2023年7月26日
後編 ウクライナ戦争における「音楽的事件」
音楽学者の第一人者・岡田暁生さんと、博覧強記の音楽評論家の片山杜秀さんの対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)の刊行を記念して、朝日新聞の吉田純子さんを司会役に、著者の二人が「戦争と音楽」について語り合いました。ロシアによるウクライナ侵攻の最中、音楽はいかなる役割を果たしうるのか――。
※この記事は、2023年7月1日に朝日カルチャーセンター新宿教室で行われた講座「戦争と音楽」(出演:岡田暁生・京都大学教授、片山杜秀・慶應義塾大学教授、司会:吉田純子・朝日新聞編集委員)の一部をテキスト化し、加筆修正を施したものです。
(前編はこちらから)
リュビモフの「命がけの音楽」
岡田 さて、今ロシアとウクライナの音楽シーンで何が起きているのか、ネット上で拡散された2つの動画を参考にしながら考えてみたいと思います。
1つめは、すでにご存知の人も多いかもしれませんが、アレクセイ・リュビモフというピアニストの動画です。リュビモフはバッハからジョン・ケージまで何でも弾く人で、日本でも一部で非常にコアな人気がある人です。実際、何度か来日もしているんですが、大手のマネジメントが付いていないせいか、あまり大きな話題になっていないのが残念です。
そのリュビモフが、ウクライナ戦争が始まったときに、ウクライナ出身のヴァレンティン・シルヴェストロフの作品を含むコンサートをモスクワで開催しました。すると、演奏の途中で、ロシアの警官たちが入って来て、「会場ビルに爆弾が仕掛けられているという通報があった」などという口実で、演奏をやめさせようとします。しかし、リュビモフは警官たちのプレッシャーにも動じず、シューベルトの即興曲を見事に最後まで弾き続けました。
この動画を見た時に、「命がけで音楽をやっています」なんて言う資格があるのは、リュビモフみたいに本当に身体を張っている人だけだと思ってしまいました。
片山 そうですね。こういう不穏な時代になると、安全圏にいながら「もっともらしいこと」をやっても、それはモドキに過ぎないということになって、存在価値を失ってしまう。現実が進んでしまったことによって、虚偽とは言わないけど、これまで代替物として機能していたものが、一気に灰色に包まれてみすぼらしくなってしまう。
岡田 自分が安全圏にいながら「音楽を通して絆を……」とか、やっぱりちょっと言いづらくなりましたね。いや、そういった活動を否定するつもりは全くないんですよ。でも、リュビモフの演奏会で「ブラボー」とか言っている人の、この覚悟の重さを考えると……。
片山 その通りですね。もう「ブラボー」って言った瞬間に、みんな記録されてしまうわけで、今は顔認証の技術も進んでいるから、ごまかしが利かない。日本で言えば、1945年までの治安維持法の時代に「共産主義シンパ」みたいな認定をされちゃうわけだから。後日、官憲がやって来て、「君は、あのときリュビモフの演奏会に行って、ブラボーって言っていたね」とか言われて連行される……恐ろしい時代です。
岡田 こんな動画を見せられると、やっぱりリュビモフは言行が一致している、すごいピアニストだなと思います。彼はブレジネフの時代からジョン・ケージとかシェーンベルクとかそういうものを弾いていましたもんね。
リュビモフは、グールドに影響を受けた世代なんですよ。中央音楽学校で学び始めた頃にグールドがソ連旅行にやって来て、『ごまかさないクラシック音楽』でも取り上げた例の「ランダム再生」の『ゴルトベルク変奏曲』抜粋を演奏したんです。あの世代のロシアのピアニストにとってグールドは衝撃だった。まさに天変地異だった。大ピアニストのアシュケナージもモスクワ音楽院時代にグールドの演奏を聴いて、腰が抜けたみたいなことを言っていました。
吉田 アシュケナージが1937年生まれで、リュビモフが1944年生まれ。1932年生まれのグールドは、1957年に24歳でモスクワへ演奏旅行に行っているわけです。
「バイラクタル」と戦争音楽のゆくえ
岡田 次に参考にしたい動画は、ウクライナで作られた「バイラクタルの歌」というミュージック・ビデオです。
今回のウクライナ戦争で僕が気になっていたのは、すぐ思い浮かぶような連帯の歌のようなものを、ウクライナでもロシアでもあんまり聞かないなということです。そんな中で、唯一、開戦当初にウクライナでかなり流行ったミュージック・ビデオがあると人に教えてもらいました。
ポップスというか、いわば東欧ラップみたいな感じの曲で、ウクライナ軍兵士に扮した男の人たちが「バイラクタル、バイラクタル」とラップ調で歌っています。バイラクタルとは、トルコ製のドローンの名前で、戦争初期にロシア兵を撃退するのに大活躍したそうです。プーチンをはじめとするロシアの要人たちのニュース画像を巧みに取り入れたりして、ちょっと滑稽で笑える作りになっています。
片山 ウクライナは、対外的なプロパガンダが上手ですよね。私は岡田さんに教えてもらうまでこの歌を知らなかったんですけど、とにかく最前線でロシア軍を撃破しているウクライナの兵士たちが歌っているという非常に演出されたシチュエーションで、しかもわざとちょっとチープな感じで作り込んであって、映像としても音楽としても非常に上手にできているという印象です。
ただ、たしかに岡田さんがおっしゃるように、先の大戦期のような、音楽が国民総動員にものすごく寄与している感じでもないかもしれない。私はウクライナを取材したわけではないのでよくわからないのですが、少なくとも第二次大戦時の総力戦的なプロパガンダ、それこそ朝から晩まで戦争音楽ばっかりという世界とは、ちょっと違う感じのようですね。
