13.ヴィチェンツァの米軍基地へ
著者: ヤマザキマリ
約40年前、17歳の少女はイタリアへと旅立つ。背中を押したのは、敬虔なカトリック信者にして音楽家の母。異国での生活を前に動揺する少女に、400年前、遠くヴァチカンを目指した4人の少年たちの影が重なる――。科学と芸術、そして宗教が色濃く共存し続けるイタリアで培ったものとは、何だったのか。人生でもっとも貧しく苦しかった画学生としての生活と、自らの裡に沈殿していた“信仰”を告白。これまで封印していた記憶の扉をひらく、渾身のメモーリエ。
【登場人物紹介】
マリ:著者。絵を学ぶため、17歳でイタリアへ留学。洗礼名は「セシリア」
リョウコ:マリの母。ヴィオラ奏者。敬虔なカトリック信者。留学を躊躇う娘の背中を押す
マルコ:14歳のマリがヨーロッパ旅行中に出会ったイタリア人。北部の街・ノーヴェに住む陶器職人。彼を身受け人として、イタリアへ
リアーノ:マルコの隣人。ボルサート家の当主。ノーヴェで陶器工場を営んでいた
ミリアム:リアーノの娘。マリと同年齢
フレッド・パイ:イタリア在住の英国人。美術ジャーナリスト。英国のタブロイド紙「サン」特派員。イギリスのポップ歌手、キャシー・カービーの元夫。トレヴィーゾ在住
サンドラ:フレッド・パイのパートナー
ジョージ:サンドラの息子。ロンドン在住。マリと同年齢のイタリア人の彼女がいる
クアトロ・ラガッツィ:イエズス会によって、1582年にヨーロッパに派遣された4人の少年(天正遣欧少年使節)。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノ
晩夏の提案
9月に入り、イタリアは相変わらず暑く乾いた空気に包まれ続けていたが、社会は寝坊を怒られて無理やり起き上がった子供のように、まずは商店や会社や工場といった経済を動かす機関からのろのろと動き始めていた。リアーノの家に一番近い、なんの変哲もない民家の1階にあるバールも1カ月間閉ざされていたシャッターが開かれ、入り口の外に並べられたパイプ椅子には年嵩の近隣住民たちが腰を下ろして、日に焼けた顔でそれぞれ8月に過ごした場所から持ち帰った思い出話を披露しあっていた。その傍らで小学生くらいの子供たちがはしゃいでいるのは、学校がまだ始まっていないからだ。秋に新年度が始まるイタリアでは、日本のように宿題を片付けなければというムードもなく、しかたなく働き始めた親たちを尻目に、彼らは勉強に拘束されない時間を謳歌しながら、海や山での日焼けを地元の太陽によってさらに濃く焼き付けていた。
サンドラとジョージも9月に入る前にはロンドンへ戻り、私はトレヴィーゾのフレッドの家から、川を跨いで建っているリアーノの家へ再び戻っていた。7月の初頭に突然ノーヴェという田舎の村に現れた得体の知れない東洋人の存在も、夏の間の特別な出来事では済まされなくなり、リアーノは急に私のその後の対処について現実的な考えを巡らせるようになっていた。自分の娘と同じ歳ということを踏まえると、学校にも行かせずにそのまま何もないノーヴェに放置しておくわけにもいかないし、もとより外国人が長くイタリアに暮らす場合は滞在許可証も必要になる。私について相談をした周辺の人々からそのようなことを指摘されて、リアーノの表情には若干のあせりが浮き出ていた。
リアーノは普段はノーヴェの商工会議所のようなところで、閉鎖してしまった工場の陶器の在庫の管理やそれを流通させるための仕事を任されていた。ある日、仕事の合間にヴィチェンツァまで行って画材屋で油彩の道具を一式調達すると、「世の中が動き始めているのに、君だけ何もしないのはいけない。とにかくうちの窓から見える景色でもなんでもいいから、絵を描いていなさい」と私にそれを託した。折りたたみ式の小さなイーゼルまで揃えてくれていたので、ただでは受け取れません、お金を払いますと言うと「いらない。出世払いでいいよ」と笑われた。その数日前に、私はリアーノから所持金を聞かれ、5万円も入っていない財布の中身を見せていた。母としては、マルコの家に居候をさせてもらいつつ、彼が紹介してくれる画宿に通うのでお金は少しだけ持たせておけば、あとは後日、必要に応じて送金すればいい、程度に思っていたようだ。しかし、そうした私の所持金の少なさも、リアーノの不安を煽る要因ともなっていたらしく、娘のミリアムの学校が始まるというタイミングで、リアーノからヴィチェンツァにある米軍基地にはたらく家族のベビーシッターをしてみないか、と提案された。「実はマルコが探してきたんだ」とリアーノは小声で加えた。
そもそもイタリアという国に来ることになったのも、ノーヴェというイタリアのど田舎にいることも、ただなるようにしかならないという自分の人生に対する諦観のような、または執着の無さによる顛末だった。とはいえ、ヴィチェンツァに米軍が駐留しているなんてことは全く知るよしもなかったが、そこのアメリカの軍人家族の家に住み込みで、ベビーシッターをしてみないか、という提案にはさすがの私も面食らった。イタリアに絵の勉強をするつもりでやってきて、なぜアメリカの軍人の家に住み込まねばならないのか、そういうことなら日本に戻ります、と口から出かけていたところで、リアーノが「だけど、そこにずっといなさい、ということではなくて」と静かな口調で念をおした。
「ノーヴェのような田舎にいてはまず絵の勉強にはならない。ヴィチェンツァへ行けば画塾があるし、実は先生にはもう君のことを話していて、いつでも来てくれていいということだけれど、そうなると君はヴィチェンツァに暮らさなければならない。それにお金も必要になる。画塾には毎日通わなければいけないわけではないから、行きたい時にいけばいい。そういう条件だということは、もうアメリカの軍人夫婦にも話がついているそうだ。住まわせてもらえる家もあるわけだし、ベビーシッターで稼いだお金があれば、なんとかやっていけるはずだよ」
