第25回 パンと親父と満腹社会
著者: マキタスポーツ
書を捨てよ、メシを食おう――。有名店を食べ歩くのでもなく、かといって大衆酒場ばかりを飲み歩くのでもなく、たとえ他人に「悪食」と言われようとも、あくまで自分の舌に正直に。大事なのは私が「うまい」と思うかどうか。情報や流行に背を向けて、己の「食道」を追究する――これ即ち、土俗のグルメである。自称「食にスケベ」な芸人が、「美味しい能書き」を存分に垂れるメシ論。
朝の親父の絵ヅラ
実のところパンが好きではなかった。
現に今も好きではない。というか、パンのことが“頭にない”と言うほうがしっくりくる。普通「好き」ならば、何かしら常にそのことを考えているはずだが、そうではないのは、つまり愛情がないということ。なので、決して嫌いでもない。ただ、いつ食えばいいのだ、パンというものを。
あゝ、つい言ってしまった……。この時点で、せっかくこの文章を読んでみようとしていた人たちがやる気を失ったことだろう。それほど世の中にはパン好きが多いということも私は知っている。でも、待ってほしい。言えば言うほど、追いかければ追いかけるほどに、私の能書きがつまらないものに見えていたとしてもである。教えて欲しいのだ、あれをいつ食えばいいのかを。いわんやパンに向けた燃え上がるような情熱を、だ。
私が、なぜこうも皆が大好きなパンに冷徹になってしまったかをお話ししよう。それは生育環境に原因がある。父親のせいだ。
私の実家はスポーツ用品店を営んでいた。忙しい自営業、その開店準備前に親父はいつもせっせとトーストを食べていた。ミルクと砂糖をたっぷり入れたコーヒーにそれをズブズブと浸し、雫の一滴も落とさぬよう、赤子に口づけするかのごとく愛しそうに唇を窄め、瞳を閉じて、優しく、でも最後の一口は大胆にパクリとやる。その時の、ある意味で美しい無駄のない動きは、まるで深海魚が獲物に静かに近づき、表情ひとつ変えずにガブリとやるようだった。
だが、この彼の、一切の無駄を削ぎ落とした、忙しい朝のモーニング・ルーティンには、問題がひとつだけあったのである。それは彼が禿頭だったから。しかも彼は普段カツラを着けている。つまり、人として“完成前”の状態の時に食べていた食物が、パンだったのだ。
ちなみに今は亡き父親の名誉のために言っておくが、彼は根が真面目な、素朴な男だった。仕事をバリバリするような人間じゃなかったが、やらなきゃいけないことはきっちりとやり、子煩悩で、車とスポーツが大好きな普通の父親だ。でも、あの“絵面”はダメだった。
母親が作った白米がメインの和朝食を無視し、傍にはいつでも被れるようにカツラを置き、ステテコ姿で、ダイニングで立ったまま食べる。そのあまりに勝手で、無防備で、こだわりのない大人の様子は、いつ頃からか母親からも見放されていて、息子の私には格好悪く映っていた。
「それは父親のせいであって、パンのせいじゃない」
確かにそうだ、パンのせいじゃない。ついでに言えば、カツラのせいでもない。しかし、「食のイメージ」とは恐ろしいもので、パンに対しては、それが「公の人として完成前の状態で父親が食べているもの」というイメージを私が引きずっていることは間違いない。
例えば、それが「マスクマン」のプロレスラーだったら、マスクこそが彼のアイデンティティなのであり、リング外でそれを着けていなければ、そういう時にこそ毅然と、凛としていてほしいものじゃないだろうか。
私の父親は「カツラマン」として、グダグダだった。パーティグッズ並のクオリティのカツラがそれを物語っていた。それでも「周りを欺けている」と思い込んでいたのだろうか? 否、違う。みんなが「あそこのおじさんはカツラよ」と言わない、そんな周囲の思いやりにいつしか胡座をかいていたのである。つまり、ダメなものを、ダメな風に食べている典型として、パンが刷り込まれてしまったのだった。
そんな親父の発言で引っかかっていることがある。
「パンは丁度いい」
というものだ。併せて「朝飯に和食は面倒臭い」とも言っていたことが思い出される。母親(妻)の苦労をなんだと思っているのか……。
パンの優等生的イメージ
さて、パンである。パンのイメージは優等生的な感じがする。パンを前にすると、皆「良い人」に見えるのは気のせいだろうか? 比して白米に「不良」のイメージはないのだが、パンには特別なイメージが付加されてやしまいか。
例えば人が「わー! パン屋さんだ!」という時、なぜ「さん」付けなのか。あるいは「パン屋さんの前を通るだけで幸せな気分になる〜」と言うが、それは本当なのだろうか? 私は別にパン屋さんの前を通っても平常心のままである。それよりもボクシングジムの前を通ると興奮する。「わー! ボクシングジム屋さんだ!」である。あるいは定食屋の前を通ると幸せになるのだし、野球グラウンドで少年たちが弁当を食べていると涙が出てくる。そんな私は「良い人」に見えるだろうか? 私にはわからない。
