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坪内祐三『玉電松原物語』

2020年10月21日

坪内祐三『玉電松原物語』

第一章 四谷軒牧場とブースカ

著者: 坪内祐三

2020年1月に急逝した文芸評論家の坪内祐三さん。雑誌「考える人」では、創刊時からその名も「考える人」という連載をしていただきました。

坪内さんの最後の著書となった『玉電松原物語』の試し読みを掲載いたします。

じつは坪内さんは、かつて「玉電松原物語」と題する七十枚の短篇小説を仕上げて、新潮新人賞に応募したとか。その後、文筆家として活躍されてからも〈いずれ必ず『玉電松原物語』を書く〉と周囲には予告していたそうです。

そうして小説新潮で連載「玉電松原物語」が始まりましたが、突然の最終回を迎えました。まとめられた本は未完ながら、昭和カルチャーの申し子たる坪内さんの、私小説のような昭和文化論となりました。ぜひご一読を。

 東京で生まれ東京で育った私ではあるが、自分のことを「東京っ子」とは言い切れぬ思いがある。
 具体的に言えば私は昭和三十三(一九五八)年に初台(区としては渋谷区だが一番近い繁華街は新宿)に生まれ、同三十六年に世田谷区赤堤(あかつつみ)に引っ越した。
 つまり山手線の内側はおろか環状七号線の内側にも暮らしていなかったのだ。だから「東京っ子」を自称するのはサギめいている気がする。
 と言うと、山手線はともかく、初台は環七の内側にあるじゃないか、という突っ込みを入れる人もいるかもしれない。
 しかし環七が作られたのは昭和三十九年に開催された東京オリンピックに合わせてで私が初台に暮らしている頃はまだ影も形もなかったのだ(私はこの原稿を環七に隣接した一マンションの一室にある仕事場で書いている)。
 赤堤に越して来た時に私が憶えているのは、ずいぶん辺鄙な場所だな、ということだ。当時そのあたりはまだ道路が舗装されていなかった。つまり土だった。
 私の家は西福寺(さいふくじ)という寺の隣にあって、今「西福寺通り」と呼ばれる(当時は名称のなかった)大通りを経堂(きょうどう)方向にしばらく行くと赤堤通りという大通りと交差する。
 その交差点にはもちろん信号があるが、私が小学校に入学した頃、昭和四十年頃はまだ信号がなかった。今やビュンビュンと車が走っている赤堤通りも当時はとても交通量が少なかったのだ。
 その交通量が増えて行ったのは私が小学校に入学してからで、たしかその頃小学生がその交差点で事故に遭い、それを機に信号がつけられたのだ。
 そういう辺鄙な場所にあっても、私の家から歩いて七~八分(子供の足でも十分)ぐらいの所に商店街があった。
 それは電車の駅があったからだ。電車といってもいわゆるチンチン電車で、東急玉川線(通称玉電)の松原駅だ。
 玉電は本線が渋谷から二子玉川(ふたこたまがわ)まで走っていて、(きぬた)緑地まで行く支線と、下高井戸、三軒茶屋間を走る支線が通っていて、昭和四十四(一九六九)年に本線と砧緑地までの支線が廃線となってのち、下高井戸、三軒茶屋間は世田谷線となった。
 だから玉電松原という駅はただの松原駅となった。
 だが私の中で松原は永遠に(ということは今でも)玉電松原だ。
 その玉電松原界隈のことをこれから書きつづって行きたい。
 小さいとは言え確かな商店街があった町のことを。
 玉電松原に限らず、たぶん、昭和三十年代、四十年代、五十年代、つまり昭和が終わる頃までは、日本の様々な場所にそのような商店街がたくさん存在していたと思う。
 昭和どころか平成が終わろうとする今、それらの商店街は殆ど消えてしまった。
 いや、すべて消えてしまったかもしれない。
 商店街といった時、私は、本屋、おもちゃ屋、お菓子屋、文房具屋、電気屋などがある町をイメージする。
 ところが今や、本屋、おもちゃ屋、文房具屋を見かけない。
 私は今、世田谷の三軒茶屋に住んでいる。