お金のこともさることながら、リアーノが一番気にしていた問題は滞在許可証だった。私の場合、日本から正規の留学の段取りを踏んできていたわけではないから、留学生としてのビザもない。とりあえず、私がビザなし滞在の期限である3カ月以上イタリアに居残るためには、移民の手続きか、外国人雇用者として警察署に登録する必要があった。ヴィチェンツァのアメリカ軍の家族は夫婦ともども軍人なので、そこは正規のルールに沿って私を雇っていい、と言っているのだという。
「奥さんのほうがイタリア文化好きで、マルコの知り合いが彼女のイタリア語の先生をしているとかで、そんな話になったそうだ。マルコはマルコなりに、あんたのことを気にかけているみたいだけど、なんともね...」とリアーノはそこまで言うと、肩で大きくため息をついた。「我が家の経済状況が20年前くらい羽振りが良かったら、君のひとりくらい面倒を見るのは平気だったんだが、残念ながら今はそうはいかないんだ。ボルサートは工場としてはもう破綻してしまっているし、家族を食べさせていくのが精一杯で」と苦しそうに言葉を絞り出すリアーノが申し訳なくなり、私はとりあえず「わかりました、ヴィチェンツァに行きます」と返答した。
米軍基地へ
「しばらくの間はベビーシッターをして、ちょっとだけ我慢をしていてほしい。その間に私なりにもっと良い方法を探してみるから」とリアーノは私の肩を叩いた。この年の7月からイタリアという国に滞在しているにもかかわらず、フレッドの家に長くいたせいで英語は問題なかったし、自分が世話になる環境がイギリスからアメリカになるだけだ、という開き直りの気合いがすでに私の中で芽生えていた。
母にこの案件を相談したところで、彼女から戻ってくる言葉は「あらそう。だったらもう、やるしかないわよ。やってみてダメならその時にまた考えればいいのよ」しか思い浮かばなかった。ただ彼女は戦争経験の負い目でアメリカが嫌いだったし、ましてや米軍ともなると難色を示すことも考えられた。わざわざイタリアまで行って、アメリカの軍人のベビーシッターなんかやらされるくらいなら日本に戻ってきなさい、と怒り出す可能性もあったが、私としては今更日本に戻り、学校に戻るほうが気が進まなかった。
私は母の反応の憶測を断ち切って、リアーノに連れられてヴィチェンツァへ向かった。ノーヴェとはたった28キロの距離だし、週末には迎えに行くから、その時はノーヴェで、うちのママと娘たちとで一緒に過ごそう、とヴィチェンツァまでの道すがら、ハンドルを握りつつリアーノはまるで父親のように私を気遣った。
壁に囲まれた基地の門まで来ると、二人のいかつい面持ちのアメリカ兵が現れたが、事情を説明するとすぐに車を通してもらえた。基地の中にはよく映画で見るようなアメリカ風の小さな庭のついた平屋がいくつか点在していて、リアーノはそのうちの一件の前に車を止めた。そこにはマルコが白い開襟シャツに膝までの短パンというラフな格好で玄関の前に立っていた。隣には恰幅のいい女性と、金髪を後ろに束ねた精悍な様子の女性がいて、私たちの車を神妙そうな表情で見つめていた。
車から降りると金髪の女性のほうが表情を笑顔一色にして「初めましてマリ。私はシンシア。あなたの立場はミスター・マルコに聞いたわ、なかなか大変ね」と言いながら近づいてきた。マルコを振り返ると、マルコは弱々しい視線を私に返し、小声で「チャオ」と呟いて、少しだけ片手を上げた。彼の家を後にした時よりも、全体的に日に焼けていた。私が去った後、海かどこかにバカンスに出かけたのかもしれない。
人間が不平や不満を抱えて生きづらさを感じるのは、人生というものを理想や妄想で好き放題にデコレーションしてしまうからだ。かつて母が戦争という理不尽と向き合い、なんとか乗り越えてきたように、私も人生に対しあれこれ都合の良い思いを託すのを辞めて、大気圏で呼吸ができているだけでもありがたい、と思うようにすればいい。
マルコのやり場を失った、茶褐色の皺だらけの顔から目を逸らし、軍人のシンシアと握手を交わすまでのそのわずかな時間、私の頭の中にはそれだけのことが過った。
*次回は、11月23日月曜日更新予定です
(隔月・奇数月の第4月曜日に更新予定)
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ヤマザキマリ
漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- ヤマザキマリ
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漫画家・文筆家・画家。日本女子大学国際文化学部国際文化学科特別招聘教授、東京造形大学客員教授。1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。97年、漫画家デビュー。2010年、『テルマエ・ロマエ』で第3回マンガ大賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞を受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年、イタリア共和国星勲章コメンダトーレ綬章。2024年、『プリニウス』で第28回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。著書に『プリニウス』(新潮社、とり・みきと共著)、『ヴィオラ母さん』(文藝春秋)、『パスタぎらい』(新潮社)、『扉の向う側』(マガジンハウス)など。現在「少年ジャンプ+」で、「続テルマエ・ロマエ」を連載中。撮影:ノザワヒロミチ
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