お1つ。少々お待ちくださーい」店員さんが厨房に注文を伝え伝票をピッと置いた。汁なし担々麺もいい、あれもご飯に合う。というか、汁なし担々麺はほとんど麺を食べ終えて残ったタレでご飯を食べるところまでがセットの食べ物だ。熱いご飯で再び立ちのぼる山椒の香りと唐辛子、私は汁なし担々麺には絶対に温泉卵を入れない。ネギも増やさない。その方がご飯に合うと思うからだ。ラーメンを食べ終えて余裕があったら汁なし担々麺も頼もうか、しかし、ラーメンを食べてライスを食べて汁なし担々麺を食べてライスをもう1杯食べたら、ちょっといくらなんでも炭水化物を食べすぎというかはしゃぎすぎだろう。カウンター内部の調理スペースには湯気の立つ鍋が並び奥に分厚いまな板がある。刻んだネギ、細いもやしが入ったコンテナも見える。頭にバンダナを巻いた男性が中で調理し、運ぶのはさっき注文を取っていた女性、コートを脱いで置いておく場所がないので着たままにしておいた。セルフの水ポットがたたんだ白いタオルの上に置いてある。重ねて伏せてあるプラスチックコップを1つとって水を注ぐ。胡椒やラー油に混じってご飯タレ、とラベルが貼られた調味料がある。半透明プラスチック容器越しにやや薄いしょうゆ色が見える。壁にはテレビが設置されていて、釣り番組が放送中だった。寒そうな海の色、厚着の釣り人、空は真っ白に見えるほど曇っている。店の中は静かで、テレビも音量を絞ってあって聞こえないし会話もそんなに聞こえてこない。隣の母子も、母親はスマホを見、娘はぼんやり調理の様子を眺めつつ顎を浮かせ足をぶらつかせている。引き戸が開いて外気が入ってお客さんが入ってきて最後のカウンターが埋まり満席となった。「広島の人ってやっぱりみんなカープファンなんですか?」よく通る声がしたので見ると、さっきの家族連れの若い方の女性だった。ニコニコ笑っている。彼女の正面に座った後ろ姿の男女がうんうんと頷いて何か答えた。小声だったので聞こえなかったが同意のようだった。「じゃあ、おかあさんたちもやっぱり、好きな選手とかいるんですか?」敬語、今の「おかあさん」はだからお義母さんか、ということはニット帽の男性、その両親プラスニット帽の男性の妻(か恋人)という4人連れなのだろう。さっきニット帽男性が年配の男性を親父と呼んでいたし。お義母さんと呼ばれた女性はまた小声で何か答えた。隣の義父が深く頷いた。2人の贔屓選手は同じようだった。「その人、私も名前は聞いたこと、あります!」ということは鈴木か、菊池か、大瀬良か逆に長野とか、ニット帽夫は黙ってスマホをいじっている。目線すら動かさず、話に参加している気配がない。「なんか、そういうの、うらやましいっていうか、いいですねえ! みんなが好きなもので1つになれるっていうか!」義父がまた頷いて義母が多分何か言い、女性が笑ってニット帽はやっぱり無反応だった。私の隣の母子に麺がきた。母親が辛いラーメン、娘は普通のラーメンだった。丸みのある丼に、写真で見たのと同じだがややチャーシューのボリュームが多い感じのラーメンが展開している。母親の辛いラーメンはラー油のらしい赤黒い膜が浮いている。小学校3年生くらいだろうか、前髪を飾り付きのピンで留めた女の子は、母親から白い割り箸を受け取って2つに割るといきなり丼の中をかき回し始めた。上下をぐるんと返すような混ぜ方で、そんなに余白がなかった内容物が縁から漏れるように少し溢れ、麺が上になりまた下になった。彼女は麺に割り箸を突き立ててほぐし持ち上げてまた戻した。「食べないの? 冷ましとる?」赤黒い汁に浸した麺を口に入れながら母親が言った。「混ぜとるん。野菜が残らんように」「いいけど、でも麺伸びるよ」私も思っていたことを母親が言った。「うん」彼女はなお混ぜ続けた。多分、野菜を残さない工夫なん、えらいねえ、と母親に言って欲しかったのかもしれない。「私、汁なし担々麺って初めてです!」静かな店内で若い女性の声だけが聞こえる。「やっぱり広島の方はよく食べるんですか?」めっそうもない私なんて、のような仕草で母親が顔の前で手を振る。義父は軽く顎を持ち上げておそらく釣り番組を見ようとしている。波が立っている。白いしぶきが甲板の釣り人にかかる。かもめ1羽飛んでいない。「あ! うちの母も辛いの苦手なんです、偶然ですね、私は好きなんですけど!」結婚相手(か交際相手か)の両親と4人で食事していて、自分が一生懸命向こうの地元の話題を振って会話を試みている横で、 無言でスマホをいじっているニット帽男、いや彼女は俺と違ってコミュ力あるし俺の両親とも相性いいし問題ないですよとか思っていたら大間違いだ。