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私、元タカラジェンヌです。

2023年8月30日 私、元タカラジェンヌです。

特別篇 妃海風(前篇) 夢に向かって猪突猛進! 「なりたい自分に、私はなる」

著者: 早花まこ

あの人気連載が帰ってきました! 元宝塚雪組の早花まこさんが、元タカラジェンヌたちにインタビュー。彼女たちの宝塚時代の喜びや葛藤から、卒業後の「セカンドキャリア」までをレポートした、「私、元タカラジェンヌです。」。同連載は、『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』と改題、2023年3月に刊行されました。そのヒットを記念して、元星組トップ娘役の妃海風さんをゲストにお迎えした、特別篇を公開いたします。

彼女の宿題

 「可愛い!」「素敵です!」。カメラのシャッターが切られるたびに、周りのスタッフから歓声が上がる。これまで9名の元タカラジェンヌの方々を取材してきたが、外見も所作も美しい彼女たちの撮影では、いつもこのような声援が思わず上がる。だが、被写体がこう返してきたのは初めてだ。

 「もっと言って!」「可愛い、もっとください!」

 弾ける笑顔と明るさに、屋外でも彼女にだけライトが当たっているかのように感じられた。宝塚歌劇の舞台にいた時と変わらない、圧倒的な陽の雰囲気を放つ。初めて深く会話する方を前にした私の気負いは、少しずつほぐれていった。

 宝塚歌劇団の娘役という「職業」は、かなり特殊だ。外見上も、目に見えない所にも「宝塚らしさ」という枠組みが強固に存在している。パステルピンク、リボン、花柄、フリルのスカート…宝塚の娘役らしい可愛くて清楚なモチーフに憧れ、入団を目指す人も多い。しかし彼女は、入団当時、他の娘役と同じ外見をしていたら個性が埋もれてしまうのではと考えていた。「そう思ったところで、正直に言ってまだどういう娘役になりたいか分かっていなかったんですよね」と、必死だった当時を振り返る。在籍していた星組のプロデューサーから鋭い言葉を投げかけられたのは、ちょうどそんな時だった。

 「あなたは何を目指しているのか、考えてください。それがあなたの宿題です」と。

 何を指摘されているのか、即座にピンとくるものがあった。ショートパンツや、ダメージジーンズ。メイクは、当時の女性の間で流行していた黒いアイシャドウやベージュのリップできりりとした表情を描く―これが私の個性とアピールしていたつもりだったが、ここで彼女は己に問いかけることとなった。

 「私は何を目指しているのか」と胸の中で繰り返すうち、子供の頃に夢中で観ていた宝塚歌劇の舞台と、ピンク色のドレスを着て優しく微笑む可愛い娘役の姿が心に蘇ってきた。それは、タカラジェンヌ「妃海風(ひなみふう)」が真のスタートを切った瞬間だった。

 こうして彼女は、宝塚歌劇団に入団して2年が経つ頃に、自己プロデュースを始めた。

 「妃海風は、ショートケーキが好き」「妃海風は、ピンク色のワンピースが好き」「妃海風は、楽しいおしゃべりが好き」

 インタビューを始めると、すぐにこんなキーワードが飛び出してきた。これは、彼女が「妃海風」を作るために集めたいくつものフラグメントだ。どんな娘役になりたいのか。どのような人として生きていきたいのか。彼女は、なりたい「自分」を自ら作り上げていった。しかし、理想の人物像は決して彼女の心と切り離されたものではなかった。

 「嘘の自分を作り上げても、すぐに行き詰まる」と直感していたから、自分自身とかけ離れた理想像を目指さなかったそうだ。

 「私は、ただ『自分が本当に好きなもの』を明確にして表に出していったんです」

 そう語る妃海さんには思い詰めた様子はなく、清々しい笑顔を浮かべていた。それはかつて宝塚歌劇の舞台で観た、光を放つような彼女の舞台姿を思い起こさせ、懐かしさを覚えた。

自分を変える、自分を作る

 大阪府吹田市出身の妃海さんは、「ふうちゃん」や「ゆうか」の愛称で親しまれた娘役だった。2009年に第95期生として歌劇団に入団後、星組に配属され、明るい笑顔といつも全力投球の舞台姿が多くの人気を集めた。

 2015年から2年間、(ほく)(しょう)(かい)()さんの相手役として星組トップ娘役をつとめ、2016年に卒業。テレビ番組のレポーターや数多くの舞台を経験し、活躍の場を広げてきたわけだが、妃海さんはいつも、目の前に乗り越えなければならない壁が現れると、自己とまっすぐに向き合い、自分の中に深く深く潜っていったという。これまで彼女の舞台を観て感じた天真爛漫な印象からはちょっとした乖離があり、その歩みに強く興味を惹かれた。

