滝口悠生→松原俊太郎
先日の大雨では、京都もずいぶんな雨量だったようですが、お変わりなくお過ごしでしょうか。連日の猛暑も重なって、なんだか非常時といった感じが続いていますね。
前回のお返事、ありがとうございました。「わかりにくさ」についての話、松原さんの返信を読んで、僕が地点の舞台を観ながら考えているのは、「わかりにくさ」というより「わかるとは何か」、みたいなことなのだなと思いました。
地点の舞台では原作から抽出された表象をちりばめた背景とともに身振りを伴った声・言葉が必ず聞こえてくるので、それと原作をもとに自分でイメージをつくることができます。
と前回の返信にありましたが、受け取ったものをもとに自分でイメージをつくるのは地点以外の演劇でも、演劇ではなく小説でもきっと同じで、けれども受け手は作品に対して時間や空間の安定を求めすぎているのかもしれない→不安定だと「わかりにくい」と思ってしまうということなのかもしれません。そして、地点の演劇に「余白」があるかどうかは微妙なところのような気もするのですが(僕がうまくイメージできていないのかもしれません。舞台上の「余白」とはどんなものなのでしょうか?)、地点の舞台を観ているときの興奮は、自分が無意識のうちに志向している安定を崩されて、時空の裂け目みたいなものを見せてくれること、その裂け目に「劇」が発生する、うおー、みたいなことなのかもしれません。
観客(小説ならば読者)が、自分でイメージをつくる、というのは当たり前と言えば当たり前なのですが、その作業に親切であろうとする作品が多いがために、相対的に「不親切な」作品という印象が生まれてしまうということもあるのかもしれません。僕もその傾向に与する部分があるのかもしれず、作品内の時間や空間についてある程度は整合性のある、安定したものとして書こうとしている気がします。とか言うと僕の作品を読んだことのある人から、どの口でそんなことを言うのか、と言われそうなのですが……。
たしかに僕の作中では時系列は結構激しく行ったり来たりするのですが、基本的には安定した時間軸上で行き来しているだけで(だから時系列に整理し直すことはできるはずです、しないけど)、時間そのものを揺るがすようなことをしているわけではないんですね。どちらかというと、人が何かを思い出したり、語ったりする時に、その人のなかで時間や空間が均衡を崩す、ということに昔から興味があります。なので、事実性や整合性という意味でのリアリティよりも、人間はわりといい加減な感覚であるというリアリティの方をとる、という態度で書いています。そして、それを書くために、ベースとなる時空間をある程度安定させている、ということなのかもしれません。
そしてこれは僕が意識的に選んでいるものでもありますが、もしかすると小説という方法じたいの志向性が影響しているところもあるのかもしれません。小説という散文の形式は、そういう人間のいい加減さのリアリティに、とてもしっくりくるように思います。戯曲もまた散文ですが、もし自分が戯曲を書くとしたら、時間と空間に対する考え方は小説とはずいぶん違ってくる気がしますが、うーん、なぜなのでしょうか。
『茄子の輝き』は、書いてくださったように、連作という形をとっています。雑誌『新潮』の掲載時には、いずれ一冊にまとめる前提で書いていましたが、実際の経緯はもう少しややこしくて、もともとこの連作はデビューして間もない頃、『新潮』で書いた中編小説の原稿のうち、削って使わなかった部分を書き直したものです。いったんボツにしたものの、自分としては思い入れのあった場所や人物を、『新潮』とは別の雑誌から受けた短編の依頼用に書き直して発表しました(連作最初の二編「お茶の時間」と「わすれない顔」です)。で、そしたら続きが書けそうだったので、再度『新潮』で連作という形で掲載してもらうことになったわけです。
一度は『新潮』で陽の目を見なかった話だったので、最終的に『新潮』で形にできたのはなんだか結果オーライな感じです。ちなみに内緒ですが僕はこういう感じの原稿のリサイクルを結構やってます。『茄子の輝き』のなかで語られるエピソードそれぞれはわりとしっかり思い出せますが、それがどういう順番で語られていたかは、書き手の僕ももうほとんど思い出せません。つまり自分で本をめくっても、どこに何が書いてあるのかすぐに見つかりません。
連作という書き方は一挙掲載とも連載とも違って、一編一編の独立性がやや強い感じがあって(別にそうでないといけない決まりはないのですが)、書いている方としても各編どうしの関係性はやや謎です。連載と違い各編の連続性がゆるいので、高田馬場の駅周辺の説明とか、語り手が勤めている会社の説明とか、前提となる同じ話を毎回のように繰り返すことになり、本にする際に編集の方と、さすがに同じ記述が多過ぎではないか、と手を入れることも検討しましたが、それはそれでおもしろいと思ったので、結局そのままにしました。「コラージュ」と言っていただいたのは、その試みをひじょうにいい形で理解していただいたように思えて嬉しいです。
戯曲と小説の違いについて、上演されることと読まれることという前提の違い、そしてト書きと描写の違い、という二つの見方を示していただきました。なるほど。前者については、発声と黙読と言い換えられるように思います。となればこれは「声」の問題である、と言いたくなるのは、僕が近頃小説について考える時にいちばん気になっているのが、散文における「声」のことだからです。
