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住職はシングルファザー!

2024年5月3日 住職はシングルファザー!

22.空回りするシングルファザー

著者: 池口龍法

28歳で結婚。2児の父となったお寺の住職が、いろいろあって離婚。シングルファザーとしての生活が始まった。読経はお手のものだが、料理の腕はからっきし。お釈迦さまも、オネショの処理までは教えてくれない。かくして子育ての不安は募るばかり……。一体どうやって住職と父親を両立すればいいのか!? 「浄土系アイドル」「ドローン仏」などが話題の、京都・龍岸寺の住職によるシングルファザー奮闘記!

法事をすっぽかす

 シングルファザー住職の生活が、空回りを続けていたのは、オンラインだけの話ではもちろんない。リアルでも、檀家さんに迷惑をかけてしまう痛恨の事態がしばしばあった。

 ある夏の日曜日のお昼前。

 お寺の留守番を学生スタッフに任せて子供の所属する野球チームのお茶当番で出かけていたら、お寺から私の携帯に着信があった。お茶当番のシフトは1時間半程度で済む。行き帰りの時間を合わせてもお寺を離れるのは2時間程度なのに、それでも私の帰りを待ちきれずに電話かけてくるのだから、「檀家さんの訃報にちがいない」と察する。「父が先ほどなくなりまして…」という電話がかかってくれば、学生スタッフなら動揺するのが当たり前である。

 ここは住職らしく毅然とした態度で振舞おうと期する。

 「お昼過ぎには枕経のおつとめにうかがえるから、ご遺体がご安置されている場所と、ご遺族の連絡先などを聞いておいてください」と指示するつもりで、通話ボタンを押す。

 すると、異様なまでに焦っているスタッフの声が耳元で響いた。

 「先ほど檀家さんから電話がありまして、『今日、11時から自宅での法事をお願いしてたんですけど、まだお越しになられてなくて』と…」

 私もパニックである。時計を見るとすでに11時を過ぎているから、檀家さんたちはお坊さんが来るのをいまかいまかと待ちぼうけているのだろう。しかし、スケジュール帳をなんど見返しても、今日は珍しく法事のない日曜日になっている。だから呑気に子供と一緒に野球に出かけているわけである。

 どこに落ち度があったのかわからないが、かねてから嫌な予感はあった。なぜなら、毎日の育児家事だけでも忙殺されるところに、授業参観、運動会、PTAのミーティング、朝の見守り(交通量の多い交差点で集団登校班が渡り切るのを確認する)などのタスクが入り込んでくると、大事な仕事さえつい意識の奥底に埋もれそうになることが時折あったからである。

 いますぐに檀家さんのもとに駆け付けたいが、子供の習い事も放ってはおけない。お寺から檀家さんの自宅まで急いで車で向かっても30分かかる。お坊さんの格好に着替えて法事の支度をする時間も要る。万事休すである。

 心の中ではドラえもんの秘密道具「どこでもドア」を頼りたい気さえするが、現実から逃避している場合ではないと自分に言い聞かす。とりあえず檀家さんに電話をかけて平謝りし、もう正直に状況を説明するしかない。

 「大変申し訳ありません。お寺のほうのスケジュール帳には法事の日程が記載されておりません。私自身がすぐに駆け付けるべきところですが、いまお寺から離れたところにおります。代わりに先代の住職が至急にうかがいますので、1時間ほどお待ちいただくことは可能でしょうか」

 もちろん先方は怒っている。

 「法事をお願いして、親せき集まってお待ちしてるんです。このあと食事の予約も入れてるんです。1時間も待てません。どうしてくれるんですか」

 私は繰り返し電話口で謝罪し、先に食事を済ませてまた自宅に戻り、それから法事の読経という流れで急遽リスケしてもらい、先代住職にも無理を言って読経に向かってもらった。たまたま、旅行に出かけてない時期だったのが、幸いだった。

 お寺にもどって電話機の横に設置されている連絡帳をさかのぼってみたら、確かに法事の依頼が書かれてあった。電話連絡帳は、毎日確認すべきものであるが、生活に疲れ果てているとつい翌日にまわしてしまう。しかし翌朝起きたらまた時間の余裕がないから後回しになる。それでも定期的にチェックするのを怠らないようにしていたが、育児家事に追われるあまり、見落としていたのである。離婚してシングルファザーになっても、檀家さんに迷惑をかけないようにしなければと思っていたが、現実にそれを完璧にこなすのは無理だった。

