2022年5月10日
東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』書評
荒海に小舟の時代に
著者: 白石正明
家族、キャリア、自尊心、パートナー、幸福……。自由で過酷な社会を、いかに生きるか。この問題に正面から取り組んだ、新感覚の“読むセラピー”『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』が好評発売中です。
著者の東畑開人さんは、沖縄の精神科デイケア施設での経験を基にケアとセラピーの価値について考え抜いた『居るのはつらいよ』(2019年)で第19回(2019年)大佛次郎論壇賞、紀伊國屋じんぶん大賞2020を受賞しています。その担当編集者で、長年、東畑さんの執筆を見守ってきた白石正明さんによる書評をお届けいたします。
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東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
2022/03/16
公式HPはこちら。
多くの編集者は、あとがきから本を読む、と思う。少なくとも私はそうだ。どんな思いでその本を書いたのか、著者にとってのその本の位置づけなど、要するに内容より著者と本の関係をまずは知りたいのだ。
で、さっそく本書『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』のあとがきを開くと、こんなフレーズが飛び込んできた。
「3年前、『居るのはつらいよ』という本を出したあとで虚脱状態だった」
おおー! 当の本の編集担当としては、ちょっと嬉しくなる。虚脱状態になるほど全力投球してくれたんだ~。そしてこう続く。
「次の本はリハビリのつもりで、薄くてさらっと書けるものにしたいと思っていた」
へぇ、そんなリハビリが必要なほどだったのか。申し訳なかったなぁと思いつつ、実はさらに嬉しくなっている。へへ。
あとがきは、「そんなつもりで語りおろしに手を入れる程度で考えていたが上がってきた原稿のダメさに愕然として一から書き直した」と続く。全編に事例を加え、さらに文体そのものを変えた大手術であったと。
ふーんと思いつつ、お手並み拝見とばかり巻頭から読みはじめたら、止まらなくなった。おもしろすぎる……。
おもしろさの第一は、その圧倒的な物語推進力である。読者であるあなたがカウンセリングルームに相談に来たとして、東畑さんがこう語りかける。
心の危機というのは「夜の航海」と一緒で危険に満ちあふれています。そんな暗い大海原に私というカウンセラーと一緒に漕ぎ出すわけですが、丸腰というわけにはいきません。曖昧模糊な「心」にいくつかの補助線を入れて分けてみると扱いやすくなります――。
こうして提示されるのが、本書の帯にも大書されている7つの補助線である。それは「馬とジョッキー」「働くことと愛すること」「シェアとナイショ」のように二項対立で構成されている。つまりこれらの補助線で心を分けていくと、例えば「馬(=衝動)」と「ジョッキー(=コントロール)」の葛藤として整理できる。これが7つもあれば、だいぶ見晴らしが良くなるはずだ。
二項対立による整理は、他人事だと「なるほど」と思うけど、実際に「今ここ」で悩み苦しんでいる当人には届かないことが多いと私は思う。補助線というナイフ自体がその人の内側にあるからだろうか。そこでカウンセラーという介添人(?)のナイフを借りつつ一緒に航海に出る、と相成るわけだ。しかし夜の航海である。真っ暗闇で先が見えなくなったり、嵐に遭って難破しそうになったり、凪の退屈さに耐えられなくなったり……という物語がいつの間にか始まっている。
クライアントである読者とカウンセラーが一緒に航海する。一緒にといっても、彼らもまた別々の小舟に乗っている。この初期設定が秀逸だと思う。
こうして設定された「大きな物語」の中で、カウンセラーはある男女の事例を語りはじめる。起業関連のグループチャットで情報交換をする、いかにも当世風の自立したミキさんの事例とタツヤさんの事例である。別々に展開されていたこの二つの事例はやがて絡み合い、恋愛と家族と孤独と加害被害と赦しの「小さな物語」が入れ子のように立ち上がり、それは制御できない奔流となって二人に襲いかかって……。
物語のよいところは、矛盾を矛盾のままで表現できるところだと思う。矛盾というのは定義上、両者が同時に成立しないことだ。ということは同時でなければよい。つまり物語という「時間」の上に載せていけば、矛盾を矛盾のままに扱える。その往還こそが物語のダイナミズムを生むのであり、その渦に巻き込まれることが本を読む楽しみの大半でもある。
先ほど二項対立をベースにした7つの補助線のことを書いたが、実は本書ではこれがなかなか複雑な構造になっていて、読みどころでもある。心理「学」ならすっきりさせたほうが通りはいいだろうが、実際にやってくるクライアントの複雑さを反映しているのか、そんな簡単には話を済ませない。たとえば「馬とジョッキー」と聞くと、衝動とコントロールが拮抗してがっちり組み合っている図を想像するが、現代ではこの葛藤自体が成立しないと記される。
なぜジョッキーを推しても、馬を推しても、結局僕らの心はジョッキーだけになってしまうのか。それは、僕らが今、小舟で航海せざるをえない時代を生きているからです。(58頁)
荒海に小舟。まさにこれが本書の基底的イメージである。変転極まりない、油断するとあっという間に波にさらわれてしまう自己責任の海に、脆弱な個人をそれなりにフォローしてくれていた大船から下ろされてしまう。小舟だから小さな波やちょっとした風で船体はぐらつき、ひどいときには転覆してしまう。誰も助けてくれないし、誰も肩代わりしてくれない。となると、常に周囲を見回してリスクを最小にする生き方しかできないことになる。つまりジョッキーによる「コントロール」がすべての社会。
このジョッキーは小心なので、馬を走らすのではなく、つねになだめておとなしくさせ、ときには薬で眠らせたりする。「それでいいのか?」という声が自分の胸に響く。こうして人はカウンセリングに通うのだろう。そしてこのコントロール志向こそが依存症の入り口でもある。意志が弱いからアルコールや薬物の依存症になるのではなく、「酒や薬を飲んでまで」自己をコントロールしようとする、意志が強すぎる人たちなのだ。
こうした一筋縄ではいかない、さまざまな境遇の人が本書には登場するが、最後には「そうなると、わたしはひとりです」と絶望的なため息をつかざるをえなくなる点ではみな似ている。読者もたぶん似ている。この絶望のイメージが強靱なので、どんなエピソードも「わたし」の物語として読めてしまうのだ。
さて、7つの補助線の最後は「純粋と不純」である。ここまできて著者は、今まで補助線できっぱり二つに分けて話を進めてきたが実は「あれかこれか」と明確に分けられるわけでない、とちゃぶ台返しのようなことを言う。そのように明確に分けること自体が「病んで」いるのであり、この最後の補助線は、これまでの濃すぎる補助線を治療するために登場したメタ補助線である、と。「馬かジョッキーか」ではなく、「馬もジョッキーも大事」という「『も』の思想」である、と。
ここから続く一連には、ケアであれカウンセリングであれ、時間をかけても中途半端にしか遂行できない営みが見事に言語化されていると思う。とはいえ、ここを最初に読んでも一連の重さはきっと分からない。冒頭からちゃんと読んで、一緒に「夜の航海」を体験したあなたでないと分からない。書かれたことは同じであっても、すでにあなた自身が読む前と変わっているからである。
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東畑開人『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』
2022/03/16
公式HPはこちら。
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白石正明
1958年生まれ。1996年に医学書院入社。担当する「シリーズ ケアをひらく」は、2019年に第73回毎日出版文化賞を受賞。担当書に『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著、2009年)、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(國分功一郎著、2017年)、『みんな水の中 「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』(横道誠著、2021年)など。Twitter:@shiraishimas
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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