 少年時代から馴染の町で、少年の頃の私には三軒茶屋は街と町との中間にあるマチだった。
 つまり新宿や渋谷の街ほどの繁華街ではなかったが、松原や、やはり私の近所にあった下高井戸や経堂に比べれば大きなマチだった。
 本屋やおもちゃ屋や文房具屋は数え切れないほどあったし、松原にはなかった古本屋も三軒もあった(小学校五年の頃から私は玉電に乗ってそれらの古本屋に通った)。
 ところが今の三軒茶屋に本屋はかろうじて一店(レンタル店も兼ねているTSUTAYA)しかなく、文房具はそのTSUTAYAと西友の文房具コーナーでしか買えない。その西友にはたしておもちゃコーナーはあるのだろうか。
 皮肉なのは、一昨年(二〇一七年)、環七の向う側(つまり都心から見て外側)に巨大なドン・キホーテが出来て、私の仕事場から歩いて数分のそのドン・キホーテに私は時々遊びに行くが、そのドン・キホーテの文房具コーナーやおもちゃコーナーはかなり充実しているのだ(もちろん本のコーナーは存在しない)。だがそのドン・キホーテもこの原稿が雑誌に載る頃には店を閉じてしまう。
 昭和三十六(一九六一)年に赤堤に移り住んだ私が三軒茶屋に住むようになったのは平成元(一九八九)年の秋頃だった。
 もうすぐ平成が終わろうとしている。
 昭和の最後のほぼ三十年を赤堤に暮らした私は平成の同じ時間を三軒茶屋で暮らした。
 私が三軒茶屋に移り住んだのはバブルの時代だ。
 そしてバブルの時代はセゾン文化の時代でもあった。
 丸井と並ぶカード(ローン)会社に緑屋(みどりや)があった(私の父はその二つの会社のことを前借り屋と呼んでいた)。
 テレビのCM戦略が当ってどんどん業績を伸ばしていった丸井と対照的に緑屋は業績を
悪化させていった。
 そしてバブルに入る頃、緑屋はセゾンに買い取られた。
 私の行動範囲に絞ると緑屋は渋谷と三軒茶屋にあった。その渋谷店は「ザ・プライム」になり三軒茶屋は「アムス」になった(バブル崩壊後も「ザ・プライム」はその名称のままで営業を続けているが「アムス」は西友に変った)。
 「アムス」は小物や文房具やインテリアをはじめとしてオシャレな品揃えだった。五階にあった本屋「リブロ」の棚並びも良かった(私の最初の著書『ストリートワイズ』〔晶文社一九九七年〕が出た時はとても良い場所に平積みしてくれた)。同じ階にあった映像ホールは、さほど広くはなかったが、昭和三十年代の日本の忘れられた映画監督の特集上映を続けていた(鈴木英夫監督の再評価――いや新評価か――もその特集上映の中で生まれた)。
 しかもその頃の三軒茶屋には映画館(名画座)が三軒もあった。古本屋も同じく三軒あった。これらはすべて消え、「アムス」はただの西友(ありふれた大型スーパー)となった。
 話を私が赤堤に越して来た頃に戻す。
 当時の赤堤には畑がたくさんあった。いやそれどころか牧場もあった
 私の実家から歩いて五分ぐらいの所にあった四谷(よつや)(けん)牧場だ。その名の通り戦前に四谷から移って来たというその牧場は私が大学を卒業する時にもまだあった。
 私が大学に入学した頃に、その牧場の隣に牧場主が経営するステーキレストラン「MOW(モウ)」が出来て、そのキャッチコピーは“牧場の見えるレストラン”だったが、そこで飼われていたのは食用牛ではなく乳牛(たしか名糖牛乳におろしていたと思う)だった。
 通り(赤堤通り)をはさんでその牧場の所有する空き地があって、最初は牛の糞処理場として使われていたのだが私がその隣にある小学校(赤堤小学校)の高学年になる頃には玉蜀黍(とうもろこし)畑へと変り、あまりに見事に成長する玉蜀黍を眺めるたびに、やはり前身が前身だけに土地がよく肥えているのだなと思った。その場所は私が高校を卒業する頃には高級マンションとなり、松坂慶子の両親が住んでいたはずだ。それからサッカーの三浦知良(かずよし)・りさ子夫婦の新婚所帯もそのマンションだったはずだ。