たとえばこんなふうに考えてみると、松原さんはどういうふうに思われるでしょうか。戯曲のセリフは、声にされることを前提として書かれている。いわば声になることを待つ言葉である。一方小説の言葉は、いわゆる「地の文」も含め、すべてすでに発された声である。誰かが発した声が、誰かに聞かれたことによって小説の言葉、ナレーションはできている。ト書きと描写のことについても、戯曲のト書きに描写が入らない、というのはセリフが発声されることを待つ言葉であるのに対し、ト書きはそうではない(指示であり、いわばアクションを待つ?)という差があるからなのではないでしょうか。小説の文章は、発話部分も、「地の文」も、僕の感覚では同じ声で鳴っている感じがします。
僕はよく、会話にカギカッコを使わないのはなぜですか、と聞かれるんですが、使おうと思ってもなんかうまく使えない、というのがいちばん正直なところで、それには上記のようなことが関係していると思います。多分に感覚的な言い方だし、ちょっと戯曲についても自分の考えに強引に寄せすぎかもしれないので、ここはもしかしたら異論があるかもしれません。松原さんが、戯曲の文章、小説の文章の違いをどう考えておられるか、もっとお聞きしてみたいです。
濱口さんの『ハッピーアワー』は、(上映時間も含め)忘れがたい作品であり鑑賞体験なのですが、長くなったのでまた次回とかに。初期の是枝裕和監督の作品とかもそうですが、映画などで、決まった脚本がなく発されるセリフの独特な感触(演劇的な発話とも違うし、といって我々の日常的な会話とも違う)は、すごいおもしろいなと思います。僕が今回書いた、人間のいい加減さのリアリティ、ともたぶん似ていることです。
今日は久しぶりに過ごしやすい気温だったのですが、こんどは台風が来ているそうです。うちの近所の小学校は夏休みに入り、毎日賑やかだった子どもの声が聞こえなくなって、そのかわりにセミがたくさん鳴いています。
7月26日 滝口悠生
『演劇計画Ⅱ -戯曲創作-』
執筆中の戯曲第二稿は、9月1日公開予定!
委嘱劇作家:松原俊太郎、山本健介
演劇計画Ⅱアーカイブウェブサイト http://engekikeikaku2.kac.or.jp/
京都芸術センター http://www.kac.or.jp/
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滝口悠生
1982年、東京都八丈島生まれ。埼玉県で育つ。2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2015年、『愛と人生』で野間文芸新人賞を受賞。2016年、「死んでいない者」で芥川龍之介賞を受賞。2022年、『水平線』で織田作之助賞を受賞。2023年、同書で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、「反対方向行き」で川端康成文学賞を受賞。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『高架線』『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』『長い一日』『いま、幸せかい? 「寅さん」からの言葉』『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』(植本一子氏との共著)『ラーメンカレー』『三人の日記 集合、解散!』(植本一子氏、金川晋吾氏との共著)等。
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松原俊太郎
作家。1988年熊本生まれ。2015年、処女戯曲「みちゆき」で第15回AAF戯曲賞大賞受賞。2019年、『山山』で第63回岸田國士戯曲賞受賞。他の作品に戯曲「忘れる日本人」、「正面に気をつけろ」(単行本『山山』所収)、小説「またのために」など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 滝口悠生
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1982年、東京都八丈島生まれ。埼玉県で育つ。2011年、「楽器」で新潮新人賞を受賞してデビュー。2015年、『愛と人生』で野間文芸新人賞を受賞。2016年、「死んでいない者」で芥川龍之介賞を受賞。2022年、『水平線』で織田作之助賞を受賞。2023年、同書で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、「反対方向行き」で川端康成文学賞を受賞。他の著書に『寝相』『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』『茄子の輝き』『高架線』『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』『長い一日』『いま、幸せかい? 「寅さん」からの言葉』『往復書簡 ひとりになること 花をおくるよ』(植本一子氏との共著)『ラーメンカレー』『三人の日記 集合、解散!』(植本一子氏、金川晋吾氏との共著)等。
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