 後日、檀家さんとお会いしたとき、改めて「その節は申し訳ありませんでした」と平謝りした。キツいお叱りの言葉を浴びせられる覚悟であったが、返ってきたのは「あんなこと滅多にないので、記憶に残る法事になりました」という温かい言葉だった。一緒にいたご家族からも笑い声が漏れた。この一言に、私は救われた思いがした。

特権への甘え

 月参りや法事などの仕事のスケジュールをうまく管理できず迷惑をかけたことは、他にも何度もあった。

 京都はお地蔵さまへの信仰が篤い。ひとつの町内は、たいていお地蔵さまをお祀りしている。お盆明けにはそこらじゅうにテントが張られて地蔵盆が行われる。私たち僧侶はそこにおつとめにうかがう。私が住職になった時点では8つの町内にうかがっていたが、うっかり連絡をできなかったことで1つ減り、それ以降は7つになっている。その町内がいまどうされているかはわからない。

 さすがに通夜とか葬儀とかをすっぽかしたことはなかったが、訃報が入ってから慌ただしく準備するから、どうしてもミスが出る。白木の位牌に戒名を墨書するときに書き損じることはざらにあった(だから予備の位牌を常にストックしておくようにした)。正しく書いたはずの位牌を持って葬儀場に行き、祭壇に安置したらやっぱり間違えていたこともあった(葬儀社に代わりの位牌をいただき急いで書いた)。

 葬儀が終わるまではどうしても数日間そこに全力投球するから、終わってホッと一息ついたら冷蔵庫の野菜が傷んでいたり、学校への提出物が期日を過ぎていて先生から電話がかかってきたりする。

 ミスが起こるたびに猛省し、意識を引き締める。でも、しばらくして気が緩むとまた起こる。そしてまた平謝りし、許してもらう。

 「謝れば許される」のは子供のあいだだけ―そんな風に常々私は子供たちに教えている。社会人になれば、「謝れば許される」という甘ったるい考えでは済まされない。ミスが起こるときには必ず原因があるから、原因を探して二度と繰り返さないように徹底しなければならない。これは社会人としての生き方の基本だと思うのだが、自分自身の仕事ぶりは改善に至らない。

 おそらく、どこかに甘えもあった。お坊さんは「謝れば許される」ことを、私は心の片隅で感じていた。

 なぜかというと、ひとつには、神主さんやお坊さんなど、聖なるものに仕える存在というのは、神仏同様に崇めるべきだというなんとなくの理解があるからである。丸坊主にしている私の頭部を「触っていいですか?」と尋ねてくる人がときどきある。「触ってもなにもあらへんで」と言いつつも触らせてあげたりすると、「うわ! ありがたい気がする!」と喜んでもらえる。お坊さんとはやはり特別な存在なのだと感じる瞬間である。

 またもうひとつの理由としては、地蔵盆の読経ぐらいなら他のお坊さんでも代わりが利くが、身内の先祖供養はそういうわけにいかないからである。たいていの檀家さんは、お寺にお墓を持ち、自分たちのご先祖を納骨している。いまの住職がどうしても憎かったとして、他のお寺と縁を結ぼうとするなら、お墓を移転することまで考えなければならない。お墓を移転するとなると、家族や親族にも相談しなければいけないし、コストもそれなりにかかる。次にお付き合いすることになるお坊さんも、どれぐらい相性が合うかわからない。もろもろの事情を考えるほど、多少の不満があっても、住職とうまく付き合ったほうが無難だろうということに落ち着くはずなのである。

 言い方は悪いが、いわばお坊さんは特権階級の人間として君臨している。

 いや、特権的であることイコール悪ではない。

 お坊さん以外にも特権的な職業というものはある。その代表的なのが医者や政治家だろうが、医者になろうと思えば大学受験で医学部に合格し、国家試験に通らなければ資格を取得できない。政治家も、親から地盤を受け継ぐことはできても、数年に一度の選挙で勝てなければ職を失うことになる。要するに、世間から「先生」と敬われる人たちは、相応の努力をしてきている。

 お坊さんは、その努力さえ要らない。お寺に生まれて跡取りとして期待もかけられてきた私は、ずっと檀家さんからチヤホヤされてきた。あらゆる人間は平等であるはずなのに、お坊さんの卵であるだけで偉いというのは、明らかに時代錯誤で後ろめたさがぬぐえなかった。でも、シングルファザー住職のボロボロの生活をしていると、守られていることに甘えている自分がいた。

