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私、元タカラジェンヌです。

2022年8月30日 私、元タカラジェンヌです。

第8回 夢乃聖夏(前篇) ぶれない星組男役――15歳で人生大転換

著者: 早花まこ

アンドレの失敗

 宝塚歌劇の新人公演は、若い生徒にとって挑戦の場だ。研7(7年目の生徒のことで、宝塚では所属年数を研究科○年と表す)までの生徒のみで上演する、宝塚大劇場と東京宝塚劇場とそれぞれ1回ずつしかない公演。新人公演での成功体験は大きな自信になるのだが、彼女は顔をしかめて思い出す。

 「舞台に負けた。お客様に呑まれてしまった…そう思ったよね」

 研6の時、「ベルサイユのばら」の新人公演で、彼女はメインキャストのアンドレ役に抜擢された。台詞や少し目立つ役は経験していたが、普段はほとんど、ダンスでは群舞の一員、お芝居も大勢で演じていた彼女にとって、大劇場にたった一人で立つなど初めての経験だった。見せ場のソロナンバー「白ばらのひと」で、舞台と客席の間にある「銀橋(ぎんきょう)」と呼ばれるエプロンステージに登場した時だった。目が眩むほど明るいスポットライトと、客席からの盛大な拍手が彼女に浴びせられ、一瞬、立ちすくんでしまった。

 「登場した途端のすごい拍手とライトに、『ハッ』って息を呑んじゃって。怖かった…」

 それは新人スターへのあたたかい応援の拍手だったが、当時の彼女には受け止め切れないほどの威力だった。一気に動揺して平常心を失った彼女は、「とんでもない歌を歌ってしまった」と振り返る。その後のお芝居もショックを引きずったまま、お稽古の成果が思うように出せず、成功とは言い難い新人公演だったという。

 しかし、この経験こそが、彼女を大きく成長させてくれた。少しでも出番の多い役を与えられると、彼女は、アンドレ役での「忘れられない悔しさ」を思い出した。

 「あのライトと拍手の圧力を、跳ね返せるようにならなきゃいかん! そう思って、お稽古するようになったの」

 夢乃(ゆめの)聖夏(せいか)さん。佐賀県多久市出身の彼女は、「ともみん」、「ゆめちゃん」と呼ばれ、抜群のスタイルとダイナミックな表現力で人気を博した。星組から雪組へ組替えとなった後、2015年に宝塚を卒業した。現在は福岡市で暮らし、3人の子どもたちを育てている。

 「今はもう、育児に追われてる疲れたお母ちゃんだよ~」とため息をついていた夢乃さんだが、福岡市内の広い公園に現れたのは、朗らかな笑顔が弾ける格好良い女性だった。

 「子どものお世話をすると視線はずっと下向きだから、猫背になっちゃった。一人で前を見て歩くっていうことは、もうほとんどないよ」

 その言葉を、「お母さんだなあ」と感慨深く聞いた。

記念受験のつもりが

 夢乃さんが生まれ育った多久市は、山々に囲まれた、自然豊かでのんびりとした所だ。県庁所在地である佐賀市までは、当時は電車で40分ほどかかった。祖父母、両親、姉2人と兄の、とても仲良しの8人家族。大自然と大家族のなかでのびのび育った夢乃さんは、ソフトボール部と駅伝の活動と高校の受験勉強に一生懸命取り組む、充実した中学校生活を送っていた。

 彼女が初めて宝塚歌劇に出会ったのは、小学校6年生の終わり頃だった。関西に住んでいた親戚に誘われて、月組公演「CAN-CAN/マンハッタン不夜城―王様の休日―」を観劇した。女性が男性の役を演じるなんて珍しいなと驚いたものの、特に興味を惹かれはしなかったそうだ。

 その後、親戚の人に「ともみちゃんは背が高いから、宝塚を受けてみたら」と勧められた。同級生のなかでも特に身長が高いことがコンプレックスだった夢乃さんが、初めて宝塚に心を動かされた瞬間だった。

 「なんだか面白いかも、というのが受験の動機。完全に、記念受験でした」

 宝塚歌劇団に入団するための宝塚音楽学校の入学試験は、「狭き門」として有名だ。合格倍率は平均して約25倍、15歳から18歳までの女性が最大4回、試験を受けることができる。このチャンスに人生をかけてほとんど毎日、バレエや声楽のレッスンに通う、そんな生活を何年間も続ける受験生もいる。