 「自分を変えよう」と一大決心をした妃海さんは、さらにある先生の「あなたはピンク色が似合うと思う。この言葉を信じて、可愛いファッションを試してみて」という意見に背中を押され、腹を括った。クールで格好良いイメージだった外見を一新し、ピンク色の服やヘアアクセサリーを身に着け、仕草まで可愛らしさを意識したのだ。

 突然のイメージチェンジに戸惑った周囲の人たちから「どうしたの?」と笑われても、妃海さんの心は折れなかった。

 「進みたい道がはっきり見えたから、誰になんと言われようと夢に向かおうって、心を強く強く持ちました」

 なりたい自分を目指して努力し続ける彼女を見た周囲の人たちは、だんだんと「可愛らしい妃海風」を応援してくれるようになった。手応えを感じたことで「妃海風という人物を自分自身で構築していかなければ」と、ますます強い決心を固めたという。

 自分を変えるのは、容易いことではない。変化は不安だし、慣れている楽な状況に戻りたいという甘えもある。それらの障壁を、妃海さんは軽々と飛び越えた。「可愛いものは似合わない」と思い込んでいただけで、本来の妃海さんは、ピンク色や優しげな花柄が好きだった。そう気が付いたのは、彼女が「今の私では、思い描いた宝塚の娘役になる夢に到達できない」という現実から逃げずに、自己を大改造する覚悟を決めたからだった。それは、不安よりもわくわくする変化に思えたそうだ。

 「これからは本来の自分らしさを出していく。そこに、キラキラエッセンスをパッパ!って振りかけると、新しい本当の妃海風が出来上がりって感じです」

 最初は無理をして身に着けていたピンク色の小物やファッションが、だんだん好きになり始め、やがて自宅はピンク色のインテリアだらけになった。そこでくつろいでいる自分に気が付いた時には、「私って極端すぎる!」と、思わず笑ってしまったそうだ。服装に似合った立ち居振る舞いが徐々に板につき、数年後には「可愛らしい妃海風」が、周りの人たちに自然と受け入れられていた。

 キラキラエッセンスの効果は絶大だったようだ。宝塚らしさと自分らしさのどちらも大切にしようと意識して舞台に立つうち、少しずつ活躍の場がもらえるようになっていく。芸事の技術を磨きつつ、「次の公演では台詞をいただけるように」「少人数で踊るグループに入ることが出来るように」と、小さな目標を立て前進していった。

 なりたい自分をイメージする、その「実践編」といえる、こんなエピソードも話してくれた。

 宝塚歌劇の作品の中で出番の多い役や重要な役には、恋人役など「相手役」と言われる存在がいることが多い。「相手役さん」がいる役に憧れていた彼女はまず、ハンカチを用意したという。それは、ペアダンスを踊る時など、自分のメイクで男役の衣装が汚れた際、それを拭くために使うハンカチなのだ。

 「そうやって、夢を叶えるイメージをいつも膨らませていました。夢を掴むために考えて行動する時間が、私は大好きでしたね」

 厳しい練習に明け暮れるだけでは終わらず、心がときめく未来をまっさきに用意して、そこへ向かって走り出す。それが「妃海流」とも言える、夢の叶え方だ。その方法は一見すると無謀にも感じられるが、彼女はただ憧れていただけではない。どんな努力をすれば成果に繋がるのか、自分の性格や考え方を分析して努力を惜しまない。入団して3年、そんなふうに、それまでは直感だけを頼りに走り続けていた彼女が、だんだんと深く思考するようになっていく。

舞台に立つ喜びとは

 どれほど自己分析を深めても、妃海さんはまだまだ下級生だった。舞台経験も芸事の技術も未熟な時は思い通りの演技ができず、自信を失って落ち込むことも多々あったという。

 舞台の上では明るい笑顔が印象的だった彼女だが、「お稽古場では悩んでばかりで、苦しかったですね」と眉間に皺を寄せて語る。これは私自身も、私の周囲の元タカラジェンヌの方々の多くも同じだった。自らの欠点と向き合って努力を続けるお稽古期間は苦しい毎日なのだ。

