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小さい午餐

2020年6月30日 小さい午餐

ラーメン屋の肉野菜炒め麺

著者: 小山田浩子

 衣替えのときに入れておいた防虫剤が効果切れになっているのに気づいた。ドラッグストアへ買いに行く。この前室内でヒメマルカツオブシムシの成虫を見た。極小のてんとう虫みたいなかわいい虫なのだが幼虫は衣類を食害する。我が家の防虫剤は相当前から効果が切れていた可能性がある。昨日はかなり雨が降ったが今朝はところどころに晴れ間もありしかし灰色の大きな雲もあり、少し悩んで折り畳み傘を持つ。防虫剤は違うメーカーのを混ぜて使うとよくないらしい。どうよくないのかその真偽ももう定かではないのだかとにかくダメなのだというのだけ覚えていて、それでいつも売り場の棚の前で焦る。うちで使っているのはミセスロイドなのだが、私は防虫剤を買おうと思うときいつも脳内でムシューダを買おうと思ってしまう。スポーツドリンクを全てポカリと呼ぶとか、絆創膏という意味でバンドエイドと言うとか、そういう感じで商品名を普通名詞あるいは代名詞として記憶し使用してしまっているせいなのだが、だからムシューダを買おうと思って棚を見て、あれ、ムシューダじゃないな、形が違うな、あれれ、と不安になるのだ。防虫剤はスポーツドリンクや絆創膏ほど日常目にしないせいもある。形状、色味、効き目が切れたときに浮かぶ文字の白さとフォントに覚えがあるのは絶対ミセスロイドなのにミセスロイドという名前にとにかくピンとこず、これだよこれで合ってるんだよ、と脳内で声に出し不安がる自分を励ましながらかごに入れる。毎回そうなる。ならばメモしてくればいいのに毎回そうなることを棚の前まで忘れている。ドラッグストアにはアルコールの除菌ジェルがたくさん売られているしマスクも並んでいるしトイレットペーパーもティッシュもかつて品薄だったのが嘘のように豊富にあるが、箱入りの安いマスクはまだ復活していないし(高いのはある)アルコールもスプレータイプのはない。携帯用じゃない、家庭用の大きいパックのウエットティッシュも、除菌じゃないタイプのはあるが除菌のはない。休園休校は終わり人々は電車で通勤していく。ドラッグストアを出た。雨がぽつぽつ降り始めていた。折り畳み傘を出して差す。街路樹の下を通ると風が吹いたのかばらっと大粒の水滴がいくつも落ちて傘が鳴った。突然、近くにあるラーメン屋へ行こうと思い立った。時間的にもちょうどいい。外食はいつぶりだろう。心が浮き立ちかけ、でもすぐに不安になった。ラーメンはあれだろうか、飛沫飛ぶから危険だろうか、いや、でも、あの店は昼の開店直後、つまり会社員の昼休み前ならまず人と並んで座らねばならないような事態にはならないはずで、それに、開店前には清掃や消毒なども行われている可能性が高いだろうし比較的安全ではないか。というかお店、やってるだろうか。少し前まで、確かしばらく休業していた。
 開店直後に到着した。やっていた。傘立てに傘、窓が開いていて、そこからサラリーマン風の男性が2人向かい合ってテーブルに座っているのが見えた。入り口の脇にはアルコールスプレーが置いてある。「アラー、お久しぶり!」のれんに手をかけないよう上半身を深くかがめ店内に入ると、女性の店員さんがすぐに声をかけてくれた。厨房の奥から男性の店員さんもいらっしゃいと言った。常連というほど通ってはいないが顔は覚えられている。「元気なのー」元気です元気ですと答えながらテーブル席に座る。この店はこの2人がやっていて、多分夫婦、もう大きいお子さんがいて云々という話を確かいつか聞いた。男性が調理で女性が接客を担当している。