不合格になることを考えていなかった
宝塚歌劇団に入るためには、宝塚音楽学校の試験を突破しなくてはならない。15歳(中学3年)から18歳(高校3年)までの女性が最大4回のみ受験することができる。その合格倍率は平均約25倍という、狭き門だ。宝塚受験のための予備校では、バレエと声楽だけではなく面接の練習まで行われ、夢を抱いた多くの若者がレッスンに励んでいる。限られたチャンスをつかもうと、人生を左右する試験に挑む受験生が、自信を失い恐ろしいほどの緊張に襲われるのは当然という状況だ。
「私、ぜんっぜん緊張しなかったんですよ」
そう言う彼女に、思わず理由を尋ねた。
「それがね、私、自分が不合格になることは考えていなかったんです」
決して自信満々だったわけではないのだと、彼女は必死に説明を続ける。彼女曰く「ド厚かましかった」その思いは、はっとするほど純粋だった。ただ「宝塚に入りたい」と願い、試験を受けている間も「いよいよタカラジェンヌになれる」と溢れんばかりの喜びに満ちていた。そんな当時の自分に苦笑いを浮かべ、ふいに彼女は目を細めた。
「それぐらい、夢だったんですよ」
容姿端麗、歌と踊りの技術、適性があるか。そんな、宝塚音楽学校の「募集要項」に書かれているようなことを意識したことはなかった。眉毛が繋がっていて全く洗練されていない姿だったのにね!と、彼女は吹き出した。
「私には、宝塚に入ることしか、夢がなかったから」
屈託のないその笑顔に、希望ではち切れそうだったかつての少女の姿が重なったような気がした。
タカラジェンヌになるしかない
中原由貴さん。東京都世田谷区出身の彼女は、「煌月爽矢」の芸名で、2016年まで宝塚歌劇団月組の舞台に立っていた。その名の通り、明るく爽やかな雰囲気をまとい、華のある立ち姿と演技で人気を集めた男役だった。「ゆうき」の愛称で親しまれた彼女は、宝塚を卒業してから本名での活動を始めた。現在は単身で台湾へ渡り、俳優、モデルとして活躍の場を得ている。
夢を見つけたらまっしぐら、「できるかできないか」は後で考える……というよりも、「できる」しか考えない。どこまでも前向きな中原さんが、なんとしても叶えたい夢に出会ったのは、小学校6年生の時だった。
きっかけは、宝塚ファンだった母に連れられて観劇した1998年の月組公演「WEST SIDE STORY」だった。初めて観た宝塚の虜になった中原さんは、劇場からの帰り道で早くも「絶対に、ここに入る!」と決意を固めていた。小学校から習っていたバレエのレッスンにいっそう力を入れるなど、宝塚への憧れを募らせ、高校生になると声楽も習い始めた。
とはいっても、15歳ですぐには受験しなかった。「学業が優先」という両親の考えに同意したからだ。彼女ははじめの2回の受験を見送り、勉強に専念した。
「格好良いエピソードに聞こえますよね? それが、学校の成績はちっともよくならなかったんです」
笑っては失礼だと思ったが、当の本人が大笑いしているので、すっかりつられてしまった。
このままでは宝塚への夢と勉強のどちらも中途半端になると焦った彼女は学力アップをすっぱりと諦め、両親との話し合いの結果、宝塚受験に踏み切った。
ただひとつの夢に向かって瞳を輝かせた少女の熱意は、未来への扉を開ける力となったのだろう。初めての受験で合格を果たした中原さんは、タカラジェンヌへの一歩を踏み出した。
最強の予科生
当時の宝塚音楽学校は、上下関係がとても厳しいことで有名だった。予科生(1年目の生徒のこと)は、1学年上の本科生から日頃の態度や礼儀作法、お掃除の仕方について徹底的な指導を受ける。生まれて初めての環境に心底驚いた中原さんだったが、彼女らしさは隠せなかった。
「私の長所でもあり、短所でもあるんです。超が付くほど楽天的な性格」
どん底まで落ち込んでも、一晩寝たらすっかり忘れる。中原さんなりに心から反省するのだが、翌朝には元気いっぱいで登校した。しかしそれは本科生から見ると、「厳しく注意をしても全く反省しない生徒」だった。
「真剣に叱った次の日、私が何事もなかったかのような表情で現れるんです。『なんで、そんな平然としてるの……』って、さらに叱られてました」
