辞書は版によって変わります。私が編纂に携わる『三省堂国語辞典』(三国・さんこく)は、最新版の第7版で「的を得る」という項目を立てました。「的を得た表現」などと使う慣用句です。旧版で「的を射る」の誤りとしていたのを改めました。このことは、ネットなどで話題になりました。

 誤用が広まったから容認した、というわけではありません。「もともと誤りでなかった」と認めたのです。 「射る」は矢を当てることです。一方、「得る」には、「要領を得た説明」「時宜を得た処置」のように、うまく捉えるという意味があります。「的を得る」もこの意味、すなわち「急所をうまく捉える」と解釈して差し支えありません。同義語「正鵠(せいこく)を得る」も同様です。

 1980年代まで、「的を得る」は、作家や日本語学者たちも当たり前に使う表現でした。それを「誤り」と最初に指摘した国語辞典は、ほかならぬ『三国』でした。

 この辞書は元来、ことばの変化に寛容です。ただ、「的を得る」に関しては、「当を得る」との混同から生まれた表現だと考えました。編集委員の見解は60年代に活字になり、82年に『三国』第3版に記述されました。「的を得る」が誤りだと一般にも言われ出したのはこの頃からです。

 その同じ国語辞典が、今また「的を得る」を誤りでないと認めるに至りました。まさしくマッチポンプです。利用者の方々には深くおわびします。 「的を得る」に限らず、従来誤用とされてきたことばの中には、本当に誤りかどうか疑わしいものが少なくありません。 『三国』第7版で指摘したものの中から例を挙げれば、「汚名挽回」「二の舞を踏む」「(ひとりで笑う場合の)爆笑」―などがあります。ちなみに、「爆笑」は、クイズ番組などで「大勢で笑う場合に使う」とされますが、そんなことはありません。このことばが広まった昭和初期から、ひとりで爆笑する例はあります。

 日本語に関する一般書を見ると、ほかにも、根拠が曖昧なまま誤用とされていることばはいくらでもあります。「あなたの日本語は間違っている」と脅迫的に書けば、読者を誘引する効果が期待できます。そこで、必要以上にことばに誤用のレッテルを貼る傾向が強まります。

 ことば遣いの誤りを指摘する書物は、すでに近代以前からありました。江戸時代には、なまった俗語形を集めた『かたこと』という本も刊行されています。それでも、昔は、誤用の指摘はどちらかと言えば散発的に行われていました。

 誤用ばかりを集めた本が続々と出版されるようになったのは戦後で、とりわけ70年代以降の現象です。それまでは「まあ、そうとも言う」という程度に考えられて流通していたことばが、どんどん誤用認定されるようになりました。

 書名に「誤用」を含む本を調べてみると、昔は語学の本、それから漢字の読み間違いなどをまとめた本に限られていました。ところが、70年代からは、日本語の表現の誤用を指摘する本が中心になりました。

 こうした現象を、私は「誤用の発見」と呼んでいます。「ことばには厳然たる正用と誤用とがある」と人々が強く意識するようになった、ということです。

 その正誤を決めるのが「誤用本」(日本語の誤用を集めた一般書)などの役割になりました。そこに書いてあることは、人づてに、あるいはマスコミに引用されて、世間に広まりました。

 国語辞典はどうかというと、「誤用本」ほど正誤を前面に押し出すことはありませんでした。もっとも、実感として、近年刊行された辞書ほど「○○は誤り」と記すことに力を入れるようになっているという気もします。

 本当に意味の通じない用法なら、誤用扱いをされてもやむをえません。一方、問題なく通じていることばが、決めつけや思い込みによって誤用とされたのなら、ことばが気の毒です。国語辞典の編纂者は、その汚名を挽回してやらなければなりません。

 ことばの正誤についての議論は難しくなりがちです。語源はどうだ、中国の古典ではどうだ、と昔の話が持ち出されることもあります。でも、ことばが世の中に流通するためには、ごく簡単な3つの条件が備わっていれば十分です。

 ①多くの人が使っていて、意思疎通の上で誤解を生むおそれが少ないこと。
 ②相手に失礼でないこと。
 ③一見不合理でも、意味または文法、音韻などの面から、何らかの説明が可能であること。

 冒頭に述べた「的を得る」は、右の条件を満たしているため、ことさら誤用とするには当たらないわけです。

 あることばを、多くの人が平和裏に使っているところへ、突然誤用説が現れる。すると、それまでそのことばを問題なく使っていた人も「えっ、そうなの?」と驚いて、使用を控えてしまう。ことばを排除することは、ことほどさように簡単なものです。

 それだけに、誤用の認定には慎重であるべきです。一見おかしなことばにも、何か合理性がないだろうかと考えてみる。そうした態度が、ことばを使う一人一人に必要です。

 矛盾したことを言うようですが、一方で、それぞれの個人には、あることばを「誤用だ」と信じ、使わない自由もあります。新聞社や放送局が「使うべきでない表現」を内部的に取り決める自由もあります。

 ただし、「私は誤用と考えるから、あなたも使うのをよせ」と押しつけると、問題が起こります。ことに、有力メディアがこれをやると大きな害があります。

 国語辞典も、ことばに関しては有力メディアのひとつです。安易な判断で、ことばに濡れ衣を着せるのだけは避けたいと、辞書を作る者として自戒しています。

(「考える人」2015年秋号掲載)