大学では最初の2年半はギター部、後の1年半は(実は事情があって2年になったが)研究室で過ごした僕であったが、そうは言っても大学生だったのでたまには講義に出た。たまにしか出なかった割に今でも思い出せる講義は多い。今回は、研究室での暮らしを語るのはちょっと止めておいて、大学の講義として何を学んだのかを振り返ってみたい。
慶応義塾大学1年として日吉キャンパスに通っていた僕は、2年次に心理学専攻に進学するため、いくつか心理学関連の講義を履修していた。心理学概論の3回目くらいであろうか、僕は授業中、皮膚伝導率の実験台に選ばれた。まあ、ウソ発見器みたいなものである。先生は僕の指に電極を装着し、「これからいくつかの単語を言うから、黙って聞いていて下さい」と指示した。僕の皮膚伝導率は、円の大きさとして黒板に投射されていた。大きいほど伝導率が高い、つまり動揺が激しいということである。
僕は心理学専攻に進学したい学生だったので、よい子として振る舞おうと決め、先生の言う通りにした。「子犬、机、天気、500円」と続き、他の学生の応答からして特に面白い反応はなかったようだ。「切符、お母さん、電灯」となったところで教室がざわめいた。僕はどうも「お母さん」に過剰に反応したようだ。その後しばらく、僕は心理学概論の講義では「マザコン」として扱われたようである。しかし、あの実験は良くない。誰だって、無生物単語の中に突然「お母さん」という単語が現れたら反応するだろう。あのとき以来、実験には比較対照が必要であることを思い知った。
僕が動物心理学の他にもう一つ考えていたのは、科学史・科学哲学の研究者になることであった。この夢は、東大入学が叶わなかったため、消えてしまったはずであった。ところが慶応義塾にも1年生のために科学史の講義があった。慶応の哲学科にも科学史を専門とする教員がいたのである。何人かの教員がオムニバス形式で科学史・科学哲学の話題を提供してくれた。
ある先生は、ヒルベルトという数学者が数学の無矛盾性を証明する研究を続けていたが、ゲーデルの不完全性定理により痛手を受けた話をしてくれた。数学でさえ人間の営みであることを改めて考えた日であった。ある先生は、生物ではなく生命を考える学問として、また分子レベルの技術を使う学問としてのライフサイエンスというのが勃興しつつあるという話をしてくれた。要するに今で言う生命科学であるが、当時の僕には非常に新鮮な学問として映った。ある先生は、今西錦司の著作を紹介してくれた。ダーウィンの進化論に対抗して「種は変わるべくして変わる」という禅問答のようなことを言い出した学者であったが、まだ素朴だった僕は、東洋発の進化論があってもよいはずだと考え、今西錦司の著作をいくつか読んではみた。しかし、「変わるべくして変わる」という呪文の信者になることはできなかった。
そういうことで、いろいろな方向に揺れはしたが、自分は思弁的な力より手先の器用さを生かした実験科学のほうが向いているだろうという結論のもと、そもそも慶應義塾に入学した動機としての心理学専攻に進学することになった。
文学部の専門課程を学ぶため慶応義塾の三田キャンパスに進学した僕たちに、教員は「君たちは初等実験のために生きている」と宣告した。心理学初等実験というものを毎週やり、次の実験の前までにレポートを提出するのである。内向き矢印と外向き矢印が同じ大きさに見えるように長さを調整したとき、実際には長さはどのくらい違うのか、といった実験を毎週やり、それについて特段面白味もないレポートを毎週書くのである。動物心理学を志していた僕はこの手の実験には興味が抱けず、同級生の厚情にすがることが何度もあった(レポートを写させてもらったということである)。とはいえ、今になって考えるとこういう無味乾燥な実験をやって無味乾燥なレポートを書くことは、修行時代には必要なのだということがよくわかる。こうした実験を通して、僕たちは条件統制の大切さ、適切な統計処理を選ぶことの意味、心の変化と物理量の変化の対応関係について学んだ。そしてそれらは心理学の存在意義とも言える基本なのである。
心理学の実験とレポートは超低空飛行ですり抜けながら、それでも専門課程には興味深い講義があった。1つは美術史である。美術史の先生は、チマブーエやジョットなど、ゴシック、ルネッサンス時代の絵画の専門家のようであった。特に、板絵十字架という十字に組んだ板に描かれたキリストの絵を、延々とスライドで見せ続ける講義には感動した。僕には宗教心はない。しかし、宗教心が生み出したこれらの美術作品に、その製作者の宗教心に、僕は感動していた。時代によって、国によって、キリストの目つきが異なる。悲しみに満ちた目、悟りきった目、威厳のある目、単に目つきの悪い目、いろいろあった。僕は板絵十字架に、その製作者に、そしてそのようなものを日本の片隅で細々と研究する先生に感動した。感動したと言っても、延々と何百枚もただただ板絵十字架を見せ続ける講義は、どう考えても眠い。深い関心と興味を持ちながら、眠くなる状態というのは、実はもっとも学習効率が高いのではないだろうか。夢見心地で講義に出ていた僕は、寝ている割にはその講義で見せてもらった絵のことをずっと覚えていた。僕は美術史の研究者になることはないが、自分が信じた美に殉じるように研究を続けてゆきたいと深く考えた。その後、研究者となってから、欧米の学会に行くときには必ず教会に行く。そして板絵十字架を探す。たいていは見つかるものである。
読者よ、もし君が学生であるなら、大学時代に眠気と戦いながら参加する講義はいつか血となり肉となることを知っておきなさい。大事なのは居眠りすることではない。眠気と戦っているとき、なぜか頭はスポンジのように情報を吸い込むようなのだ。
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岡ノ谷一夫
帝京大学先端総合研究機構教授。1959年生まれ。東京大学大学院教授を経て、2022年より現職。著書に『「つながり」の進化生物学』『さえずり言語起源論』などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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