 いくら練習を重ねてもパフォーマンスに自信が持てず、「公演の初日を迎えるのが怖い」と思うこともある。だが、妃海さんはここが違って、「お客様に会えるのが嬉しくて初日が待ち遠しい」と思っていたという。舞台に出るたびに緊張していた私などは、この言葉に驚きを隠せなかったのだが、妃海さんは「私は『人がいる』環境が好きなんですよ」とこともなげに微笑んだ。

 緊張して力を発揮できないどころか、苦手だった歌の高音が観客の前に出るとすんなりと歌えたり、苦心した役の解釈に迷いが無くなったり。お稽古場では、より良いパフォーマンスのために、欠点を指摘される時間がどうしても長くなる。でも観客は、「今日の舞台」を心から楽しみに劇場へ足を運ぶ。上質な演技をお観せすることは当然だが、全力で舞台に立つタカラジェンヌを丸ごと受け止めてもらえる感覚を味わうと安心感がこみ上げたそうだ。

 「そんなお客様の存在を感じると、パズルの最後のパーツがパツッて、はまる感じがするんです」

 初日の幕が上がったら、千秋楽まで向上心を持ち続けなくてはならない。そう意識した上で、「今日が最高だと思える舞台をお届けするんだ」と思っていたという。

 「舞台に立つ時は『今の時点で合格を出せるパフォーマンスをしている』っていう思いでいました。そうじゃないと、幸せな気持ちで観ているお客様に失礼だと思っていたんです」

 観客の前に立てば、お稽古場で感じていた不安や緊張は消え去り、「今ここにいることが幸せ、その気持ちのぬくもりが100%伝わるように、とだけ思っていた」と目を細めて語る。

 舞台に立つ喜びを全身で感じながら邁進する日々のなかで、どこか漠然と抱いていた「トップ娘役になりたい」という、大きな夢。その夢が目標に変わるきっかけとなった出来事があったという。

 それは彼女が、年に一度行われる、東京公演中の組以外の各組のスターが出演する公演「タカラヅカスペシャル」に参加した時のことだった。その頃、同期生はすでにトップ娘役として活躍していて、その同期生の後ろでコーラスや群舞をつとめながら、「くやしいな」という気持ちがかすかに湧き上がったという。終演後、劇場の外で彼女を迎えたのは、応援してくれる人たちだった。彼女の楽屋出までずっと待っていて、笑顔で手紙や差し入れを渡してくれた。

 「私は大きな見せ場もないコーラスの一員だったのに、皆はこうして待っていてくれる」

 妃海さんが感じたのは、なんだか申し訳ないような、やるせない思いだった。自分がスターであるか否かは関係なく応援してくれるファンを前に、「申し訳ない」という感情を抱くのはおこがましいことかもしれないとも思ったそうだ。でも、未熟な自分を心から応援してくれる方々に、いつか「妃海風のファンで良かった」と思って欲しいと胸が熱くなったという。

 この時、「妃海風が夢を掴むこと」は大切な誰かの気持ちに応えることでもあるのだと気づき、彼女はよりいっそう意欲を燃やした。

「可愛くなれない!?」初ヒロイン

 目標となったトップ娘役になるための登竜門の一つが、新人公演のヒロイン役だ。

 新人公演とは、研7までの生徒だけで本公演と同じ作品を、宝塚大劇場と東京宝塚劇場で1回ずつ上演する公演のこと。妃海さんがこの大きなチャンスを掴んだのは、入団して4年目の作品「めぐり会いは再び 2nd〜Star Bride〜」だった。だが、「大喜びは出来なかったんです」と、彼女は切実な表情を浮かべて訴えた。

 妃海さんが演じるシルヴィアは、ピンク色のフリルとレースを纏った可愛いヒロインだったのだ。いつかは挑戦したい役柄だったけれど、可憐な娘役になるため研究途中だった彼女にとって、自分とはまだかけ離れたヒロインだった。

 「髪型なんて、もうゴリゴリのツインテール。似合う自信は、全くありませんでしたよ…」

 愕然とした当時の気持ちを思い出したのか、大きなため息をついてそう語る。

 忘れられないほどショックだったのは、本役の(ゆめ)(さき)ねねさんが、ご自身の鬘を試しに被らせてくださった時のことだ。憧れの大先輩の可愛らしい鬘を、うきうきと試着したのだが

 「やっぱり、全然! 似合わなかったんです」

 結局、妃海さんは自分に似合う別のデザインの鬘を着用して新人公演の舞台に立った。新人公演での初ヒロインとしての演技は成功したものの、「私はまだ可愛らしい役柄を演じられない」とがっくり落ち込んでしまったという。