 今ネットで検索すると四谷軒牧場の最寄り駅は小田急線の経堂だが、歩くと十五分ぐらいかかる(京王線の桜上水駅だとさらに遠い)。
 つまり四谷軒牧場の最寄り駅は玉電松原だった。とは言え、松原駅から我が家まで五~六分だから、四谷軒牧場まで十分はかかった。
 小学校のすぐ近くにあったから四谷軒牧場は私たちのなじみだった(入学直後にはそこで写生会も開かれた)。
 私の家のすぐ近く、松原駅方向に歩いて二分ぐらいの所に同級生のW君の家があった。W君には弟がいて、彼は私の上の弟と同学年だったから四人で(のちには私の下の弟もまじえて)よく遊んだ。
 そのW君(弟)が大の牛好きだった。
 私の父は長野県の美ヶ原高原に別荘を持っていて、毎年夏、W君たちも交えてそこで避暑した。その場所にも牧場があってたくさんの牛がいたからW君(弟)は嬉しそうに牛と遊んでいた。
 将来は北海道で牧場を持ちたいという夢を持っていたW君(弟)は東京農大の学生だった時四谷軒牧場でバイトしていたけれど、就職先は皮肉なことに日本マクドナルドだった(もう三十年以上彼と会っていないけれどいま彼はどこで何をしているのだろうか――ひょっとして北海道で牧場を経営しているかもしれない)。
 これは私が赤堤小学校に入学する前、つまり昭和三十年代の話だが、ある時四谷軒牧場が火事になり、背中が燃えている牛が小学校に入りこみ、校庭を狂ったように駆けまわり生徒たちはパニックになったという。小学校四年生の時の朝礼で、最古参の女性教師から聞いた話だ。
 そこまでのものではないが、我が眼で目撃したものもある。
 小学校六年の時、給食を食べ終え、親友のコミちゃんと遊びに行こうと思って、ふと窓の向こうを見たら、面白い光景に出会った。
 六年生の教室は三階建ての最上階にあった。だから玉蜀黍畑の向こうに赤堤通りがよく見える。
 四谷軒牧場から逃げ出した牛が通りの真ん中にデンと座っているのだ。
 その頃(一九七〇年)になると私の小学校入学時(一九六五年)と違って赤堤通りはけっこうな交通量になっていた(もちろん信号も取り付けられていた)。だから牛の姿に驚いたドライバーたちがパニックになっているのだ(この近くに牧場があることを知っている人でも驚いただろうからまして知らない人たちは一体何が起きたのだと思っただろう)。
 私の少年時代の赤堤は畑が多かったと書いた(畑だけでなく水田とそれに隣接した小川もありそこでメダカやドジョウをとった)。それらの畑は用途によって違った(と言ってもトマトやキュウリを盗み食いすることではない――それも少しはやったけれど)。例えばキャベツ畑に紋白蝶を採集しに行く。その経験を持つ人はいるだろう、しかし、山吹の花に天道虫が群がることを知る人は? それから山椒の木(葉)にはアゲハチョウの巨大な幼虫がいた。
 私が赤堤に引っ越してきた当時の住所は赤堤二丁目三八八だった(それが三丁目二十八の二十六に変わるのは小学校三年ぐらいの時だと思う)。
 西福寺という寺の敷地にあった分譲住宅の一軒だ。
 西福寺の門の手前に「区劃(くかく)整理記念」と書かれた大きな石碑が建っていたが少年時代の私はその意味がわからなかった。
 都心でタクシーを拾い、世田谷、と言うとイヤがる運転手さんが多かった(最近はそういうことはなくなったが)。世田谷は細かな農道が多く、その農道をそのまま道路にしたため、狭く、しかも一方通行が多い。それを嫌うのだ。
 ところが赤堤三丁目の界隈は道が碁盤の目になっている。地主たちが戦前、土地を提供したのだ。だから区画整理が出来た。そのことを記念した石碑だ。
 私の家と同じ規模の分譲住宅は四軒あったが、私の家の向かいと手前(大通りに面している)の家は違った。
 向かいはある小出版社のオーナー社長の一家が住んでいたが、かなりの豪邸で三台分の駐車場と広い庭があった。
 私の家に面した御影石(みかげいし)の低い塀の上にたくさんのツツジが植えられて、春は綺麗だった(私はピンク色のツツジと白ツツジの雄蕊(おしべ)雌蕊(めしべ)をこすり合わせてハーフ&ハーフを作ったことがあるけれどそれがバレてその家の奥さんからひどく怒られたことがある)。