 夢乃さんはというと、中学校1年生から週に一度、クラシックバレエを習い始めた。1回1時間のレッスン、つまり1ヶ月に4時間の練習だ。他の人よりバレエのレッスンが足りなかった自覚のある私でさえ、1週間に5時間ほど練習していたことを思えば、宝塚合格にはほど遠いように感じる練習量だ。

 中学校の授業が終わると部活に出て、そこからようやくバレエ教室に向かう。母が持たせてくれるのは、茹でたとうもろこし。それにかぶりつき、丸々1本を食べながらバスに1時間ほど揺られる。

 「あんまり熱心な生徒じゃなかったから、先生に名前を覚えてもらえなかったの」

 ソフトボール部に入っていたためショートカットだった彼女は、きっちりしたおだんごヘアをめざして髪の毛を伸ばし始めた。

 「宝塚は一次試験くらい受かるだろうって、なんとなく思ってたんだよ。倍率が高いとか、試験会場の雰囲気とか、何も知らなかったからね」

異色の宝塚受験生

 当時の自分を振り返る彼女の言葉は、「イモ具合が、凄かった!!」。

 いよいよ試験の当日、受験生たちはやる気が漲り、髪の毛を一本の乱れもなくシニヨンにまとめていた。対して夢乃さんは中途半端な長さの髪の毛を、ヘアピンをばってんにして頭一面に留め、他の受験生たちから浮き立っていた。

 バレエの試験では振り付けについていけず、みんなと反対方向にジャンプしたかと思えば、回転するステップで目が回ってしまった。呆れた顔で微笑んだ審査員の先生に微笑み返して、「ああ、不合格だ」と思ったという。それでも結果はまさかの合格、二次試験に進むことができた。

 二次試験当日、試験会場まで乗った電車で乗り物酔いをしてしまった夢乃さん。急行や特急といった速い電車に乗ったことはなかったので、

 「すごいスピードで、外の看板がびゅんびゅん…人も多いし、気持ちが悪くなっちゃった」

 朝から疲れ切って、緊張もせずに試験が終了した。

 当時は、三次試験の面接のみ私服着用だった。面接までに受験生の大半が脱落してしまうのだが、そんなことなど知らない夢乃さんは、受験の募集要項にあった通り私服の用意をしていた。いつもお姉さんのおさがりを着ていた彼女は、宝塚の面接のためであろうと、新しい服は買ってもらえなかった。母が仕方なく持たせてくれたのは、大学の入学式で姉が着たグレーのツーピースだった。

 「その服をスーツケースに入れて、新聞紙をかぶせてさ。単純に、お姉ちゃんの服が着られるのが嬉しかったんだよね」

 他の受験生が清楚で可愛らしい「勝負ワンピース」を着ている中、ぶかぶかのジャケットと長いプリーツスカートを着た夢乃さんは、意気揚々と面接を受けた。

誰も予想していなかった合格

 軽やかに階段を駆け上がるように、夢乃さんは宝塚に合格を果たした。宝塚に入る気などなく、受験中はホテルに高校の春休みの宿題を持って来ていたくらいだったので、

 「人生が、これ以上ないってくらい、大きく変わりました」

 合格発表の直後には音楽学校の入学説明を受け、授業に必要な物を購入しなくてはいけなかった。他の進路を選ぶ余地を与えない、宝塚の強気な姿勢には圧倒されるが、そのために受験生たちには親や受験スクールの先生が付き添っている。夢乃さんの母も付いて来てくれたのだが「合格するはずはない」と、一次試験が終わると京都観光をして多久市へ戻ってしまっていた。一人で合格発表を見に行った夢乃さんが、途方に暮れたのは言うまでもない。公衆電話で山のように10円玉を積み上げて電話をかけ、母に合格を伝えたという。

 夢乃さんの宝塚合格の知らせにびっくり仰天したのは、ご両親だけではなかった。佐賀県から宝塚の合格者が出たのは、実に15年振りだったのだ。バレエ教室の先生が大慌てで新聞社に連絡して、