 しかし、とにかく前進あるのみの彼女が、ここでへこたれるわけがなかった。「絶対に、大きなリボンとツインテールが似合う娘役になりたい」と、ますます奮起したのだ。

 驚いたことに、彼女はしばらくの間、その新人公演の写真を持ち歩いていたという。「可愛くなれなかった私」から決して目を逸らさず、これでもかというほど自分自身を戒める。ストイックなのに明るさを失わない、妃海さんの強い意志が感じられる。

一生懸命舞台に立つ

 新人公演の初ヒロイン役を終えた後、妃海さんはあるオーディションのメンバーに選ばれた。演目は、2013年のシアタードラマシティ、日本青年館公演「南太平洋」。その主演である専科の(とどろき)(ゆう)さんの、相手役のオーディションを受けるチャンスが巡ってきたのだ。

 轟さんは、妃海さんが子供の頃に夢中になった作品、「(しゅん)(おう)()」の主演スターさんだった。その轟さんの相手役をつとめられるかもしれないという夢の実現に向かって、彼女の心は燃え上がった。

 オーディションのライバルは皆、新人公演や小劇場公演でヒロイン経験のある娘役ばかりだった。彼女たちと比べて自らの実力と経験が足りていない自覚があったというが、諦められるはずはなかった。

 「渡されたオーディション課題を、徹夜で練習しました。役への愛情と熱意だけは誰にも負けないと思ってた」

 オーディション当日、朝からずっと、ヒロイン役に集中し続けた。待機時間にお喋りをしてゆったりと過ごす娘役さんたちをよそに、一言も発さず作品の世界に没頭した。

 この時、ヒロインのネリー役を射止めたことは、「今振り返っても、宝塚音楽学校に合格した時よりも何よりも、人生で一番嬉しかった出来事ですね」と、明るく言い切る。

 ヒロイン役に決定してから最初にしたことは、轟さんのこれまでの公演の映像を見返すことだった。夢のような現実がなかなか信じられず、映像を見て「ああ、この方の相手役を演じるんだ」と自分に言い聞かせていたという。他の有力なヒロイン候補者を抑える強さと対照的な、可笑しいほど純粋な想いが伝わってくる。

 熱意は充分過ぎるほど持っていた妃海さんだったが、初めて演じる小劇場公演のヒロイン役は、熱い気持ちだけで成功するものではなかった。言うまでもなく、舞台とは、華やかな出番の裏に大変な努力と時間が隠されているものだ。それはどんな役でも同じことだが、主要人物なら当然、台詞や所作の比重は大きくなり、今までとは比べ物にならないほど重大な責任を負うことになった。発声や動きのひとつひとつに悩み、呼吸の仕方すら分からなくなってしまったという。

 やるべきことに追われる彼女に、轟さんはしっかり向き合い、時には厳しく演技を指導してくださった。貴重な教えを真剣に受け止めつつ、妃海さんが常に感じていたことは「轟さん、格好良い!」。苦労の渦中でもときめきはどうしても止められない、そんな彼女らしさがお稽古を乗り越える励みになった。

 この公演を通して、轟さんが繰り返し、妃海さんに掛けてくださった言葉がある。

 「いつも、3つのお言葉をいただいていましたね。甘えない、諦めない、それと…なんだっけ」

 大切なお言葉をすっかり忘れてしまい、焦りながらも笑いが止まらない妃海さん。一生懸命さゆえ、どんなことをしても憎めない朗らかさが溢れる。ふいに笑いを収めると、彼女は真剣な眼差しを浮かべて語った。

 「轟さんは私に、『今すぐに結果を出さなくて良い。甘えずにコツコツと努力を続けていけば、必ず成果が出る』って教えてくださいました」

 「答えをすぐに知りたい」「今、出来るようにならなきゃ」と結果に向かって急ぎ過ぎてしまう妃海さんは、轟さんの言葉によって冷静な気持ちで地に足をつけて行動する意識が生まれたという。「私の弱さを見抜いた轟さんだからこそ」の言葉は、今も自らの指針としているのだと微笑んだ。

 そして、無我夢中でお稽古に励む彼女を支えてくれたのは、轟さんだけではなかった。ずっと同じ舞台に立ってきた星組の仲間は皆、妃海さんのまっすぐな性格を良く分かっていた。「猪突猛進のふうちゃんを、なんとか支えなくては」と、新人ヒロインを全方位からサポートしてくれたそうだ。その優しい気持ちがカンパニー全体に広がり強い団結力が生まれたと、熱い日々を振り返りつつ、「でも、それって私が言うことじゃないか!」とうなだれる妃海さん。その大真面目で超ポジティブな性格を前にすると、思わず笑ってしまう。彼女の元気さや前向きな気持ちは周囲に伝わり、カンパニーの推進力になったのだと思う。

