そもそも俺はアメリカに憧れなど持っていなかった。太平洋戦争における日本の敗戦が完全に見えていたにもかかわらず広島と長崎を原子爆弾の実験場にし、その後は世界がなし崩しに共産化されることを防ぐというドミノ理論の名目で朝鮮半島やインドシナ半島で不条理な戦争を展開していた国には憧れよりも敵意を感じていた。加えて1970-80年代に若者に絶対的な信頼と人気を博していた本多勝一の著書(例えば『アメリカ合州国』)を読んで、青二才なりにアメリカの世界支配構造が強固になっていくことは間違っていると思っていた。そしてそのような国から奨学金をもらい学問をすることに屈辱的な気持ちも抱いていた。

 なのに俺はアメリカへゆくのだ。「なのにあなたは京都へゆくの」は1971年にチェリッシュを有名にした歌だが、俺はこの歌を口ずさみながら、「なのにあなたはアメリカへゆくの」と言ってくれる異性がいないことを悲しみながらアメリカにゆく準備をしていた。1983年にアメリカにゆこうとしていた若者は、ほとんどがなんらかの憧れをアメリカに抱いていたはずだ。その中で俺は、ひとりひねくれた渡米者であった。俺は英語の読解には自信があったが、それはあくまで英文学を楽しむためのものであり(ドライサーの「アメリカの悲劇」は3日寝ないで読み切った)、日本に来たアメリカ人旅行者に駅までの道のりを教えるためではなかった。

 話がわき道にそれるが、現在、日本の一部の小学校では、1年生から英会話の時間がある。そんなことをしたところで、英米人観光客に道を教える日本人が量産されるだけだろう。それよりは日本語で読み書きそろばんをじっくり教育してほしい。

 とはいえ、俺のようなものに6年間奨学金を出し専門教育を施してくれた「アメリカ合州国」に対して感謝の気持ちは持っている。あの6年間がなかったら、俺は研究者にはなれなかったと確信する。なぜ俺はアメリカに行ったのだろうか。もし俺がアメリカに憧れを抱いていたのなら、むしろアメリカには行かなかったと思う。大学院入試に落ち、付き合っていたと自分では思っていた女性に振られた俺は、自分を罰したい気持ちが半分と、自分の研究者としての才能を試したい気持ちが半分とあり、そのためには苦行を受ける必要があるように感じていたのである。面倒くさい奴だったな俺は。大学院に落ちたのも、女性に振られたのも当然だよ。

 さて、話を戻す。俺はメリーランド大学のカレッジパーク校の心理学研究科に進学することになった。そもそもその大学がどこにあるのかよくわからなかった。調べてみると、メリーランド州のボルチモアという町にその大学はあるらしい。旅行代理店でそこに行くためにはまずアラスカのアンカレッジを経由してシカゴに至り、そこからボルチモアに飛び、さらにバスかタクシーに乗って行かねばならぬことがわかった。

 アメリカ嫌いな上に世界地理を把握していない上に全般的に愚かだった俺は、メリーランド州の隣には首都ワシントンDCがあり、実はシカゴから首都まで飛んだほうがカレッジパーク校は近いということが理解できなかったのだ。メリーランド大学というものはいくつかの分校があり、俺が行くべき分校とメリーランド大学の本体が非常に離れていることに気がつかなかったのである。

 当時、成田空港が出来たばかりで、アメリカ行きの飛行機は成田から飛んだ。父と母はさすがに見送りに来てくれたが、そのほかは誰もいない。やっぱり「友達の少ない男」だったのかも知れない。もちろん、俺が彼女だと思っていた女性は来てくれなかった。しかし、出発数日前に、大学院の先輩達が渋谷のロゴスキーというロシア料理屋(今はない)に連れていってくれたことは記しておこう。アメリカではまずロシア料理は食べられないだろうから、最後の晩餐はロシア料理と所望したのである。友達はいなかったかも知れぬが、気にかけてくれた先輩達はいたのである。

 飛行機はノースウエストだったような気がする。客席は前半分が喫煙席、後ろ半分が禁煙席だった。喫煙席は紫煙で見通しが悪く、禁煙席に至るまで俺は呼吸困難になっていた。しかも俺の席は喫煙席と禁煙席の分かれ目にあり、結局はたばこの煙を吸わされることになった。乱暴な時代であった。

 俺の席は通路側でも窓側でもなく、両端には肥満したアメリカ人男性が座っていたため、たいへんに狭かった。もちろん、座席にビデオが付いていたりするはずもなく、本を読むと酔ってしまうので、ただ呆然と過去を振り返っていた。未来には不安しかなく、何も具体的なものが見えなかったからである。トイレに行くのには通路側のアメリカ人にどいてもらわねばならず、ぎりぎりまで我慢するしかなかった。苦行を望んでいた俺だが、いきなりこのような苦行にあうとは。これからの苦行に備え、俺は大男に挟まれてこぢんまりと座り、修行僧のような気分でひたすら耐えていた。

(つづく)