自己分析によると「何をやっても見つかって、叱られるタイプ」。失敗のたびにしょんぼりと落ち込み反省するのにそれがちっとも伝わらず、気がつけば同期生の中で上位3人に入るほど叱られやすい人になってしまった。
当時の彼女が最も悩んでいたのは、まさに「反省の気持ちが、他者に伝わらない」ことだった。「どんなに真剣に考えていても、その思いを人に伝わるように表現できなければ意味がない」と思い知らされたという。
「それでも、わざとらしく神妙な顔をするのも違う気がして……。それは上級生になっても、結構悩んでました」
舞台というのは、1人がミスをすると全体に迷惑がかかる仕事場だ。音楽学校では芸事で競い合う前に、「自分さえ失敗しなければ良い」という考えを改め、全員で足並みを揃えることの大切さを学ぶ。これは「個性を尊重すること」と同じくらい、舞台では必要なことなのだ。
そんな状況で失敗を繰り返した中原さんだったが、少しも責めずに助けてくれた同期生に、今でも深く感謝していると語る。なにしろ、どれだけ叱られても彼女は毎日嬉しかった。
「もうすぐ私は、タカラジェンヌになれるんだ」
落ち込むこともあったものの少しもへこたれることなく予科生生活を終えると、本格的に芸事に集中する本科生の日々を過ごした。「とりあえず目立ちたい」と意気込んだ卒業試験では、それまでの順位を大幅に上回り、48人中8番目という好成績で入団を果たすことになる。
月組でも試練は続く
2006年の宙組公演「NEVER SAY GOODBYE」で初舞台を踏んだ中原さんは、月組に配属された。最下級生として頑張り始めた中原さんだが、まだまだ苦労は尽きなかった。
「劇団生になっても、私はやっぱり失敗ばかりで、もうはちゃめちゃに叱られてたんです」
音楽学校とは違い、たとえ一年目でも舞台に立つ以上、自分の役割を完璧に果たさなくてはならない。覚えること、やるべきことに追われた中原さんは、努力の甲斐なくミスを連発してしまうこともあったという。中原さんはいつも、男役として舞台に立てる喜びが表情に出過ぎていたようだ。下級生がみんな真剣な表情をしているのに、彼女だけはにこにこ顔。緊張感が足りないとみなされ、「態度が悪い」と叱られてしまうこともあった。落ち込んでばかりのそんな毎日が変化したきっかけは入団から2年目、バウホール公演「ホフマン物語」に出演したことだった。
組には70〜80人の生徒がいるが、バウホール公演などの場合は30人ほどの出演者に絞られる。そうすると、大勢で行動している時には分からなかったそれぞれの人となりを深く知ることができ、信頼関係がより強まることがある。
「生意気で反省しない子」だと思われていた中原さんだが、公演の下級生として懸命に働き、楽しそうにお稽古に熱中する姿から、その素直な人柄が理解されたのだろう。だんだんと、上級生から親しく声を掛けられるようになった。また中原さんも、緊張を解いて上級生と会話をすると、「叱られるのは嫌われているからではなく、成長させるためなんだ」と分かったという。「気がつくの、遅すぎですよね」と照れながら当時を振り返る中原さんだが、それからは上級生から芸事について教えてもらうことが増え、舞台にさらなるやりがいを感じるようになった。
この公演を機に月組に馴染んでいく彼女を一番近くで支えてくれたのは、音楽学校時代と同様、やはり同期生だった。仲が良いと評判だった月組の92期生は、中原さんにとって特別な仲間だ。
出会う前から同期愛
宝塚ファン時代、中原さんが熟読していたのが、「歌劇」や「宝塚グラフ」という宝塚の機関誌だった。記事の中で度々語られる、「同期生は大切な仲間、どんな時でも支え合うもの」というエピソードが、中原さんの心に強く響きしっかりと根付いた。当時、まだ受験もしていなかったのに、未来の同期生を大切に思っていたというから驚きだ。
月組に配属されてからずっと、中原さんが特別に意識していたことがある。ことあるごとに、「私は同期が大好き」、「いつもみんなで助け合おうね」と言葉に出して周囲に伝えたのだ。
