少年鑑別所と聞いたとき、浮かんできたのは『あしたのジョー』だった。
ドヤ街にやって来た不良少年矢吹丈が、アル中の元ボクサー丹下段平に見込まれ、拳闘をやらないかと執拗に誘われる。しかしジョーは周囲の子どもたちを巻き込んで悪事を繰り返し、逮捕されて少年鑑別所に送られる。その後、ジョーは少年院で宿命のライバル力石徹に出会うのだが、ジョーが少年鑑別所に行ったことは覚えていても、何をするどんなところなのか、読んでいた当時もその話をもらったときも知らなかった。すみません、教えてくださいとわたしは小さな声で言った。横浜少年鑑別所で講話を行うことになったのだ。
事前に所内を見学し、レクチャーを受けた。少年鑑別所は犯罪や非行行為があった未成年者に、矯正教育が必要かどうかを見極める施設だった。動機や背景を調べるため、通常は1か月、最長2か月の時間が設けられる。審判を受けるまでのその期間、彼らは面接や心理検査を受け、規則正しい生活を送る。そして自分自身の処遇について考える。
運動場で身体を動かすこともできるし、家族との面会も許されている。が、スマホはもちろん使えないし、テレビも見られるのは決められた番組のみだ。「ですから、ここで初めて本を手に取る子も多いんですよ」と教官の方は言った。案内されたレクリエーション室には(寄せ集めのようなラインナップではあったが)たくさんの本が並んでいた。講話のテーマは、読書のすすめ。地元のラジオで本を紹介する番組を担当していることで、わたしはこの話をいただいたのだった。「言ってはいけないことはありますか」と尋ねると「暴力的な内容の本を薦めるとか、そういうことだけですね」との答え。細かい配慮を求められると思っていたので意外に感じ、少し気持ちが楽になった。
それから数日間頭の中にあったのは、彼らが寝起きする個室のことだった。1日の中で、自由時間は案外とあるのだ。レク室から借りてきた本を、個室で読む子もいるだろう。でもほとんどの子は、寝たりぼんやりしたりして過ごすのではないだろうか。ほかに選択肢がないから本を手に取り、読んでみたら面白かった、もっと読んでみようと思えたら理想的だけれど(それを促すための講話なのだけれど)、たとえ本までたどり着かなくとも「ぼんやりしているときのささやかな手助け」になるような話をすることは、できないだろうか?
当日は大雨だった。ジャージ姿の少年たちが集合しているレク室に入ったとき、決められた服を着るのではないんだな、とまず思った。どんな表情を作ったらいいか分からないまま、ともかく始めた。「今日は短歌の本を持って来ました」。
〈私ったら考えたくもないやつのことキライキライと考えている〉(脇川飛鳥)
〈ドラえもん 話を聞いてそばにいて ひみつ道具は出さなくていい〉(麦ちよこ)
〈ポテトだけ頼んで分かち合う夜のトマトケチャップすぐになくなる〉(鳥居)
一般の人の短歌を多数収録した枡野浩一さんの『かんたん短歌の作り方』と『ドラえもん短歌』、そして、かつて児童養護施設で暮らしていたという今話題の歌人、鳥居さんの『キリンの子 鳥居歌集』から、自分にも覚えのあるような気持ちや風景を詠み込んだ歌を挙げていった。
「これからのことを考えるのが、みなさんのここでの課題だと聞きました。考えるのってときに面倒くさいけど、こんな風に五七五七七のリズムで―たとえば今日だったら『あめのひは』みたいに、指を折って考え始めると、自然に自分の中から言葉が引き出される感じがして、ちょっと楽しいんじゃないかなと思いました。言葉がたくさんあると、いろんな気持ちをあらわせる。言葉は心の武器です。武器を持っていれば、人はそれだけで安心します。そして本を読むと、武器が増えます」
顔をこちらに向け、みな真面目に聞いてくれている。武器って言葉、不適切だったかなと思ったが、教官の方々は何もおっしゃらなかった。
数週間後、感想が届いた。「初めて短歌に耳を傾けました」「僕は鑑別所に入ってから本を読むようになりました。話を聞いてもっと好きになれる気がしました」「僕も誰かに本を薦めて面白かったと言われると嬉しくなります」「最初の5ページくらいでつまらないと思ったらどうしたらいいですか?」「本で言葉を学びたいと思った。短歌に興味がわいてきました」……。
胸を衝かれた。あのときあの場にいたほぼ全員がそれぞれの言葉を書いてくれていた。彼らがその後、ジョーのように少年院に行ったのか児童養護施設や児童自立支援施設に行ったのか、わたしには知る由もない。でも、彼らがこれからの人生で自分だけの武器を獲得できますように、と願わずにはいられなかった。
〈気をつけていってらっしゃい 行きよりも明るい帰路になりますように〉(枡野浩一)
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北村浩子
きたむらひろこ 1966年東京都生まれ。実践女子短期大学卒業後、メーカー勤務を経てラジオの世界へ。現在、FMヨコハマの本紹介番組「books A to Z」のパーソナリティーを務めるほか、雑誌でブックレビューなどを執筆。著書に『ヒロ☆コラム 素顔のようなもの』(日本文化出版)。(雑誌掲載時のプロフィールです)
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 北村浩子
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きたむらひろこ 1966年東京都生まれ。実践女子短期大学卒業後、メーカー勤務を経てラジオの世界へ。現在、FMヨコハマの本紹介番組「books A to Z」のパーソナリティーを務めるほか、雑誌でブックレビューなどを執筆。著書に『ヒロ☆コラム 素顔のようなもの』(日本文化出版)。(雑誌掲載時のプロフィールです)
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