 「あれよあれよという間に、佐賀新聞の記事になっちゃった」

 この記事を見て、「私も宝塚をめざそう!」と決意したのが、後の宙組トップスター・朝夏(あさか)まなとさんだという。「私の記事のおかげでトップスターが生まれたって、凄くない!?」と、夢乃さんはにやりと笑う。

涙の日々が始まった

 高校進学から一転、しかも合格から1週間後には親元を離れての寮生活を送ることになり、迷いや不安はなかったのだろうか。

 「いや、もう不安しかないよ。迷いはないけど、不安だらけさ」

 宝塚音楽学校では芸事の鍛錬だけではなく、礼儀作法や団体行動を厳しく叩き込まれることで有名だ。当時、予科生(音楽学校1年目の生徒のこと)は、1学年上の本科生から徹底した指導を受けた。やるべきことや覚えることに追われ、携帯電話を持たずに宝塚へやって来た夢乃さんは、家に連絡することもできなかった。

 ようやく母へ電話をしたのは、寮生活が始まって1週間ほど経った夜中の3時。話し声が漏れると本科生に厳しく叱責されるため、布団を被って押し入れに籠り、同期生に借りた携帯電話を握り締めた。驚いて電話に出た母に頼んだのは、

 「黒いフエルト、送って!」

 寮の廊下で足音を立てないよう、スリッパの裏に黒いフエルトを貼る決まりがあったのだ。自由に買い物に出かけられない状況で、フエルト1枚すら佐賀県の実家から送ってもらうしかなかった。2日後に速達で送られて来た小包を開けると、夢乃さんが頼んだ黒いフエルトが入っていたが、

 「これ、おばあちゃんのお習字の下敷きやん」

 深夜3時の電話とその内容に、娘の置かれた状況を察したのだろう。数日後に実家から届いたのは、真新しい携帯電話だった。

 夢乃さんの心は、「とんでもない世界に来てしまった」という思いでいっぱいだった。両親や同期生に弱音を吐く余裕もなかったという。

 学校から寮への帰り道、小蝿がたくさん飛んでいる宝塚大橋を歩きながら涙ぐんだ。空に飛行機を見るたび、胸がうずいたが、故郷に逃げ帰る選択肢はなかった。冬になるとオリオン座が浮かび、綺麗な星を眺める一瞬だけ心が安らいだことは忘れられない。今でも毎年オリオン座を見ると、あの頃の切ない気持ちが蘇るそうだ。

独自の練習方法で苦手を克服

 本科生になると、ようやく芸事に集中する時間ができた。ここで夢乃さんは、経験年数が少ないバレエの壁にぶつかった。バレエの授業は、生徒の技術のレベル別にAからDまでの「課外」に分けられていた。夢乃さんはD課外、バレエの初心者が基礎を習うクラスだった。

 大変厳しい先生の集中指導を受けた彼女は、バレエのステップどころか、寒い窓際でひたすら腹筋のトレーニングをさせられていた。少しでもへこたれると「そんなんだから、あんたは万年D課外よ!」と叱られ、悔しさに歯軋りする日々。なんとか先生を見返したい一心で、夢乃さんは独自の練習法を編み出した。生徒全員が一緒に受けるバレエの授業で、彼女は自らお願いしてA課外生の間に入れてもらった。バレエの上手な人を穴が開くほど見つめて、真似をしたのだ。

 「レッスン経験は違っても、同じ授業を受けるんだから、私だって同じ分だけ受け取れるはず。そう思ったの」

 「くそー、見とけよ!」と先生への憎まれ口を胸に、休日だけではなく昼休みも返上でバレエの練習を続けた結果、卒業する頃には見事に成績が上がっていた。「これで努力を認めてくれるはず」と思ったが、先生からのお言葉は「私のおかげよ!」。またしても悔しさがこみ上げたが、バレエの授業で根性が身に付き、上手な人から学べることを知ったのだ。「確かに、先生のおかげとも言えるな」と、感謝の気持ちを抱いたという。悔しさが原動力になってバレエが上達した経験は、後の彼女を支える学びとなった。