ぬくもりに守られて

 思い返せば、結婚するとき、私が連れてきた相手に対して「お寺の奥さんに向かない」と両親は簡潔な言葉で鋭く指摘した。私はその反対を押し切り、勘当されてもいいぐらいの覚悟で結婚へ突き進んだ。でも、その相手を守り抜けなかった。離婚したあと、シングルファザーになったばかりのロクに家事のできない私を陰に陽に支えてくれたのは、他ならぬ両親だった。

 その両親のおかげもあって、「シングルファザー×住職」という世にも珍しい日々をなんとか生き抜いてきたつもりだったが、実際のところはお寺に関わってくれていた人たちの協力と、法事をすっぽかしても許してくれる檀家さんのぬくもりに守られてかろうじて持ちこたえていたにすぎない。

 できることなら、自分に厳しくあるべきだと、いまでも思う。生まれながらに特権を約束された人たちが集まっているから、いつまでもお寺社会は停滞しているというのが、私の持論である。

 お寺のあり方が変わるということは、自らの特権を失うことになりかねない。「家」への信仰がもはや崩壊寸前のところまできていて、したがって「家」の先祖供養を通じてお寺とつながってきた檀家制度も大きく変わらざるをえないのに、臭いものにはふたをして現実を見ない。

 日本で唯一、檀家制度の存在しない地域がある。沖縄である。

 少し前であるが、2015年、戦後70年というタイミングで、戦災が過酷だった広島、長崎、沖縄で追悼の法要がつとめられ、同行させてもらったことがある。このとき初めて沖縄の宗教文化に触れた私は、衝撃を受けた。

 現代まで続く檀家制度のルーツは江戸時代にまでさかのぼるが、当時琉球王国が統治していた沖縄の地は、薩摩藩に従属するかたちで幕藩体制に組み込まれていたものの、信仰文化は独自の発展を遂げた。明治維新以降に沖縄に建立されたお寺もあったが、多くは太平洋戦争で焼失した。いまでもユタと呼ばれる霊媒師が、供養を執り行うことも珍しくないらしい。

 その結果、お寺への帰属意識は薄いまま、今日に至っている。お寺の電話が鳴って「一周忌の法事をお願いしたいのですが」と相談を受けたとき、「すみません、その日は他の法事がありまして」と答えたら、「じゃあ違うお寺探します」と受話器を置かれ、その方とはそれっきりになることも多いらしい。グルメサイトで予約するレストランを決める感覚とほとんど変わらない。

 同じ2015年に、株式会社みんれび(2018年に「よりそう」に社名変更)が、オンラインショップ「アマゾン」のマーケットプレイスに「お坊さん」を出品した。「お坊さん便」という商品である。自宅など一か所で法要をつとめるだけの「基本(移動なし、戒名なし)」プランなら35,000円だった。

 カートに入れて注文すれば、法要日程の希望日時、場所、宗派を確認するメールが届く。お寺との縁が薄らいでいる現代に“よりそう”サービスであるが、お坊さんが商品として売られていること、そしてお布施の金額が定額になっていることに、仏教界は猛反発した(現在はマーケットプレイスへの出品は停止されている)。

 私は、怒り狂う周りのお坊さんたちの姿を見ながら、「そんなに怒らんでもいいのに」と思っていた。時代状況を考えれば、作られるべくして作られたサービスだし、檀家制度が解体されていくなら、沖縄のようなライトなお寺づきあいも覚悟しなければいけない。法要が商業ベースで扱われていることへの抵抗はあったが、それよりもお寺の仕組みが変わるチャンスだろうと思っていた。

 でも、自分自身が完璧から到底程遠いレベルでしか仕事をこなせない状況に陥ったいま、檀家さんの愛情が私の心に欠かせないものになっている。お坊さんでさえオンライン注文で届くのは便利かもしれないが、何十年あるいは何百年という歳月をかけてお寺を護ってきた檀家さんのぬくもりが失われるのは寂しいというよりほかない。

 

 *次回は、5月17日金曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

池口龍法

僧侶。浄土宗・龍岸寺住職。2児の父。1980年兵庫県生まれ。京都大学卒業後、浄土宗総本山知恩院に奉職。2009年、フリーマガジン「フリースタイルな僧侶たち」を創刊。2014年より現職。念仏フェス「超十夜祭」や浄土系アイドル「てら*ぱるむす」運営などに携わる。著書に『お寺に行こう!  坊主が選んだ「寺」の処方箋』が、共著に『ともに生きる仏教 お寺の社会活動最前線』がある。『スター坊主めくり 僧侶31人による仏教法語集』の監修もつとめる。Twitter: @senrenja

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