死んでいない者』で芥川賞を受賞した気鋭の小説家・滝口悠生さんと、「忘れる日本人」「山山」を発表し、劇団をもたず演出もしない劇作家として話題の新鋭・松原俊太郎さん。

京都芸術センターの「演劇計画Ⅱ」というプログラムのひとつとして、昨年12月に京都でトークイベントを開催したのを機に、親しくメールのやりとりをしている二人。そのやりとりを、往復書簡として掲載します。

「演劇計画Ⅱ」で、松原さんが取り組んでいるのは、3年がかりで「上演を前提としない」戯曲を制作する、というプロジェクト。昨年12月のトークはその戯曲「カオラマ」の第一稿の公開を受けて行なわれましたが、往復書簡はこの戯曲の完成(年末に発表予定)後の来年1月まで、月2回更新の予定です。

滝口悠生→松原俊太郎

どうもです。地点による松原さん原作の2公演、観ました。
というか2回とも会場でお会いしましたね。
松原さんも東京滞在が長くて大変だったのではないでしょうか。
僕は毎年この梅雨時期に、喉が痛くなる風邪をひきます。
たまった疲れがまとまって出たりすることもあるので、どうぞ気をつけてください。

はじめてお会いしたのは去年の12月だったから、ちょうど半年前ですね。
京都芸術センターの「演劇計画Ⅱ」というプログラムのひとつとして、松原さんと京都でトークをしたのを機に、その後もメールをやりとりするなかで、せっかくだから公開の往復書簡のような形にしたらいいのでは、とご提案したのでした。
というのも、トークはおもしろかったのですが、その日が初対面ということもあって、どちらかというとそのあと近くの居酒屋に移って飲みながら話してるぐらいからやっとエンジンがかかったようなところがありました(何の話をしたかは忘れてしまいましたが)。
それで翌日は少し京都を歩いて、東寺だけ見て東京に帰ったのですが、その道中も、もう少し時間をかけて松原さんとお話ししたいなと思い、後日メールのやりとりを始めたのだったと思います。

で、ようやくこの「Webでも考える人」の場で往復書簡が実現し、こうして僕がさりげなく(松原さんに語りかける体で)ことの経緯と企画の趣旨を説明しているわけです。

「演劇計画Ⅱ」で、松原さんが取り組んでおられるのは、およそ3年がかり(2016~2018)で「上演を前提としない」戯曲の制作をする、というものでした。
昨年12月のトークはその戯曲「カオラマ」の第一稿の公開を受けてのものでしたが、第一稿を読んだ僕の感想は正直なところ、よくわからない……、でした。
「上演を前提としない」戯曲という、そもそも矛盾をはらんだ注文のもとに書かれているわけで、複雑で難解な戯曲になるのも無理はないのかなと思い、参考にと一緒に送ってもらった松原さんの過去作「みちゆき」と「忘れる日本人」の戯曲を読んでみたのですが……これがなおのことよくわからない!
そこでようやく、この「わからなさ」はプロジェクト云々ではなく、松原さんの創作と分かちがたいものなのだ、と思い至りました。

「わからない」イコール「おもしろくない」ではもちろんないわけで、それは結局ものを考えたり整理したりするときのルールやガイドラインみたいなものがない、というだけなのかもしれません。
これは松原さんの戯曲というより、地点の演劇を観た時に思ったことなんですが、ルールのわからないゲームとかスポーツを観ているような感じがあります。
たとえば僕はクリケットのルールをまったく知らないんですが(野球に似てると言われていて、まあ似てはいるんですが、でも全然違う)、試合の映像など観ていると何してんのかなこの人たちは、と滑稽に見えるところもあり、けれどもそこで起こっている勝負のぎりぎりな感じとか選手の興奮や真剣さとかは伝わるので、観てるうちにわからないなりにわかっていくグルーブみたいなのがあって、なんか変におもしろいんですね。
僕が毎回「よくわからない」と思いながらもまた懲りずに地点の公演を観に出かけるのも、観ている時に戸惑いだけではない何かを受け取るからなのだと思います。
あとは演劇でない話ばかりで恐縮ですが、松原さんの戯曲を読んだ時に、残雪という中国の作家の小説を思い出しました。この人の作品もまた、読んでもなんだかよくわからないのですが、なんか妙にグルーブがあって、でもおもしろさをうまく説明できません。