隣のテーブルの男性客は2人とも白地に紺色のストライプ柄のシャツを着ている。お揃いの制服かと思ったがストライプのピッチが少し違っていて、片方は長袖で片方は半袖だった。2人で真ん中に横向きに置いたメニューを見ている。ランチメニューは麺とおむすびしかない。私はいつも肉野菜炒めが載った醤油スープの麺を頼む。麺は他に味噌味の、辛いの、カレー味の、あとは冷麺などあって、多分どれもおいしいのだがつい、最初に食べて気に入ったこれを頼んでしまう。おむすびも頼む。ここのおむすびはとてもおいしい。中身のない、海苔もない、角の丸い柔らかい握り方の塩むすび、ランチタイムは50円だ。肉野菜炒めの麺は750円、税込合計800円、少ししんどいときによくここへきてこの麺とおむすびを食べた。1人でも来るし家族でも来た。800円で確実にある程度元気になって店を出ることができた。注文してからセルフサービスの水をとる。コップはガラスで、水は魔法瓶ポットに入っている。傾けると中で氷ががらがら鳴る。カウンターやテーブルは白木の色で、壁や厨房周辺は白っぽい。開業直後かと思うほどしらじら清潔な店だが、もう何年もこの場所で営業している。私より前に座っていた隣の2人客はメニューを見ながら悩んでいる。店にはテレビがあって、そこに『河井夫妻逮捕』という文字が見えた。ワイドショーだ。音は聞こえないがとにかく逮捕だ。夫妻2人の顔、他の政治家の顔、司会者の顔、コメンテーターの身振り、昨日逮捕され、今朝の地元紙にも大きく取り上げられていた。なにせここは彼女が出馬し当選した選挙区広島だ。地元! 隣の男性客がカレー味の麺を2つ注文した。女性店員さんが「カレー麺ね!」と言い厨房にカレーふたーつ、と告げた。スマホを見る。今までこういうときは文庫本を読むことが多かったが最近はスマホを見る。文庫本は帰宅後消毒しようとすると紙がばわばわになる。スマホの中でも夫妻は逮捕されている。広島の人たちがお金を受け取って広島の人たちが投票してこの人を当選させた、どうして他県より平和な社会を強く希求しているだろうはずの広島が、派閥争いだか仕返しだか知らないがこんなことの舞台になりうるのか、ここならいけると思われて実際いけてしまったのか。そもそも広島は投票率だって別に高いわけでもなく、なんなのか、平和も戦争反対もただの観光コンテンツの1つで実生活や政治とは関係ないことだと思っているのだろうか。
 おむすびと漬物がくる。白い半袖Tシャツにエプロンをつけた女性店員さんが笑顔で運んでくる。エプロンに隠れて見えないが、胸からお腹にかけて何か楽しそうなカラフルな柄がプリントしてある。「それで、お子さんとかも、元気なんー」はい元気です。やっぱり親子でなかなかストレス、溜まりましたけど。「本当よねー。麺もう少し待ってねー」はい。おむすびの隅を割り箸でちょっと崩して食べる。出来たてではないのだがそう長いこと保存されていた感じでもなくちょっとだけ表面が乾いて、その部分に塩気があって、内側がふっくら温かく甘い。一気に全部食べたいがあとは麺と食べようと思って我慢する。そしてここの漬物、季節ごとに違う野菜のぬか漬け、今日はきゅうり2切れと人参1切れ、野菜としてはあまり好きではない人参もここのぬか漬けだとおいしい。一見生のように角が立って色鮮やかで、カンっと酸味があって塩気はほとんど感じない。我慢できずもう1口おむすびを食べる。ここでぬか漬けを食べるといつもうちでもぬか漬けをやろうかなと思うのだが、でも手入れがな、あとこんなにおいしくできないだろうし…カレー麺を待つ隣の2人が「あのー、こっちもおにぎり2つ追加で」「おにぎりねー」と言いながら女性店員さんが肉野菜炒めの麺を運んできて私の前に置いた。この前ここでこれを食べたのはいつだったか、ええとあのときは確か1人で、冬、寒い時期、1月だった。あの日は外での打ち合わせのあとで、打ち合わせ相手からなぜかたくさん野菜をもらって、大きな紙袋いっぱい、それを少しおすそ分けしたんだった、そのときはあんな春を過ごしこんな梅雨を迎えることになるとは思ってもいなかった。