 必死にお稽古を重ねた末に、初日の幕が開いて観客の前に立った時、彼女は緊張と力みがふっと抜けるのを感じた。「実力は足りないかもしれない。でも今、ここまで辿り着いた」という、心から納得できる達成感が静かに湧き上がってきたという。

 体当たりで挑戦した初ヒロインの舞台を「たくさんの課題が浮き彫りになった公演だった」と振り返る。しかし、彼女を驚かせたのは、観客からの応援の声だった。観劇した人たちから「妃海さんって、一生懸命舞台に立っている様子がとても素敵」といった褒め言葉を多くもらったのだ。プレッシャーに押し潰されまいとひたすらお稽古に没頭し、心のままに精一杯の力を出し切って演じた結果だった。

 「舞台に立つって、全身全霊で、命を懸けてやることなんだ。そう学びましたね。しかも、それが毎日続くんです。簡単な気持ちでは、舞台に立つことなんてできない」

 そうして初めて心底実感した「一生懸命、舞台に立つ」という仕事は、しかし必ず観客の心に届くのだと、彼女は知った。

 ネリー役を通して成長し、ここからさらにステップアップしなくてはと思っていた妃海さんは、次の公演で転機となる役に巡り合う。大作フレンチミュージカル「ロミオとジュリエット」の新人公演で、乳母役にキャスティングされたのだ。実は、「新人公演ではどうしてもヒロインのジュリエットを演じたい」と熱望していたのだが…。

乳母が教えてくれたこと

 ジュリエットの乳母は、明るく賑やかで、物語を大きく動かすキーパーソンだ。図々しい言動の中にも茶目っ気やあたたかさを表現しなくてはいけない、難役でもあった。

 希望したヒロイン役に選ばれなかったことに落胆した妃海さんだったが、お稽古が始まるとその思いは覆された。本公演で乳母を演じる()(しろ)れんさんから、忘れられない学びを得たのだ。

 宝塚歌劇の公演で、本役さんは「お手本」として新人公演で同役を演じる生徒に役作りや技術を教えるものだ。でも美城さんは、ご自分よりずっと下級生である妃海さんの前で少しも格好付けることはなかった。

 「私、今すごく悩んでるんだ」「もし良かったら、私のお稽古に付き合ってくれないかな」

 あまりにもストレートな言葉に驚きつつも、「貴重な機会だ」と思った彼女は、美城さんと一緒に乳母役のお稽古をするようになった。

 かねてから「どうしてもこの役を演じたい」と願っていた美城さんは、早朝から深夜まで乳母役を追求し続けていた。演出家の先生に厳しく叱られて悩む姿まで妃海さんの前にさらけ出し、懸命にお稽古に取り組んだ。

 「美城さんが命を注ぎ込んで作った乳母役が初日の舞台に上がって、お客様の拍手を受けているのを見た時、すごく、すごく感動したんです。ああ、これが舞台のすごさなんだって思いました」

 その感激は、「新人公演でこの役をただ自己流にやるだけではなく、本役である美城さんの思いを大切に演じよう」という決心に変わった。一人の役者がもがき苦しみながら体力と気力の全てを出し切る「役を作る過程」を見せていただけたことは大切な学びだったと、強く語った。

 あたたかい包容力と豊かな表情で、物語の要である乳母役を演じ切った妃海さんの新人公演の演技は高く評価され、その表現力に注目が集まった。年嵩でふくよかな体型の乳母役は、外見だけ見れば、ジュリエット役を演じたかった新進娘役にとって喜ばしい役とは言えないだろう。だが、彼女が積み重ねてきた努力に加え、美城さんの思いを受け継いだことが、その魅力を印象づけたと思えてならない。

 2人にしか分からない思いを共有した美城さんは、妃海さんにとって今でも尊敬する上級生の一人だ。宝塚で出会う人たちから役者としてのあり方、どう生きるかを学び、自己分析をさらに深めていくこととなった。

後篇に続く

妃海風(ひなみ・ふう)
1989年生まれ、大阪府出身。元宝塚星組トップ娘役。宝塚卒業後は舞台やテレビなど幅広いジャンルで活躍。
「妃海風 愛され♡コミュサロン」 https://lounge.dmm.com/detail/6100/
インスタグラム @fuhinami_official

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

早花まこ

元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
note https://note.com/maco_sahana

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