 2001年、宙組公演「ベルサイユのばら」で初舞台を踏んだ夢乃さんは、星組に配属された。

 受験当時「おイモみたいだった」と自らを語る彼女だが、「合格の理由かもしれない」と思うことがひとつだけあるという。

 公演前の衣装の採寸で、多くの生徒の衣装合わせをしているお衣装部さんに、「あんた、手も足もえらい長いなあ」と度々言われた。この時、それまで少しも自覚しなかった自分のスタイルについて、意識するようになったそうだ。すらりとした手足を武器に、夢乃さんは若手男役の中で頭角を現していく。

星組の男役になるために

 当時の星組は、上級生から下級生まで様々な男役が芸を競い合っていた。舞台の技術とマナー、礼儀や上下関係に大変厳しく、熱の入った指導で組がまとまっていた。

 「10のことを言われたら、次の日に10、出来てもだめなんです。15、20、やって当たり前」

 注意されたら反省して、次からどうするべきかを、自分で考えて自分で行動する。そうすれば、たとえ失敗しても成長できる。星組のその教えは、夢乃さんの「諦めない気持ち」を育てていった。

 下級生の男役は「星組ジョッパー」と呼ばれるズボンでお稽古をする決まりがあった。ベロア生地で、足首が窄まったシルエット…つまり、ださい。「ジョッパーを穿いて格好良く見せられなきゃ、一人前の男役になれない」というわけだ。どんな格好だろうと誰よりも素敵に見せたいと、夢乃さんは研究に励んだ。

 演出家などの先生によるお稽古の他に、生徒だけで行う自主稽古というものがある。星組には、有名な自主稽古のやり方があった。男役だけのダンスナンバーを、下級生が一人ずつ踊ってみせるのだ。上級生の前では数人で踊るだけでもとても緊張するものだが、それをはるかに上回る恐ろしいお稽古だった。トップスターも組長さんも目を光らせる中、言葉に出来ない緊張感に震えながら、夢乃さんは必死に踊った。大階段をまっすぐ降りるだけの振り付けでも滝のような冷や汗をかき、当然、とても厳しいダメ出しが飛ぶ。しかし、それはつまり上級生が自分のお稽古時間を割いて、芸のコツや技術を惜しげもなく教えてくれる場だった。この自主稽古は夢乃さんに、宝塚の舞台に立つ上で大切なことを教えてくれた。

 「いつだって、舞台の端っこで踊る時も、そのぐらい緊張感がなきゃだめなんですよ。大階段のてっぺんでも2階の客席からはよく観えるから、1列目の人と同じ気持ちで踊らないといけない」

 何より、「自分が上手ければ良いのではなく、下級生を置きざりにしない」という星組の上級生の方々の愛情を感じ、ここで頑張ろうという気持ちが漲っていった。

 「すっごい怖かったけどね!」

 上級生から「それで舞台に出て、格好良いと思う?」と常に厳しく問いかけられた経験は、夢乃さんに、客観的に自分を見る力をつけてくれた。

 2学年上の若手スターに、後の星組トップスター、柚希(ゆずき)礼音(れおん)さんがいた。顔立ちも背格好もよく似ていたため、柚希さんと夢乃さんは頻繁に間違えられた。なんと、夢乃さんを応援する方が、柚希さんにファンレターを渡してしまうこともあったそうだ。下級生に間違えられた柚希さんは気を悪くするどころか、「ともみ~、お手紙もらって来たで~」とにこやかに届けてくださった。研3の頃から新人公演で柚希さんの役を演じる機会が増えていったが、夢乃さんに特別な気負いはなかったという。