お稽古や公演中は、生徒それぞれが真剣だからこそ、意見がぶつかることもある。特に、団体行動をとる機会が多い同期生同士は、感情的に接してしまうことも多い。受験生時代から同期生の大切さを感じていた中原さんは、そんなふうに同期生がぶつかりあうところを見ると悲しい気持ちになったそうだ。
「私は、同じ組になった9人の同期と、一生の絆を作りたかったんです」
そう語る中原さんの瞳は、力強く光っていた。
同期の中には華やかで勢いのある男役さんが何人もいたが、仕事上で優劣を感じても、彼女たちとの関係が悪くなることはなかったという。
「誰かより出番が少なくても、それは私の力が足りないから。他の人のせいではないので、私はみんなと仲良しのままでしたね」
どんなに大変な状況でも、お互いに責めたり、文句を言ったりしたくはなかった。辛い時ほど労わりあって、団結しなくては。中原さんは、「同期って最高!」と熱い思いを繰り返し言葉にすることで、みんなが笑顔でいられる場を作ろうと思った。
「私は素晴らしい同期生に恵まれただけで、しっかりまとまったのは私の力ではないですよ」
そう話す中原さんだが、月組の92期生は結束力が強くて仲良しだと言われるようになったのは、「失敗してもいつも明るいムードメーカー」な中原さんの存在が、一役買っていたのだろう。
猛特訓の「闇が広がる」
中原さんがずっと苦手意識を持っていた歌と向き合うことになったのは、研4(研究科4年目のことで、宝塚では研○と表す)の時だった。大作ミュージカル「エリザベート」の新人公演で、ルドルフ役に抜擢されたのだ。
新人公演とは、その公演期間中一度だけ上演される、研7までの生徒のみの公演だ。オーストリアの皇太子ルドルフ役は、確かな歌唱力と繊細な演技が求められる。若手男役にとって華やかな実力の見せ所だったが、中原さんが感じたのは「私に務まるだろうか」という不安だった。必死にお稽古に励んだものの、初めての歌稽古では最初の三拍子のリズムすら全く歌えず、先生に呆れられてしまった。
お稽古を重ねても、思うように歌えない。演技も動きも課題だらけで、いくら練習しても時間が足りなかった。決定的な出来事として覚えているのは、新人公演の本番間近、通し稽古を見学した月組の上級生が、彼女の歌と演技に唖然としていたことだ。「このままではまずい」とますます焦ったが、自分だけではどうすることもできない。さすがの中原さんも「一晩寝たらすっかり忘れる」ことはできなかった。
救いの手が差し伸べられたのは、その翌日のことだった。本公演の役替わりでルドルフを演じていらした青樹泉さんが、見せ場であるナンバー「闇が広がる」を自ら歌い踊り、一緒にお稽古をしてくださったという。文字通り「手取り足取り」の丁寧なアドバイスで、多忙な上級生がそこまでしてくださるのは、滅多にないことだ。
「私の演技がものすごく下手過ぎて、青樹さんがものすごくお優し過ぎたということです」
そう言って、中原さんは懐かしそうに笑う。切実さと健気な努力がいじらしい、放っておけない人。それが、中原さんだったのだろう。
夢をつかんだ日
そんな中原さんには、宝塚に入団した時から確固たる目標があった。
「私、絶対にスターになりたかったんですよ」
宝塚の生徒は、それぞれが夢を持っている。トップスターをめざす人、個性的な役がやりたい人、重厚な演技ができる脇役になりたい人……。
「私の場合は、新人公演の主役は絶対にやりたいと、それを目標にしていました」
彼女は、ファンの頃に憧れた「宝塚の男役スター」という存在をはじめから目指していた。そして、目標に向かって確実に努力し続けた中原さんは2011年、念願だった新人公演の主演という大きなチャンスをつかむ。演目は「バラの国の王子」。これは「美女と野獣」を原作とした作品で、主人公は当然、野獣役だった。単純に思える役柄でも、簡単に作り上げられる役などないとは言われるが、それでもかなり特殊な役柄であったことはいうまでもない。
大きな被り物と重量感のある衣装をまとって、歌い踊る。観客から顔全体が見える瞬間は王子様の姿になるラストシーンの5分だけだったと、中原さんはおかしげに語った。
