松原俊太郎→滝口悠生

『カオラマ』お読みいただき、ありがとうございます。『カオラマ』は上演がないので、いつもと同じ書き方をすると、不満足感だけが残るということに初稿発表後に気づき、大幅な改稿となりました。

以前、滝口さんと、上演台本は買っても読まないよな、とお話したことを思い出しました。先日開かれた演劇計画IIのラボでも戯曲の読み方が話に上がりました。大森望さんは小説と同じように戯曲も読んできたとおっしゃっていましたが、書かれている数、書籍として刊行されている数から見ても戯曲は広く読まれているとは言えません。滝口さんのおっしゃるように地点の上演は戯曲を解体-再構築して作られるし、古典と言われるものが多いので原作戯曲にあたられることは多いでしょうね。僕は、劇作を始める前から、シェイクスピア、チェーホフ、イェリネク、ブレヒトなど、作家から入って特に上演のことは気にせず、読んできました。このような作家の戯曲と、いまの日本で劇作と演出を兼ねた、いわゆる「作演」の人による上演台本とは、かなり違う印象を受けます。滝口さんが上演を観られたあとに買われる台本は多くがこの形によるものかと思います。書かれたそれを上演台本と呼ぶか戯曲と呼ぶかは定義されていなくて、それぞれに使い分けられているようですが、「作演」だと、書かれたテクストのイメージと上演のイメージがかなり近しくなるので、上演と比較してしまうとテクストは分が悪いかと……僕自身も「作演」の上演を見たあとに台本を読むことは稀です。多くの舞台で現代口語が自明のものとして扱われていますが、現代口語はまだ読んでおもしろいと思えるほどのものにはなっていないのだと思います。

僕は、ここで「演出をしない劇作家」と紹介されてますが、歴史的に見れば演出をしている劇作家のほうが特殊な事例だと思います。第三回で地点と自作に関連して書いたように思いますが、劇作家と演出家が別であれば、戯曲に寄り添った演出がなされたとしても、ちがいは比較的大きくなるので、戯曲を読んだときと上演を観たときのちがいも出てくるのではないかと思います。戯曲全体の、人物の、台詞の立ち上がり方など、読んでも楽しめるのでは……と思っています。また、地点の最初の稽古で行われる読み合わせはおもしろいです。一人一役で読んでも、一行単位で振っていっても、聞こえ方が変わるので、やはり声に出して読むと楽しめるのかもしれません。

また、ゴダールの映画の台詞・引用の組み合わせが気になるように、その場を越えて溢れ出てくるような台詞、ドラマに収束しない台詞などがあると読んでみたくなるのではないでしょうか。文芸誌の『新潮』には戯曲が掲載されることもありますよね。戯曲もまた小説と同じく時代を越えて残るもの、と、よく慰めのように言われますが、無条件に残っていくものではなく、上演だけでなく読まれていくことも必要なことだと思います。劇評はあっても戯曲評といったものはあまりなく、読みの経験が蓄積されているようには思えません。上演もまた戯曲に対する一つの読みの提示であって、その提示と観客個々人の読みを突き合わせることができるのも戯曲の魅力かと思います。演劇計画IIでは、わざわざ上演を前提としないと設定したので、戯曲と観客(読者)との関係のあり方も探っていきたいと思ってます(あと半年ほどしかありませんが)……

劇作から離れたときの読者としての僕は、小説と戯曲は遠からず近からずといったところで、読み方はそんなに変わらないですかね。上演台本は上演する舞台というテクストの外部を強く意識したうえでの読みになりますが、戯曲はテクスト単体でも読めるんじゃないかと思います。戯曲も小説もどちらも文字の集まりであることに変わりはなく、戯曲といっても読むときには、ト書きがあって、登場人物名が記されて、その下にその人物の発した言葉が記される書式のものぐらいに思ってます。それこそ登場人物の区別を無視して、モノローグ的にも読むことはできますし、僕はあまりしませんが登場人物マップを作って、関係性を頭に入れながら読むこともできるんじゃないかと。戯曲のト書きは簡素で、動きが()で挿入されて読みにくく、場所は殺風景と言いたくなるようなものが多く、人物の背景も小説ほどには書き込まれないので、読者が補う余白部分は多くなると思いますが、その余白が、読むうえで舞台や外の現実といった外部を要請しているかといえば、それは微妙なところだと思います。上演(外部)があってもなくても、書かれた人物たちはその場にいて、人物間やその場の因果律・環境のなかで、文字通りに発語しているという事実はあって、それを読んでいく楽しみみたいなものはあるんじゃないかと思います。これは小説でもそうで、外の現実との対応関係なしで読めるようになっていますよね。

『カオラマ』もまたテクストの外部を想定せずに書いたものです。滝口さんのおっしゃる、モノローグのように見える二人の会話というのは、『カオラマ』の第二稿のことですかね。僕自身は「退屈」で「鈍重」なことに価値を見出してはいないので修正していかねばなりません。しいて言えば、第二稿は、殺風景な部屋にある丸太に閉じ込められた女の会話で、見かけの差異も「檜」と「杉」しか与えられず、二人が丸太になっているという同じ状況に関して話すことが多いのでモノローグ的になっている、のかもしれません。書いている僕自身、あの状況でどうすればいいのかよくわからずに書いているということもあって「鈍重」な会話になっているんですかね。第二稿の公開、ラボを経て、その糸口が見えてきたので、最終稿ではまた変化が見られる、はずです!(作家がこんなことを言ってていいのかという気もしますが……)

「新潮」2018年11月号掲載の滝口さんの日記を読みました。日記は私秘的なもので、本来、誰かに向けて書かれるものではないですが、カフカやクレーの日記とは違って、滝口さんの場合、生きているあいだに公開されることを知りながら書いていると思うので、そのへんは微妙に違うのかもしれません。同号掲載の柴崎友香さんとの対談では、自分のことを書くのは難しい、とおっしゃってましたが、どうでしたか? 日記という形式が与えられることで小説とはまた違う「わたし」の書き方がとられたのではないでしょうか。滝口さんの日記には、何を言っているのかよく「わからない」他者といっしょに過ごす時間があって、よく「わからない」話を聞いたり、「呆然とする」顔を見たり、言葉に拠らない交歓があったり、通常の会話によるコミュニケーションとは違う、「わからない」ことを「わからない」ままに引き受けたうえでの他者との関わりが書かれているように思いました。滝口さんの言う「受動性、受け身」はそれとはまた違うのだとは思いますが、ちょうど同号掲載の丹生谷貴志の保坂和志『ハレルヤ』の書評と、そこに引かれたカフカの断片が興味深かったので引きます。《外出する必要はない。部屋で、机の前、耳を澄ます。耳を澄ます必要もない、ただ待つ。いや、待つ必要すらない、凝っとした沈黙の中、そうしていればいい。すると世界の方からお前に寄って来て仮面を外すだろう、世界は他に選びの余地なく、うっとりと、お前の前で翻転し身を躍らせる。》

「小説というのは結局のところ全部モノローグだと思う」、これは意外でした。そう言われれば、そうか、と納得する部分もありますが、全部とは思っておらず……しかしながら、また長くなりそうなので持ち越しにします。

日記のつづき、楽しみにしてます!

10月15日 松原俊太郎

『演劇計画Ⅱ -戯曲創作-』

委嘱劇作家:松原俊太郎、山本健介(The end of company ジエン社)
演劇計画Ⅱアーカイブウェブサイト http://engekikeikaku2.kac.or.jp/
京都芸術センター http://www.kac.or.jp/