 丼を見下ろす。透明な茶色いスープにキャベツ、モヤシが炒められたものが載っかっていててっぺんに黒胡椒、白いキャベツのところどころに黒い火脹れ状の焦げ目がついて豚肉もちらちら見えているが全体としては野菜、水面に炒め物から出たのだろう透明な油がわずかに丸く浮いて光っている。野菜炒めをわきによけてスープ、ここのはいわゆるラーメンスープとちょっと違って和風が勝ち、そばつゆっぽい甘みのあるカツオ昆布だし醤油味に多分鶏とかが少しだけ加わっているような、脂が極めて薄く、単純そうなのだが何がどう混ざってこういう味になっているのかよくわからない。広島らしい柔らかい腰のあまりない麺、わずかに効いた黒胡椒、炒めた油の香ばしさ、これこれこれこれ、麺とスープの味でおむすびを1口食べてから野菜炒めをスープに浸して食べる。単体の野菜炒めだとしたら薄味すぎるのだが、そしてスープも通常のラーメンと比べたら薄味なくらいなのだが、一緒に食べると野菜の味が際立ってちょうどよくなる。豚肉には生姜の下味が効かせてあってやや濃い目、丁寧に脂がとってあるのかパンチはあるのに柔らかい。隣席にカレーの麺が来る。黄色いスープが表面張力という感じになみなみ注がれている。「紙エプロン持ってきますねー」女性店員さんが2人に配る。ここの店はレンゲがとても分厚い。口当たりはいいのだが分厚すぎてスープに麺と野菜片などを乗っけて口に入れようとするとうまく口に収まらない。そうだここのレンゲは分厚いんだよなそれが欠点ちゃ欠点なんだけどでも欠点というほどでもないわなあ、そうだったそうだったと思い出しながらキャベツとモヤシをしゃきしゃきしゃきしゃき食べる。お久しぶりーといいながらお客さんが入ってきた。まず男性、次に女性、最後にもう1人女性の3人連れ、「あらー、お元気です?」女性店員さんが嬉しそうに言う。うんうん、うんうんと男性客が頷く。女性店員さんがセルフサービスのポットから水を3つのコップに注ぎながら「それはよかったー」私が家族でこの店に来たときもこうして水を注いで席まで運んでくれる。「僕はやっぱり冷麺にしようかなあ」「へえ、冷麺?」「おいしそう」男性のお客さんはこの店を知っていて、女性2人は知らないらしい。「ここの冷麺は麺が細いやつ?」と女性のお客さんの片方が尋ねる。「細いですよー」と水を配りながら女性店員さんが答える。「あー、あの、硬いの?」「違う違う」「ああ、ううん、硬くはない、中華麺ですね」「僕は冷麺に決めた」「じゃあ私も」「うちのはねえ、おいしいですよ、冷麺。野菜もたっぷりで」そうか、野菜たっぷりの冷麺か、「お酢、お好みでかけてもらって」次は私もそうしようか、でもカレー麺も魅力的だ。カレー麺のスープとおむすびはそれはもう合うだろう。横目に、紙エプロンをつけた2人は向き合って熱心にふう、ふうと食べている。でもやっぱり肉野菜炒めが…お久しぶりーといいながら男性が2人入ってくる。「おお、ご無沙汰!」男性店員さんの声が弾んだ。「どうしとったん!」「ぼちぼーち」「変わらんじゃなあ」「歳とりました」「お互いさまよ、え、いつぶりかいねえ」「どうじゃったかいねえ」2人とも仕事中らしいがややカジュアルな服装で、1人はスポーツタイプのサングラスをかけている。カウンターに座る。「冷麺3つ! はい、いらっしゃい」女性店員さんも彼らに声をかける。「お久しぶりー、お元気そうで」「わしら前に来たん、いつじゃったかいねえ」「夜よね!」「そうそう、夜、夜…あっこで飲んだあとか」