当時の月組トップスターは、霧矢大夢さん。中原さんが「神懸かった実力を持った方」と話すほど完璧な舞台をつとめる男役さんだった。このままの自分では、とても霧矢さんのお役は演じられない……中原さんは朝から晩まで、休日も毎日、練習に没頭した。
「夢みていた『主役をやれる喜び』なんてありませんでした。ただもう、必死なだけ!」
そんな彼女を誰よりも助けてくれたのは、他ならぬ霧矢さんだった。特殊な衣装の着こなし方から声の出し方、舞台メイクも指導してくださった。自らの未熟さを思い知ったという中原さんだが、新人公演本番の舞台では後悔がないよう全力を出したいと臨んだ。
「できることは全てやりきったという思いは、ありました」
新人公演が終わった後に霧矢さんから掛けられた言葉が、中原さんは今でも忘れられない。
「ゆうき、めっちゃ下手やったよ。でもな、挨拶はすっごい良かった」
中原さんが褒められたのは、カーテンコールでの挨拶だった。お芝居が終わった後を褒めるなんて、辛辣にも聞こえるが、この言葉には真実のあたたかさが含まれている。
新人公演の当日、「あと数時間後に、私が主役を演じるんだ」と、とてつもない恐怖に震えたという中原さん。本役さんに追いつけない自分から逃げることなく、体当たりで大舞台に挑んだ……そんな彼女を、霧矢さんは一番近くで見守っていらしたのだろう。未熟でも全力を尽くした中原さんの舞台挨拶は、観客の心を震わせたのかもしれない。霧矢さんからもらった言葉は今でも宝物なのだと、中原さんは心底嬉しそうに微笑んだ。
大きな目標を達成した中原さんは、男役スターとして技術も輝きも増していくスタート地点に立っていた。さらに希望を燃やしていたと思いきや、新人公演の主演を果たしたとたんに迷い始めてしまったという。
新人公演の主役を経験すると、生徒はそれぞれのステップへ進んでいく。歌やダンス、得意分野を極める人。名脇役と言われるようになる人、トップスターを目指そうと、少しずつ実績を重ねる人。中原さんは、次の夢を決めかねていた。
「これからの長い人生をどう歩むかということも、考えていました」
大舞台を経験した彼女は、1人の人として成長し始めていた。
(続きは単行本『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』でお楽しみください)
東京都世田谷区出身。元宝塚歌劇団男役スター。
宝塚卒業後は単身台湾に渡り、モデル・ダンス講師として活躍している。
ツイッター @Yuuki_Nakahara
インスタグラム @Nakahara.yuuki
この連載が単行本になりました!
早花まこ『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』
宝塚という夢の世界と、その後の人生。
元宝塚雪組の著者が徹底取材、涙と希望のノンフィクション!
早霧せいな、仙名彩世、香綾しずる、鳳真由、風馬翔、美城れん、煌月爽矢、夢乃聖夏、咲妃みゆ。トップスターから専科生まで、9名の現役当時の喜びと葛藤を、同じ時代に切磋琢磨した著者だからこそ聞き出せた裏話とともに描き出す。卒業後の彼女たちの新たな挑戦にも迫り、大反響を呼んだインタビュー連載、待望の書籍化!
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早花まこ
元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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- 早花まこ
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元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
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