 「ちえさん(柚希さん)は、ずば抜けた実力と人気のスターさん。雲の上の人だからこそ、私は私だ!って思って頑張れたんです」

 遥か上の存在であり、苦楽を共にして舞台を作った仲間でもある柚希さんは、その後夢乃さんが上級生になってもずっと尊敬する男役であり続けた。

 新人公演の度に全力で唐の寿王や江戸末期の無宿人、頭の切れるカリブ海の情報屋など、様々な役に挑戦した夢乃さんだが、実はお芝居が苦手だった時期があったそうだ。

「囚われの男」の夢

 星組に入ったばかりの頃は、ダンスや歌と違い、「役を演じる」のがどういうことか、さっぱり分からなかった。お芝居が大嫌いで、演技も下手だったと自らを振り返る。

 そんな夢乃さんが不思議な転機を迎えたのは、研5で出演したシアター・ドラマシティ、日本青年館公演「龍星―闇を裂き天翔けよ。朕は、皇帝なり―」だった。

 「囚われの男」役を演じた彼女は、牢に囚われて苦しむ人の動作も心情も理解できず、お稽古場では毎日のように厳しいダメ出しをされていた。

 ある夜、彼女は夢を見た。彼女自身がどこかに拘束されて絶望し、もがき苦しむ夢だった。翌日、夢で感じた気持ちのまま、お稽古場で「囚われの男」のお芝居を演じてみた。昨日とはうって変わって、夢乃さんの演技には豊かな感情がこめられていて、先生も上級生も驚きながら褒めてくれたそうだ。このことがきっかけとなり、少しずつ「演じる」コツをつかんでいった夢乃さんは、気がつけばお芝居が好きになっていた。

 彼女は印象的な夢を見て、舞台の糧となったり心が救われたりした経験が何度もあるという。

 「今は、寝る直前に子どもとお喋りしたことが、必ず夢に出てくるの。面白いよ」

 夢の不思議さはさることながら、その夢に意味を見出して現実を変えられるのは、彼女の研ぎ澄まされた感性のなせる技だろう。

舞台の先頭に立つ

 夢乃さんが特に憧れたタカラジェンヌは、元雪組の彩吹(あやぶき)真央(まお)さんだった。歌、ダンス、お芝居の全てが洗練され、抑えた表現で大人の深みを見せる舞台に心惹かれた。

 「私自身のカラーとは違ったけど、違うからこそ素敵だと思ったんです」

 そして、元花組トップスターの真矢(まや)ミキさん。強い個性を持ちながら多彩な色合いを表現できる、観客を飽きさせない魅力に引き込まれた。

 「私も、夢乃聖夏しかない!っていう、ぶれない個性を持ちたいって思いました」

 では、夢乃さんの目標は、なんだったのだろうか。

 「私ね、『バラタン』に入りたかったんだ」

 バラタンとは、「ベルサイユのばら」のフィナーレナンバー(本編のお芝居が終わった後の、短いレビューシーン)のひとつで、男役スターたちがフリルのついた黒とゴールドの衣装で激しく踊る、宝塚ならではの格好良いシーンだ。研1の時から、「『バラタン』に出るためにはスターにならなくては」と熱意を抱いていたという。また、黒燕尾を着た男役のフィナーレナンバーの、前面で踊るピックアップメンバーも目標としていた。

 具体的な目標を掲げたことで、夢乃さんはどんな公演にも全力で取り組み、自分が理想とする男役をめざして努力を続けることができた。

 夢乃さんが、重要なチャンスである新人公演の主演を果たしたのは、2007年「エル・アルコン−鷹―」のティリアン・パーシモン役だった。

 「主演が決まった時はもう、心臓が飛び出るかと思いました」

 2年前の新人公演のアンドレ役での失敗を思い出し、本番の舞台を冷静にイメージしてお稽古に励んだ。難しい曲が多い作品だったため、苦手な歌への不安はあったが、思い切り自由にお芝居ができることに大きな喜びを感じた。

 「それに、みんなの先頭に立って舞台を引っ張っていけるのがすごく楽しかったんです。トップスターさんと違って、たった1日だから出来たことだけどね」

 堂々と新人公演の主役をやり遂げた彼女だったが、

 「終演後に色んな上級生の方から『お芝居は良かったけど、歌が酷かったよ。もっと頑張ろうね…!!』って言われて。はい、ごもっともです!」

 厳しいアドバイスを真摯に受け止めた夢乃さんは、事実、この新人公演をきっかけに意識的に歌に取り組むようになり、演技やキャラクター性を活かした歌い方が得意になっていった。でも、もう人前では歌いたくないと、夢乃さんは苦笑いを浮かべる。

 「今は毎晩、子どもたちに子守唄を歌ってる。一番はじめに眠るのは夫だけどね」

 個性派男役スター、夢乃聖夏さん。熱く、豪快に、星組の男役スタイルを確立していた彼女は、2012年に思いがけないターニングポイントを迎える。大好きな星組から雪組へ、組替えの辞令を受けたのだ。

(続きは単行本『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』でお楽しみください)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

早花まこ

元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
note https://note.com/maco_sahana

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