 私の手前の家はさらに広い敷地を持っていた。ただし豪邸ではなかった。西福寺から借りていたというその家に住んでいたのは私たちが越して来た当時上智大学に通う息子(次男で長男は医者として独立していた)とその老母だった。
 戦前からの建物だというその家はもちろん木造で、ガス水道はなく風呂も五右衛門(ごえもん)風呂(ぶろ)だった。あとで述べるがその家の広い庭で遊ばせてもらっていた私は、井戸水を汲むのや薪を割るのを手伝った。
 広い庭、と書いたが本当に広かった。
 玄関はいつも閉じていて使われるのは勝手口だけだったが、その勝手口の手前に井戸があり、井戸の横には無花果(いちじく)の木(よくカミキリ虫をつかまえた)、その裏には大きな枇杷(びわ)の木(よくモズが獲物を小枝に刺していた)。
 そこを抜けると玄関の前に出、さらに進むと桜の木が一本(少年時代私はよく一人花見をした)。その先を右に行き、ずんずん進んで行くと、いよいよ広い庭に出る。
 いったい何坪ぐらいあったのだろう。幼児だった私はその庭に行くと平気で一時間以上時間をつぶしてしまうのだ。
 もちろんたくさんの木が植わり、草がはえていた。
 木の中でも目立って大きかったのは栗の木だ。
 初夏は枇杷と無花果、そして秋になると栗を食べた。この習慣は小学校の高学年まで続き、同級生や弟たちだけでなく彼らの友人も連れて栗拾いをした(十人以上集まったこともある)。
 その広大な庭は、つまり、私の庭だった。
 少年時代から私はアウトドアー派で小学生になると玉電松原駅から電車に乗って三軒茶屋や渋谷に出かけたが、幼稚園まではその庭で事足りていた。アウトドアー派でいながら友達のいない(きわめて人見知りの)少年だった。
 だから、ある時事件が起きた。
 私の自宅から歩いて二~三分ぐらいの所にある教会(カナダ、ケベック州のカソリック)が経営するマリア幼稚園に私は通うことになったのだが、その入園試験の時だ。
 試験の途中で私は逃げたのだ。
 逃げ場所はもちろん例の庭だ。
 しかし試験には母と祖母がつきそい、二人は私の行く先を知っていた。
 草叢(くさむら)に身を潜めていたら二人と園長であるボアソノ神父の話し声が聞こえて来た。
 声が近づいた時、私は静かに草叢を移動した。
 そういうやり取りが何度か続いたのち、私はついに捕えられてしまった。
 しかし不思議なことに(試験を放棄したのに)、私は四月からその幼稚園に通うことになった。
 最初の一年私は誰とも口をきかなかった。
 出欠をとるために名前が呼ばれた時も私は返事しなかった。休み時間になると皆、庭(けっこう広い庭だった)に出て友達と遊ぶのだが、私は庭の片隅に建つマリア様の像のうしろにまわり、彼らの様子をじっと観察するのだ(考えてみれば不気味な少年だ――わざわざ庭に出てそんなことをするのだから)。
 ところが年長組になったら先生が変り、美人で性格の良かったその先生に私はなつき(小さい頃から美人好きだったのだ)、よくしゃべる少年になっていた。
 だから、小学校に入るとごく普通の少年になっていた。しかも自転車に乗れるようになったから行動範囲は広がった(玉電を使ってさらに広がるのは小学三年生頃から)。
 昭和三十三(一九五八)年生まれのオタク世代である私に怪獣ブームが直撃した。
 しかし実は昭和三十三年生まれは、その前後の人たちと比べて特殊だと思う。
 怪獣ブームが直撃した世代に、一番夢中になったテレビ番組は、と問いかけたら、あるものは『ウルトラQ』と答え、あるものは『ウルトラマン』と答え、そしてまたあるものは『ウルトラセブン』と答えるだろう。例えば私よりも二学年下の弟は『ウルトラセブン』と答えると思う。
 ところが私が一番好きな快獣物は『快獣ブースカ』なのだ。第一回放送が昭和四十一年十一月九日で最終回が同四十二年九月二十七日。つまり私が小学二年生から三年生にかけてだ。
