「ご飯のお供」とは何か?
まず定義をしておきたい。何を以って「ご飯のお供」とするかだ。
例えば「バター」はどうだ? バターだけだとダレるのでそこに醤油を垂らす場合もあるが、ならば「醤油」も“お供”であるのか?
「いや、あれは調味料だろう」。そういう声もありそうだ。そうなると、調味料と「ご飯のお供」を分ける必要も出てくる。曖昧だったことが、定義することによって輪郭がはっきりすることは新鮮だったりしまいか。実は「ご飯のお供」は、未だはっきりとした定義付けがされていないのかもしれない。
あるいは……
「飯にお供など必要ない!」
と、怒鳴りつけてくるようなゴリゴリの「メシ保守」もいるだろう。「何かに頼って自立出来ないメシはメシではない、今すぐメシ憲法を改正すべきだ!」と強弁されても困る。ここは穏便に、「日本のご飯は世界一」とか何とか言いくるめて、議論を進めていこうと思う。
「調味ギア」のフル活用
議論を前に進めるために、私は「道具」という概念を提示してみたい。
料理に使う調味料の類も「道具」だし、ご飯を途中からチューンするのも道具的だと思うのである。
「食べるラー油」なるものが登場して以来、調味料と「ご飯のお供」の境界線がいい意味でぼんやりとしてきた。他にも、料理研究家や地方物産の努力もあいまって、今や「これさえあればご飯何杯もいける!」という触れ込みのものは爆発的に増えている。しかし、それらを総称して、括れる新概念がない。だから「道具」なのである。
道具=ギアである。
私は楽器を弾くから、例えばギターの音色を変えたりするのに用いるエフェクター類(音色変換器)を普段から使用する。で、その「道具」の有用性にありがたみを感じている。結果、生音の良さも、音色変換後の良さも知ることになり、誠に両得なのである。これを「ご飯のお供」にも応用したいと考える。
その「ギア」一つで、そのもの本来の良さが引き立ったり、便利だったり、主役になったり、脇役になったり、主客転用も可能。そこをふまえれば、「ご飯」という絶対的な存在を、キッチンという製作途中の場からでも、卓上という完成品が出された場からでも、アシストするツールなのである。それらを総称して「調味ギア」としたい。
私などは、まるでギタリストが足下にエフェクター類を並べるがごとく、卓上に様々な「調味ギア」たちを並べて楽しんでいる。
どんぶりに盛られた銀色に輝くお米を一口いただく。まずはプレーン。何も付けず、載せず、そのままをいただき、ご飯本来の味を確かめる。頬張りながら鼻から空気を抜けば、そのふくよかな甘味が体の芯を通り抜ける。スタンバイ完了。そんな日はあらかじめ、おかずを適当にしてある。例えばハムエッグ。そのぐらいで良いのである。
まず、海苔の佃煮の瓶詰めを手に取り、スプーンでそいつを掬い、おもむろに飯になすりつける。その時の気分は、書道パフォーマンスをしている長渕剛だ。
次に、鮭のフレーク。わずかにマヨネーズも付けてしまおう。それを今度は焼き海苔で包む。鮭という伝統的な北海道食材とマヨネーズという新興勢力の融合――それはあたかも、北島三郎とGLAYが一緒のステージで共演しているかのようだ。海苔がまるで大泉洋に見えてきた。
もうこの段階で、一杯のどんぶり飯の終わりが見えてきてしまう。悲しい。しかし、ここからが本番。最後までダレることなく、集中したい。そこでハムエッグだ。目玉焼きをご飯の上に載せる。あらかじめ半熟状態の黄身を割る。そこへもう一度、海苔の佃煮を落とすのだ。それをやや焦げかかったパリパリ状態になった白身で包み、口へと運ぶ。同じ要領で焼けてベコベコになったハムで包み、ガブリとやる。
先に挙げたギターのエフェクターでも言えることだが、「ブースター効果」というものがある。音をブースト(増幅)させて、さらに迫力を増す方法だ。ご飯の甘味に、卵の黄身の甘味佃煮の甘味、トロミが足し算的に加算されていく。そこの味帯域がいっぱいになっているところに、パリパリの白身という歪み(ヒリついたヤバさ)が加わり、ロックな味音像が出来上がる。
口の中は大騒ぎ、甘味同士が反響し合ってハウリングを起こしている。ライブの中盤以降のハイライトに来るアゲアゲ曲のようだ。そのままギターをへし折るように箸を割って、食卓というステージを降りる粗暴な衝動に駆られるが、それはしない。なぜなら、ここはロックのステージじゃないからだ。
そしていよいよラスト。白米の美しい部分はなくなり、絵面はやや哀しみを帯びている。でも、それは添い遂げた女房のようなもの。なんとも愛おしいじゃないか。
私は、むんずと「ほりにし」の万能スパイス(辛口)を掴み、その古女房と化した、愛しのご飯にふりかける。「待たせたね!」だ。さらにごま油でドレスアップさせ、焼き海苔を粗野に塗し、お茶をかける。「さぁ! 恋人時代に戻って出かけよう!」。老いた夫婦がするフルムーン旅行茶漬けの出来上がりだ。