松原さんの戯曲も、そこで起こる事態や人物そのもののおかしさや異様さ(みんなすごいしゃべる)、切迫感からくる狂騒的な感じが特徴だと思いますが、僕が感じた「わからなさ」の理由は、時間や空間の書き方にあるように思います。
「忘れる日本人」の戯曲の序文のような冒頭部には、

「三つの場所でそれぞれ異なる時間が流れている。」(『地下室 草号1』アンダースロー発行 2016.9)

とあります。
また、同じく〈一〉場の最初には、

「ここ、ある部屋で人物たちが外に打撃を与え、返り討ちに遭い、外からひっきりなしの侵入を被りながらおしゃべりし、それぞれの選択がなされる過程、ひとつの共同体が解体される過程がある。」(同上)

とあります。
どちらも文章自体は明快ですが、そこで言われているのがどういう状態、状況であるのかをイメージすることは難しく、こういったところを読むと、松原さんはそもそもご自分の戯曲を「上演を前提としない」ものとして書いているのではないか、とも思えます。
松原さんが今の演劇界では珍しく、劇団をもたず、演出もしない劇作家であること、つまり自分の書いた戯曲の上演に直接かかわらないことも、そこに関係しているのでしょうか。
地点の公演はこれまで何作か観ているのですが、松原さん原作のものを観るのは先日KAATで上演された新作「山山」が初めてでした。一年ぶりの再演という「忘れる日本人」も、戯曲は読んでいましたが、上演を観たのは今回が初めてです。
ややこしいのは(=おもしろいのは)、地点の上演もいわば「戯曲を前提としない」というか、原作や戯曲を一度解体して再構築する方法論であるところですよね。そして地点の主宰の三浦基さんは(これも今の日本の演劇界では珍しく)ご自身で戯曲を書くことをしません。
「山山」の戯曲は上演を観たあと『悲劇喜劇』で読みましたが、戯曲と上演のあまりの違い(ほとんど原型が残っていない)に驚きました。
「山山」も「忘れる日本人」も、これまでの地点の演劇とくらべ日本の土着的な意匠が強い印象でしたが、戯曲を読むとそれはむしろ上演に際して強まったもののようにも思えました。
上演台本は三浦さんがつくられるのでしょうが、いったいどんなプロセスで戯曲から上演台本へと移っていくのか、なかなか想像がつきません。

地点の演劇でも、松原戯曲に限らず、時間や空間、あるいは登場人物の峻別がしばしば曖昧です。その代わり、キーとなるような言葉(声)が戯曲から抽出され、その声が足場となっているような印象です。
「山山」では「ヤッホー」と「もしもし」という呼びかけと応答が、「忘れる日本人」では「わっしょい」という祭祀的・お囃子的なかけ声が繰り返され、それがある種の基調をなしていました。
しかし原作の戯曲を読むと、「ヤッホー」や「わっしょい」はそういう位置づけで用いられているわけではありませんよね(というかもうほとんど戯曲とは別物ですよね)。
地点の上演においては、松原さんの戯曲とはまた別の時空間の無化みたいなことが起こっています。

僕は小説を書くときに、それが上演されたりすることは考えずに書いていて、そこには舞台や俳優の身体というのは想像されず、あるのは言葉だけです。
それゆえの自由さも、不自由さもあります。
そして小説もまたしばしば「わかりにくさ」が問題になります。
それは地点の演劇を観て感じる「わかりにくさ」と同じではないと思うのですが、
地点の「わかりにくさ」が演劇的な舞台や身体によるものというよりは、言葉と人間のあいだの問題であるように思える点では、小説と並べて考えられるのではないかと、かねてから思っていて、今回松原さんの戯曲を原作にした上演2本を観て、なおのことそう思うようになりました。