こちらの地元の、それもカープの話題とか汁なし担々麺とか言っている時点でそんなに馴染んでいない、なんなら新婚かも、ことによったら初めて義両親を訪問しているとかかもしれない関係で、それも彼女だって1人で喋るのが全く苦にならないタイプではなく頑張って話題を出している風に見えるし、その上に割とリアクションが薄いというかリアクションだけで発話が少なそうな義両親とのコミュニケーション、丸投げされたら相当疲弊するだろう……私だったらもうとっくにトイレに避難して夫にラインしてスマホ置いてなんかしゃべれとかなんとか訴えていると思う。「まだ食べんのん」「んー」母親に促されずっと丼をかき混ぜていた隣の女の子はようやく麺を持ち上げゆっくり食べ始めた。母親の赤い麺はすでにおそらく半分以下になっていた。「おいしいね」「おいしい……それ辛い? ピリ辛?」「ちょっと辛い、暑くなってきた」「汗拭かんと、風邪ひくけー」「そこまでじゃないけど、ありがとう」母親が微笑んだ。釣り番組が終わった。私のラーメンと小ライスが来た。
 丸い丼には茶色く濁ったスープ、細いもやしに青いネギ、ずらして並べてある肩ロースのチャーシュー2枚、細くスンナリした広島らしい麺を持ち上げるとを持ち上げるとスープの濁りがさっと左右に分かれより濃い色のスープが下から見えてまた混じる。スープは甘みを感じるしょうゆ味、小さい脂身がいくつか浮いている。たくさんの野菜を入れて煮こんだ豚汁に通じるようなご飯を呼ぶ風味、いいねいいねと思いつつライスを口に入れて驚いた。本当にすごくおいしい。粘りがあるのに1粒1粒の表面に個の膜のようなものがあって、そこを噛み分けるたびにお米の、あのつきたてのお餅に通じるような甘い香ばしい匂いがする。単に腹塞ぎに食べたらもったいないくらい、隣の誰かにちょっとご飯すごくおいしいね、食べてないなら食べてみてと語りかけたいくらいおいしい。麺を口に入れてライス、ライスを口に入れてスープ、2枚のっかっていたチャーシューは、上から見ると普通なのだが持ち上げると1枚がやたらに分厚い。片方の4倍くらいある。それは単に塊肉の端っこだとかそういう理由でたまたま分厚いのか何かのミスなのか、この店のチャーシューは2枚のうち1枚が分厚いのが決まりなのかよくわからないがそれとライス、はうはう言いながらあっという間に食べてしまった。中ライスいや大ライスでもよかった。水を飲む。ご飯タレというやつの味見もしてみようと思っていたのにすっかり忘れていた。茶碗に少し垂らして箸で舐めると、うんと甘い麺つゆのような味だった。隣の女の子は半分強くらい食べた麺ともやしとネギが混ざり合った丼を「お腹いっぱい」と母親の前に押し出し、予期していたらしい母親はじゃあお母さんが食べるから待っとってと言って自分の辛いラーメンを食べ終えた丼と交換した。女の子はレンゲで辛いラーメンのスープをかき回した。「それ辛いから飲まんでね」「んー」というか汁なし担々麺いけるな、いこうか、あのライスと汁なし担々麺、考えただけで興奮する。しかし店内は満席で、振り返ると外に何人か待っている気配もある。立ち上がってレジで会計した。今日入れたのだからまた次来ることもできるだろう。件の4人連れを見ると義両親と女性はまだ食べていて1人大盛りに大ライスをつけたニット帽男だけはもう食べ終えてやはりスマホ、全員無言、若い女性はニットの上に紙エプロンをつけ真顔で赤い汁なし担々麺を持ち上げ口に運んでいる。熱い麺とご飯で緩んでいた鼻が外気にクンと冷え、先頭で待っていた1人が入れ違いに店に入りいらっしゃいませという声が聞こえた。

庭

小山田浩子

2018/03/31発売

それぞれに無限の輝きを放つ、15の小さな場所。芥川賞受賞後初著書となる作品集。

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「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

小山田浩子

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞受賞。2013年、初の著書『工場』が第26回三島由紀夫賞候補となる。同書で第30回織田作之助賞受賞。「」で第150回芥川龍之介賞受賞。最新作は『』。

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