どうだろう。調味ギアを都度変えていくことで、有限にして無限な脳内イメージが広がる感じがしないだろうか。
米は偉い、でも……
ご飯を汚すことを嫌う人は多いと思う。それを否定するつもりはない。また、多出している「ご飯のお供」系の瓶詰めが、一度使ったあと、興味を無くされ、冷蔵庫でレガシー化しているケースも頻発していると聞く。
「結局、白いご飯が一番」は正論だ。でも正論でしかない。また、美学や道徳的な根拠を振り回して、「メシ汚し派」を非難するのはやめていただきたい。それを「ギア」という観点で考えた上で、要/不要を決めればいい。人間は道具の好き嫌いはあっても、道具からは逃れられない生き物だ。
また、それを道具として考えた場合、冷蔵庫でレガシー化させることの罪深さは考えた方がいいだろう。何でも試したい移り気な気持ちはわかるが、道具は使い込んでこそ。夜中の冷蔵庫で「調味ギア」たちが悲しんでいるかもしれない。トイ・ストーリーの玩具たちのようにである。
思うに、「ご飯」の位置は時代とともに変化してきた。その昔は生産高をお米の量で計っていたのだし、いよいよ食うに困り果てた大型戦争の時代や、その後の復興期にはどれほど米の価値が高かったか。それが、他国とのお付き合いで輸入するようになったり、また、それに負けじと、ブランドを作って、国内の生産者同士で競争し合ったりしてきたわけである。それでも尚、我々日本人は「米=ご飯」を尊いものとして敬ってきている。それが前提だ。
でも、改めて言うのは何だが「ご飯のお供」はないんじゃないかと思うのである。あくまで立てるべき“お殿様”としての「ご飯」という感じがしてしまう。それにくっついて下足番をしているような「お供」はいかにも封建的すぎる。
ご飯は確かに偉い。でも、それは持って生まれた彼の役割だし、個性だ。ならば、私が言う「調味ギア」にも、役割があり、個性がある。米も「調味ギア」も等価に存在して、それぞれの役に立つように、偶さか知遇を得てその場を共にしているのだ。そう、まるでバンドの一員同士のようにである。
最高の「米バディ」
私は一緒に食卓を盛り上げるその「調味ギア」、さらに、ご飯を引き立てながら欠かすことが出来ない「ご飯のお供」のことを、もっと平等な感じの「米バディ」(マイバディ)と名付けたいと思う。
忘れられない「米バディ」を最後に書いておこう。それは「煮たおこうこ」だ。
似たものはいくらでもあるのに、同じものは未だ食べたことがないそれは、私の母親の得意料理でもあった。これが最高にご飯が進むのである。ただ、これが若干ややこしい。
山梨に「地菜」と言われる、地元産の菜っ葉がある。これの古漬けが必要だ。
地菜は、アブラナ科のカブ菜で地方品種。これが長野に行けば「野沢菜」となるし、他の地方でも違う呼び名はあるそうだ。ちなみに言っておくが、山梨で「それって結局、野沢菜でしょ」と言った場合、夜道には気をつけた方がいい。
とにかく、その地菜を一度漬物にしたものをベースにする。これをサラダ油で炒める。出汁にハラワタをとった煮干しを入れる。そして、砂糖、酒、みりん、醤油で味をつけ、結構多めにしらす干しと、鷹の爪を入れる。仕上げにごま油と、白ごまを塗せば完成だ。
炒めた古漬けが、何故「煮たおこうこ」となるかはわからない。でも、山梨ではご飯も「炊く」ではなく「煮る」と言うし、火を入れてぶくぶくと水分が煮え立っていれば「煮る」になるのだと思う。「おこうこ」は「お香々」とも書く。方言でもあるし、由緒のある言葉だ。スーパーでも売られているし、多少のレシピの違いはあれど、各ご家庭でも普通に作られている。しかも、「地菜の油炒め=煮たおこうこ」は特産指定品で、ちゃんと認証基準まである。言ってみれば、一級品の「トライブ・メシ(郷土料理)」なのである。
これを地元の人間は淡々と食べているのである。そう、目を黒く光らせながら。
紹介したいけど、知られたくない、そんなもの。ありがちだけど、何かが違う食べ物。そんな「内緒な食べ物」が一番「米バディ」として良いと思うのだがどうか。
これまでの「ご飯のお供」は、「広く認知」が至上命題だったろう。それも良いと思う。でも、一方でどこか「秘密感」がある食べ物も欲しい。「俺とお前だけの秘密」。「バディ」には必要な要素だと思う。これに「煮たおこうこ」は最高だと思う。
*次回は、8月25日金曜日配信予定です。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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