岡田 そうなんですよ。これまでだと「あの戦争といえばこの歌」っていう感じの音楽が1つや2つあったはずだと思うんですよね。
フランス革命の時は「ラ・マルセイエーズ」。ちょっと飛びますけど、第一次世界大戦の時は、イギリスで「遥かなティペラリー」という歌が流行った。第二次世界大戦では、映画『カサブランカ』の影響を受けすぎかもしれないけど、連合国側では高らかに「ラ・マルセイエーズ」が歌われ、片やドイツでは「ラインの守り」が歌われた。
冷戦期に入ると、歌じゃないですがチャイコフスキー・コンクールを連想するし、ベトナム戦争ならば、ボブ・ディランの反戦歌を連想する。またジェフスキーが変奏曲を作った「不屈の民」も、チリのアジェンデ政権を支持する労働者たちの連帯の歌として世界に広く知れ渡った曲でしょう。
片山 ウクライナ戦争で、これだけプロパガンダ戦が行われている中で、たしかに音楽が使われている印象が薄いなという感じはありますよね。もしかしたら私が知らないだけで、「バイラクタルの歌」以外にも、ウクライナ・ローカルとかロシア・ローカルではいろいろあるのかもしれないですが……。
岡田 僕は、やっぱり音楽の体力が衰えているんじゃないかという気がします。フランス革命、あるいは19世紀あたりまでは、音楽がプロパガンダで大活躍していて、音楽にはここまで国民を鼓舞して絆を感じさせる力があるんだということを、良くも悪くも示したと思います。しかし、もはや音楽にそのような力は失われ、フェイクニュースを流して国民の心を操作する方が重要になってしまった観があります。音楽がプロパガンダに使われることの是非はさておき、それはそれでちょっと悲しくなりますね。
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岡田暁生、片山杜秀/著
2023/05/25発売
公式HPはこちら
美しい旋律に隠された「危険な本音」とは――?
バッハ以前はなぜ「クラシック」ではないのか?
ハイドンが学んだ「イギリス趣味」とは何か?
モーツァルトが20世紀を先取りできた理由とは?
ベートーヴェンは「株式会社の創業社長」?
ショパンの「3分間」もワーグナーの「3時間」も根は同じ?
古楽から現代音楽まで、「名曲の魔力」を学び直せる最強の入門書。
(了)
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岡田暁生
おかだ・あけお 1960年、京都市生まれ。音楽学者。大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。京都大学人文科学研究所教授。『オペラの運命』でサントリー学芸賞、『ピアニストになりたい!』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『音楽の聴き方』で吉田秀和賞、『音楽の危機』で小林秀雄賞受賞。著書に『オペラの終焉』、『西洋音楽史』、『モーツァルトのオペラ 「愛」の発見』など多数。
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片山杜秀
かたやま・もりひで 1963年、仙台市生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。慶應義塾大学法学部教授。『音盤考現学』および『音盤博物誌』で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。著書に『近代日本の右翼思想』『国の死に方』『尊皇攘夷』『革命と戦争のクラシック音楽史』など多数
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吉田純子
1971年、和歌山県生まれ。朝日新聞編集委員。1993年東京芸大音楽学部楽理科卒業、1996年同大大学院音楽研究科(西洋音楽史)修了。在学中はピアニスト、音楽ライターとして活動。1997年朝日新聞社入社。学芸部、整理部、広告局、文化くらし報道部次長などを経て現職。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 岡田暁生
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おかだ・あけお 1960年、京都市生まれ。音楽学者。大阪大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。京都大学人文科学研究所教授。『オペラの運命』でサントリー学芸賞、『ピアニストになりたい!』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『音楽の聴き方』で吉田秀和賞、『音楽の危機』で小林秀雄賞受賞。著書に『オペラの終焉』、『西洋音楽史』、『モーツァルトのオペラ 「愛」の発見』など多数。
- 吉田純子
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1971年、和歌山県生まれ。朝日新聞編集委員。1993年東京芸大音楽学部楽理科卒業、1996年同大大学院音楽研究科(西洋音楽史)修了。在学中はピアニスト、音楽ライターとして活動。1997年朝日新聞社入社。学芸部、整理部、広告局、文化くらし報道部次長などを経て現職。
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