世間は、パン屋と歯医者で溢れている。それが私の認識だ。普段積極的に意識を向けていないからこそ、それらを認知した瞬間にギョッとする。それまで鏡文字、つまり文字を左右反転して認識していた子供が、急に「え? ひょっとして逆?」と思う瞬間ぐらい、パラレルワールドに迷い込んだ気分になる。
もっと言えば、パンなんて食べものは、頬張るや私の大切な口の中の水分を持って行き、むせかえるようなバター臭に、何やら発酵臭もしたり、フワフワしたかと思えば、ごっつかったり、甘かったり、塩っぱかったり、とにかく自分にとってはそんなものだ。
いやいや、そんな悪様に言うが、「前回はモスバーガーに対する想いを書いていたじゃないか?」と思われるかもしれない。しかしハンバーガーに使われるそれは、私にとって「パン」ではない。あれはあくまで「バンズ」と呼ばれるものであり、ハンバーグなどを挟んでいただくため便宜上使われている、それらを食べやすくするための何かだ。たとえるならば、「淫らな雑誌」を参考書で挟んでレジに行く――そんな思春期独特の切実な欲望を包み込むものであり、その抑圧の分だけ煩悩が飛翔する、いわば飛行機の滑走路のようなものではないだろうか。
「満腹社会」におけるパンの存在理由
パンにまつわるイメージについては、このぐらいにしておこう。それより、私は「空腹」が好き、ゆえに「満腹」が嫌いなのである。食べることは好きなのだが、一方で満腹になるのが嫌いという矛盾を抱えているのは、以前もここに書いた通り。
私にとって「満腹」とは「失われた時間」のことであり、その意味では現代社会は即ち「満腹社会」なのである。世の中がこんなに複雑で、均質的で、平和で、でも、どこかつまらないのは「満腹社会」だからなのだ。しかしそれは容易に変えられないし、変えるべきでもない。ならば、せめて自分の腹持ちだけは楽しみたい。だから「空腹の境目」に立ち、「胃袋の夜明け」を待つのだ。
で、ある時に思いついたのである。それが先にも述べた親父の言葉だ。
「パンは丁度いい」
「そうか!」である。
例えば、ついつい食べすぎてしまう朝食バイキング。あれを思い出されたい。旅先なので、午後からも何か美味いものを食べる予定を立てている。体が重くなっては、その後の予定や行動にも影響が出てしまう。ここは急激な血糖値上昇を防いでおかないといけない。生産調整ならぬ摂食調整をすることで、その後の食事を有意義なものとするのである。
そんな時にパンは「丁度いい」のだ。パンの血糖上昇率が、白米とどのぐらい違うかはわからない。でも、パンは腹持ちがあまり良くなく、ちゃんと腹を空かせてくれることを私は経験上知っている。
だって、私はパンのことを好きではないのであって、決して嫌いではないのだ。これまでだってパンを食べてきている。でも、普段私の舌や腹は、ご飯や麺類、酒のことで渋滞していて、そこにパンが入る隙間がない。だから「いつ食べたらいいのだ?」と常に思っていたのである。
しかし……、これだけの文字数を使って「パンは丁度いい」というのは、自分でもどうかと思う。多分多くの人にとっても既知なことだろう。豪速球を繰り出すように腕をぶん回して結論を出してみたが、いやはや。
最後に。
「親父の一言とイースト菌は後から膨らんでくる」
最近ではたまにトーストを齧る自分がいる。かつての親父のように。ある時は、辛子マヨを塗りたくり、レタスとハムエッグを載せ、それを半分に畳み、ガブリとやる。その程度でいいし、こだわらない。そこには得も言われぬ幸福を感じないが、次の食事のためのステップとしてパンは最適だ。それを我が娘らは見ているが、どう思っているかは知らない。彼女らはパンが普通に好きなようだ。
おそらく、カツラ以外私は親父にそっくりだ。娘たちの目にもそのように映っていることだろう。残念だが、そこにあるパンと共に認めることにしよう。
*次回は、4月12日金曜日更新の予定です。
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マキタスポーツ
1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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1970年生まれ。山梨県出身。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、他に類型のないエンターテインメントを追求し、芸人の枠を超えた活動を行う。俳優として、映画『苦役列車』で第55回ブルーリボン賞新人賞、第22回東スポ映画大賞新人賞をダブル受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』(講談社文庫)、『すべてのJ-POPはパクリである』(扶桑社文庫)、『越境芸人』(東京ニュース通信社)など。近刊に自伝的小説『雌伏三十年』(文藝春秋)がある。
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