 小さい店だ。カウンターが4席分に、4人掛けテーブル2つ、6人掛けが2つ、今テーブル席が3つ埋まりカウンターも半分、それでも私が知る限りこんなに昼時に人がいたことはない。それも雨の日の平日の昼休み前に…換気のためだろう開けられた窓から雨と車が見える。車はひっきりなしに通るが人通りは少ない。ぬか漬けに箸を伸ばすと、きゅうりが2切れと思っていたら1切れは瓜だった。皮も身も薄緑色をした瓜はこの時期だけのもの、噛むと歯が少し埋まるようにしなってからぱりんと割れ、夏そのもののような青瓜の香りがする、いいなあ、やっぱりぬか漬けやろうかなあ、お久しぶりーとまたお客さんが来た。男性2人、1人はジャケットを手に持ったスーツ姿でもう1人は作業着、作業着の人の方はとても若く見えもしかしたら10代かもしれない。「あらー、お久しぶりー!」「オーオー、ご無沙汰…」最後に残っていたテーブルに座りながらスーツの方が「こいつカレーラーメンね。俺は冷麺、大盛りー」「あ、自分カレーラーメンすか、ハイ」女性店員さんが「なん勝手に決めよってん。おにいさんなにがええん」「ア、ハイ、自分はなんでも、ハイ、カレーで、ハイ」「ええんよー、冷麺でもなんでも。食べたいもん言わんとー」「いやカレーで、ハイ、好きです、カレー、いつでも」私の後に来たお客さんはみな、久しぶりと言いながら店に入ってきた。「それでー、みんな元気なん?」「まあ、ねえ、なんつうか」「おお、おお、久しぶりじゃのう」「あ、大将、ご無沙汰してます」お久しぶりの、ご無沙汰の、その間にそれぞれどんな生活をして、どんなことを考えていたのか。どうして久しくなってしまったのか。おいしいものを食べると嫌なことを忘れる、でも、忘れ続けていたら多分そのおいしいものも消えてしまうのだ。スープを飲んでおむすびの最後のかけらを食べきゅうりを食べる。分厚い、重たいくらい分厚いレンゲでキャベツや肉片が沈んでいないか探る。水を飲み、ティッシュで口を拭い、少し悩んで内側に丸めてポケットに入れる。ごちそうさまでした、「はいどうも。800円ねー」1000円出す。お金トレイがないのでレジ台の机に直に置く。お釣りの200円はしかしそこには置かれず、手に持って中空に保持されているので手で受け取る。「またきてねー」またきます。テレビではもう全然違う話題をやっている。ごちそうさまでした、調理中の厨房にも軽く頭を下げて店を出る。アルコールスプレーを手に塗ってから戸口の傘立ての傘をとる。雨は小降りになっていて、傘を差すかどうか悩むような細かい細い雨で、でも眼鏡が濡れたら面倒だなと思って差す。向こうから来る人は傘を差していない。しばらく歩いてすれ違った人も差していない。道の反対側の人も差していない。私だけ差している。家に帰って防虫剤を入れ替える。青に白くおとりかえくださいと浮かんでいる使用済み防虫剤を全部捨てる。

庭

小山田浩子

2018/03/31発売

それぞれに無限の輝きを放つ、15の小さな場所。芥川賞受賞後初著書となる作品集。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小山田浩子

1983年広島県生まれ。2010年「工場」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2013年、同作を収録した単行本『工場』が三島由紀夫賞候補となる。同書で織田作之助賞受賞。2014年「」で第150回芥川龍之介賞受賞。他の著書に『』『小島』『パイプの中のかえる』など。

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