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おかぽん先生青春記

 大学3年の12月にギター部を退いた俺は、その後の1年を動物心理学者としての修行に邁進し、カナリアが短調と長調の区別が出来ることを示す研究を卒論としてまとめた。研究室の、自己開示的でありながら衒学的、禁欲的・職人的でありながら快楽主義的な、なんとも言えない雰囲気にどっぷりつかり、それを心底気に入っていた俺は、大学院に進学することにした。
 当時大学院入試には第二外国語の試験があった。シュトルムの「みずうみ」が大好きだった俺は、ドイツ語を履修していた。とはいえ、俺がやった勉強と言えば、「みずうみ」の冒頭2ページをドイツ語で暗唱する程度であった。おお、エリザベトよ。正直に言えば、心の底に「どんな成績であれ、俺が大学院に落ちるはずはない」という驕りがあったのだ。驕れる者久しからず。俺は大学院入試に落ちていた。俺は驕っていたが先生方は正当に俺を評価したのだ。
 俺なりに落ち込みはしたが、ここで諦めるわけにはいかない。とはいえ、卒論提出前後に手痛い失恋を経験した俺は、同じ環境に身を置き続けるのは忍びない。両親は実家に戻って家業見習いをせよと言う。困った俺は、失恋のことはさておき指導教員に相談した。指導教員は俺の驕りには辟易していたと思うが、それでも「君には才能があるから研究を続けるべきだ」と言ってくれた。この言葉がなければ、俺はどうなっていたかわからない。
 そういうわけで俺は、小鳥の聴覚研究の本場で研究を続ける意向で、米国の大学院について調査を始めた。もう一度だけ挑戦し、だめなら他の道を考えようじゃないか。
 諸君、時は1983年である。インターネットなんてない。情報は紙媒体だ。俺は、今は無きホテルニュージャパンのそばにあった米国留学情報センターに通い、受験手続きについて調べた。TOEFLという英語の試験と、GREという読解力・論理力・数理力を調べる試験を受けることが必要であることがわかった。TOEFLを受けてみると、俺の成績は515点(今でも覚えている)であり、米国の大学院では550点以上が入学の最低ラインであるとどの資料にも書いてあった。ああ、無情。550点に満たない俺は、自分でそのことに気がつかないふりをして、いくつかの大学に出願した。
 米国では、ピーター・マーラーという先生が鳥の歌の科学的な研究の本家としてロックフェラー大学に君臨していた。また、その弟子の小西正一先生がカリフォルニア工科大学で活発な研究を進めていた。また、鳥に限らずに言えば、ミシガン大学のウィリアム・ステビンス先生がサルの発声と聴覚の研究をしていた。そして、卒論を書くに当たって熟読したロバート・ドゥーリング先生がピーター・マーラー先生のもとから独立し、メリーランド大学で研究室を主宰し始めたことがわかった。メリーランド大学は、慶応大学と縁が深く、何人かの教員が留学経験を持っていた。俺は大変な苦労をして、恐らく大変に奇妙な英文で、これらの大学に出願書類を送った。
 この頃にはすでに大学を卒業していた俺は、何者でもないままに研究室に通っていた。指導教員は、研究生になってないと後で困るよ(履歴書に穴が空く)と指導してくれたが、これ以上の学費を家族から絞り出す勇気は俺にはなかった。米国の大学院では、学生として採用する以上は、見習いとして先生の雑用を手伝い、お給金がもらえると資料にあったので、それを本気にして日本にいる間は臥薪嘗胆していたのである。
 1983年6月、いくつかの大学から返信が来た。ロックフェラー大学だめ、カリフォルニア工科大学だめ、ミシガン大学だめ。「驕れる者久しからず」についてはすでに学んでいた俺だが、さすがにまいり始めた。そして6月の終わり、メリーランド大学から俺を大学院生として採用する、ついては年俸5640ドル(今でも覚えている)を支給する、教科助手をやれば授業料も免除する、との電報が来た。捨てる神あれば拾う神あり。俺はあたかも最初からメリーランド大学が第一志望だったんだよ(本当はロックフェラー大学が第一志望だったのだが)という心構えを自分で作り、9月からメリーランド大学で大学院生になるべく準備を進めた。
 当時の5640ドルっていうのはどのくらいかと言うと、大学院生が小さいアパートを借りて死なない程度に生きていくのに十分なのであった(と指導教員から指導された)。アパート代が月に350ドル、食費が月に100ドルくらいかなと。実際行ってみてからの話は改めてするが、俺は毎日、大学生協にあったロイ・ロジャースというハンバーグ屋で1度だけハンバーグ(サラダバー付き)を食べて生きて行くことになる。一日一食である。今の体重はダイエット中で72キロだが、メリーランド大学にいた頃は50キロで、すこぶる体調が良かった。
 俺がアメリカの大学に行くことになったと父親に伝えると、父親はたいへん喜んでくれた。それに乗じてメリーランドまでの片道航空券を買ってもらった。当時の金額で54万円(今でも覚えている)であった。54万円が今だとどのくらいなのか良くわからないが、たぶん100万円以上であろう。指導教員は、アメリカに行く以上、日本に帰らないつもりで頑張れと激励してくれた。こんなに金がかかるのなら、帰りたくても帰れないだろうな、というのが俺の感想であった。
 そういうわけで、粋がってはいたが実は両親と指導教員に思い切り甘えながら、俺は一人アメリカに旅発った。持ち物はトランク1つにギター1本。おっと、このギターも父親に買ってもらったものであった。この青年に幸あれ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岡ノ谷一夫

帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。

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