そう言えば松原さんは小説も発表されていますよね。『悲劇喜劇』に載った「またのために」も読みましたが、小説となると松原さんの戯曲の騒がしい感じは残りつつも、ずいぶん時空が整理されているというか、穏やかで安定した世界という印象でした。
これは戯曲と小説の、どういう違いによるものなのでしょうか?
そして松原さんは、戯曲における上演を、そして上演における戯曲を、どういうふうに考えておられるのでしょう?

……みたいな感じで、小説と戯曲、小説と演劇の距離や境界みたいなことについて考えつつ、
年末に発表予定という「演劇計画Ⅱ」の戯曲の執筆に(勝手に)併走できればと思っています。

今日の東京はもう梅雨明けかな、という真夏日でした。

6月25日 滝口悠生

松原俊太郎→滝口悠生

『山山』『忘れる日本人』二作とも観にきてくださり、ありがとうございます。
僕は東京滞在の終盤に見事に喉が痛くなる風邪を引いて、いま鼻にきてます。
来年は気をつけます。

僕にとっては滝口さんが初めてお会いした小説家の方でした。もっとたくさんお話ししたいと思っていたところでしたので、このような企画が実現して、とても嬉しいです。

近年、日本では作と演出を兼ねる演出家が多く、三浦さんのような演出だけされる演出家は多くないですし、僕のような戯曲を書くだけの劇作家は絶滅危惧種です。
僕のそもそもの演劇との出会いは、滝口さんもご覧になられた、地点の『ファッツァー』という、空間現代というバンドの生演奏とともに上演される、ドイツの作家ブレヒトの戯曲というか断片的なテクストをコラージュしたものでした。それまでの演劇のイメージは大仰な演技で古めかしい台詞を叫ぶという、かなり偏ったものだったのですが、見事に裏切られ、感動して、再演のたびに観に行きました。よく奇特なことだと言われますが、幸福な出会いだったと思います。

それからいろいろあって、戯曲を書き始めたわけですが、作演出の方がするように舞台上のセットを想定しつつ細かい演出を加えて書くのではなく、戯曲の最低限の形式を踏まえて、これまでに読んできた戯曲や小説や哲学書からモチーフを決めて書くという方法をとりました。戯曲=口語ではないので、さまざまな文体を試しながら書いたのが『忘れる日本人』です。本作は滝口さんが小説を書くときと同じで、舞台上のセットは考えず、テクストだけで自律するように書いていますが、上演されることは望んでいて、台詞が声になること、戯曲が使用されることは前提としています。三部構成で、そのまま上演するというのは不可能に近い戯曲ですが、リーディングでも一部だけの上演でもいかようにも使ってもらえればいいと思っています。

地点は本作を舟という舞台装置を使って一場にまとめ、俳優を七福神と見立てて上演しました。まず本読みをくり返し行い、舟や七福神といった戯曲とは別のフィクションをもってきて、別の物語を稼働させます。スポーツのルールというのはそのとおりで、俳優は演出家によって与えられたルールに沿って動きながら発語し、徐々にルールから逸脱し、いつのまにか別の物語が始まっている。ただ、重要なのは、そのなかで声や言葉が聞こえてくるということです。「わっしょい」などのかけ声で分断され、順序を入れ替えられ、意味がわからなくても、あとで台詞が思い出せなくても、聞こえていれば、順序どおりにストレートに発語されたものとは残り方が違うのではないかと思います。
ただ、いわゆる筋といったものは希薄だし、言葉と動きの物語はあまり繋がっておらず、原作テクストの順序を崩してコラージュしているのでテクストが断片的に聞こえてきます。この点が「わかりにくい」と思われるところではないでしょうか。ただ、わかる・わからないということが作者や演出家の意図に関して判別されるのなら、そこは微妙なところですが、僕自身は地点の舞台を観て、あまりわかりにくいと思ったことはありません。地点の舞台では原作から抽出された表象をちりばめた背景とともに身振りをともなった声・言葉が必ず聞こえてくるので、それと原作をもとに自分でイメージをつくることができます。行間ではなく余白があるからですかね。小説の場合は、ある部分は書き込まず、余白を作るということもあると思いますが、その点は滝口さんは意識的にされることはあるのでしょうか。

