娘が珍しく話しかけてくれたと思ったら、ポケモンGOの使い方についての質問だった。日本でポケモンGOがリリースされたのは七月二十二日のことであった。何の変哲もない公園に多くの人々が集まったり、危険な場所や私有地に入り込んだ人がいたり、あるいはそれによって動いた金額が非常に大きいとか、マスコミに様々な話題が提供された。
こういう屋外で楽しむタイプのゲームは、ARG(ARゲーム)と呼ばれ、その基礎はAR(拡張現実)技術にある。今回の騒動は、ARという、ちょっと耳慣れない技術の存在を社会に知らしめたということになろう。
AR技術の意義は、我々の住む現実世界とコンピュータ中のバーチャル(仮想)世界とが、空間的に一緒に体験可能になったことである。現実世界とバーチャル世界とが、同時に体験できると言ってもピンとこない人が多いかもしれないが、「ほらそこにピカチュウがいますよ。このスマホに映っている」と言えばその感じはわかるであろう。
バーチャル世界と現実世界は大きく違う性格を持つ。違うからこそ、両者を融合させることが必要なのである。この二つの世界の違いの中で、一番わかりやすいのは時間軸の性質ではないだろうか。
現実世界では、時間軸は過去から未来に向かって一定の速度で流れており、我々はそれを制御できない。流れに身を任せるだけである。しかし、バーチャル世界においては、たとえばビデオに巻き戻しや早送りが可能であるように、自由に時間軸上の移動が可能である。
コンピュータは記録の機械である。と同時に、シミュレーションの機能を使えば、未来を予測することも可能である。どの時刻の情報を読み出すかは自由だから、時間軸を自由に航行できる。そして、AR技術を使えば、その世界を感じとれるのだ。
時間軸を自由にあやつれれば、タイムマシンを手に入れたようなものである。このことがわれわれの生活をどのように変えるかは想像に難くない。たとえば未来を知ることができれば、株で大儲けできるだろう。そもそもギャンブルという概念が意味を失うかもしれない。
そんな大げさなものではなくとも、鉄道の乗換案内はすでにスマホに入っており、ちょっと急ぐ時などよくご厄介になる。こんなことができるようになったのはここ十年くらいのことではないだろうか。筆者が小学生のころ、映画館で見たSF映画に、常に計算機に伺いを立てて、計算通りに事が進むと安心するという宇宙人が登場したが、その場面が妙に頭にこびりついている。当時の自分が、今の自分を見たら、「あ、あの宇宙人だ」と思うに違いない。
先述のように、AR技術は、こうした先読み感覚の矯正器として位置付けられるだろう。まさに時間眼鏡である。筆者は眼が悪い。だから眼鏡をかけている。かけないで歩いたら、危なっかしくて仕方がない。それと同じかもしれない。われわれには未来が見えない。だから時間眼鏡が必要だ、ということだろう。
なぜ、そんな新しい感覚が必要になるのであろうか。それは環境が変わりつつあるからである。基本的に、生物の感覚は、環境にチューニングされている。だから「快適」を感じるように行動することは正しい。われわれは甘い実が好きであるが、それはそこに多くの糖分が含まれるからである。苦い実より甘い実が好きな種族のほうが多くの栄養を摂取でき、その結果として生き残ったことを進化論は教えてくれる。
しかしながら、これは自然環境においての話である。現在の世界は、産業革命以降、わずか数百年のスパンであるが、人工環境化が急速に進展しつつある。行動するにあたって、もっとずっと複雑な因果関係を考えなければならなくなっている。人工的な都市環境の中では飢餓の心配はまずなく、むしろ栄養摂取よりは、過食やメタボを心配せねばならないだろう。冷房の多用は、その場の快適な生活を保障するが、深刻な環境破壊の要因であることも忘れてはならないであろう。われわれの感覚の伝える「快適」が、ただちに全体の快適を意味しなくなり、いろいろな我慢を強いられているのが現代人である。感覚が進化するとは、こうした状況に応じて、正しく「快適」を感じることができるようにすることである。
先が見えるということは、そこに含まれる因果関係まで含めて目の前の世界を感じることができるということである。いわば「超快適」な世界にわれわれが身を置くようになったとき、何が起こるだろうか。あえて批判を恐れずに言えば、われわれはより賢く生きることができるようになるはずだと思う。
いまのところ、ポケモンGOで見えるのはかわいいモンスターだけである。しかし、ここに時間眼鏡のような未来を見せる仕組みが作りこまれたとき、われわれ人類は一皮むけることになるのではないか。
(「考える人」2016年秋号掲載)
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廣瀬通孝
東京大学先端科学技術研究センター教授。同大学院情報理工学系研究科教授兼務。1954年神奈川県生まれ。東京大学卒業、同大学院博士課程修了。バーチャル・リアリティの先駆的研究で知られる。共著『シミュレーションの思想』で大川出版賞受賞。著書に『バーチャル・リアリティって何だろう 仮想と現実のあいだ』『空間型コンピュータ 「脳」を超えて』『いずれ老いていく僕たちを100年活躍させるための先端VRガイド』などがある。(雑誌掲載時のプロフィールです)
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とは
はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。
2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。
目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。
当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。
まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。
あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。
創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。
読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。
「考える人」編集長
松本太郎
著者プロフィール
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- 廣瀬通孝
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東京大学先端科学技術研究センター教授。同大学院情報理工学系研究科教授兼務。1954年神奈川県生まれ。東京大学卒業、同大学院博士課程修了。バーチャル・リアリティの先駆的研究で知られる。共著『シミュレーションの思想』で大川出版賞受賞。著書に『バーチャル・リアリティって何だろう 仮想と現実のあいだ』『空間型コンピュータ 「脳」を超えて』『いずれ老いていく僕たちを100年活躍させるための先端VRガイド』などがある。(雑誌掲載時のプロフィールです)

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