 これは私だけでなく私と同学年の人たちに共通するのだ。
 例えば現代写真家の今井アレクサンドル。彼はブースカをオブジェに風景を撮る作品をライフワークにしている。
 それからパルコの現社長。彼が社長に就任した時、ある新聞(夕刊)に彼の写真入りのインタビューが載っていたが机の上にブースカ人形が置かれ、渋谷店の店長時代の一番の思い出はブースカのサイン会です、と答えていた。
 三年前(二〇一六年)、東京MXテレビでブースカが再放送されていることを知り、途中からではあったが、録画し、ブルーレイに焼いた。するとデアゴスティーニのDVDコレクションでブースカのシリーズが始まり、これをコンプリートした。ついでにDVDのボックスセットもアマゾンで注文してしまった。
 だから久し振り、約半世紀振りでブースカを見直し、感動してしまった(以前よりさらに感動した)。
 ブースカが作られた円谷(つぶらや)プロは世田谷の祖師ヶ谷(そしがや)大蔵(おおくら)にあって、ブースカの家はその円谷プロが使われている。
 しかしブースカはロケがとても多い。ロケ先で家を借りるからブースカとその弟のチャメゴンがある時は茶の間で食事しているかと思うと、次の時はモダンリビングだったりする。
 その風景に私は興奮してしまうのだ。
 赤堤通りを桜上水方向にまっすぐ行くと千歳船橋に至る。小田急線でいうと私の家の最寄り駅が経堂で、その次が千歳船橋、そして祖師ヶ谷大蔵となる。
 ブースカをリアルタイムで見ていた頃、私はよく自転車で千歳船橋のあたりまで意味なく出かけた。
 いま希望ヶ丘団地という広い団地のあるあたりは当時は丘陵地帯だった(それがならされていった様子も憶えている)。その丘陵地帯がブースカに何度か登場するのだ。
 それだけではない。
 当時はまだ環状八号線が通っていなかった。その風景も登場する。
 ブースカはその時代の最新スポットも登場する。成城学園前駅の洋菓子兼喫茶アルプス(昭和四十年オープンで今でもある)、小田急向ヶ丘遊園、千葉行川(なめがわ)アイランド、それから小田急ロマンスカー。それからもちろん、出来たばかりの高速道路。
 しかし私にとっては、やはり、懐しい世田谷の風景だ。
 私のことを、東京っ子を鼻にかけると思っている人がいる。
 だが私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ。
 しかも世間の人が思っている世田谷っ子ではない。
 世田谷は高級住宅地だと思われていて、実際、今の世田谷はそうかもしれないが、私が引っ越して来た当時の世田谷、特に赤堤界隈は少しも高級でなかった。もちろん低級でもない。つまり、田舎だった。ブースカを見るとその田舎の風景を思い出す。

(続きは本書でお楽しみください)

玉電松原物語

坪内祐三

2020/10/20発売

坪内祐三

つぼうち・ゆうぞう 1958(昭和33)年5月8日東京都渋谷区生まれ、3歳から世田谷区育ち。早稲田大学第一文学部人文専修卒、同大学院英文科修士課程修了。1987(昭和62)年から1990(平成2)年まで「東京人」編集部員。1997(平成9)年、『ストリートワイズ』(晶文社)でデビュー。2001(平成13)年9月、『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲り』(マガジンハウス)で講談社エッセイ賞を受賞。2020(令和2)年1月13日、心不全のため急逝。主な著書に『靖国』『古くさいぞ私は』『変死するアメリカ作家たち』『探訪記者 松崎天民』『昼夜日記』など。「小説新潮」に連載中だった『玉電松原物語』が遺作となった。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹


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