滝口さんの小説は『茄子の輝き』から入ってそこから全作読んだのですが、いずれも読みやすくて感銘を受けました。現代口語の薄っぺらさと、今では擬古的とされるようなフィクショナルな語りのどちらでもない、そのあいだにあるような語りで、嫌味がなく、どんどんと読み進められる。
先日滝口さんとお話ししているときに、気づいたのですが、僕は『茄子の輝き』は短篇集だと思って読んでいなかったんです。文芸誌に掲載された各一篇がまとめて収録されているものだとは知っていたのですが、読んでいるときには『茄子の輝き』というタイトルとも近からず遠からずの各篇に響き合いも感じていましたし、読みの流れが切れるということはありませんでした。書かれているときには一冊にまとめる、連作集にするというようなイメージは持たれていたのでしょうか。文芸誌というメディアを活かした見事なコラージュで、これは戯曲でもやってみたいですが、なかなか見ないことだと思います。

また、小説と戯曲との違いですが、まず前提とするものが違いますね。小説は読まれることを前提としていて、戯曲は上演を前提としている。ただ、戯曲も、小説よりはかなり少数になりますが、本になっているものもあるし、読まれることはあります。僕の場合は何度も読み直しながら書くので、読まれることも前提になっているかもしれません。あと、読んでほしいという思いはあります。解体して再構成されたもの(地点の上演)と、解体される前のもの(戯曲)というとビフォー・アフターみたいですが、見たものと読むものとで補完しあいながら頭のなかでイメージをつくっていけるのではないかと思います。上演を観て思ったことと読んで思ったことの差異は大きいでしょうし、それぞれがどう交わるのかはとても気になるし、聞いてみたいことです。

僕の小説と戯曲を読まれたときの違いは、おそらくト書きと描写の違いかと思います。ト書きだと「男が歩き始める」といったような現在形の平易な指示になりますが、描写は風景や人物の細かな動きを書き込めるので、時空も整理されるのではないかと。戯曲では説明ぜりふという、つまらないものを揶揄するときに言われる言葉がありますが、戯曲で描写がなされるとしたらそれはト書きではなく台詞のニュアンスや行間から立ち上がってくるものかもしれません。最近の小説は描写が少なくなったと言われますが、戯曲のようだと感じる小説はあまりありませんね。小説は描写だと言ってしまいたいぐらい、小説に特有のもののような気がしています。

話は変わりますが、先日、『山山』のアフタートークに出てくださった映画監督の濱口竜介さんとお話ししているときに、台詞の話になりまして、濱口さんは『ハッピーアワー』という映画の脚本を作る際に、俳優の方々やワークショップの参加者の方々との対話から素材を得て書き、登場人物たちの台詞はその人物たちの性格やそれまでに語られた台詞との整合性、リアリティを持つように選択しているとお話しされていました。ワークインプログレスというか、最初に決まった本があるわけではなく徐々に作られ、改変されていくところは上演台本作りに似ているように思います。小説では断片の繋ぎ合わせでも、最初から書き連ねていく形でも、人物の整合性をとるかとらないかで大きく変わっていきますよね。文芸誌の連載ということも影響はあるのでしょうか。僕自身は読者としてあまり整合性は気にならないのですが、このあたりも「わかりやすさ」の問題に近いのではないかと思っています。

あっちいきこっちいきの読みにくい文章になっていないか不安ですが、
お返事楽しみにしております。残雪、今度読んでみます。
まだまだ梅雨が明けない京都からでした。

7月5日 松原俊太郎