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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

相席を誘ってきた年配のカンボジア人、実はすごい人だった

 プノンペンにいるときは、店から歩いて10分ほどにあるゲストハウスに滞在していた。ゲストハウスの数軒隣には早朝から開いているオープンエアのカフェがあり、ある朝、そこでコーヒーを飲もうとふらりと店内に入ってみた。
 入口近くのソファでは、初老の欧米人とカンボジア人たちがコーヒーを飲みながら英語でおしゃべりしていた。クーラーのきいたカフェは市内のあちこちにあり、どこも若者でにぎわっているが、ギラギラと太陽が照り付ける暑さでない限り、私は一人でコーヒーを飲みたい時には、外の空気を感じられるオープンエアのカフェへ行くことが多い。
 居心地がよかったので、翌日も同じカフェでコーヒーを飲もうと入ったら、前日に欧米人とおしゃべりしていたカンボジア人が、別の欧米人とまたおしゃべりしていた。その男性と目が合い、「ああ、昨日の!」という感じで会釈したら、こっちのテーブルへどうぞと手招きされた。
 断る理由もないので、私は見知らぬ人たちと相席することにした。その後、このカフェで何度か会うなかで知ることになるのだが、バンデスと名乗るそのカンボジア人男性は、私が出会う2年前までカンボジア救国党という最大野党に所属する国会議員を務めていた。カンボジア救国党は、2017年に党首が国家反逆罪容疑で逮捕された数か月後、最高裁判所で解党が決定され、指導者118人の今後5年間の政治活動の禁止が命じられた。私が初めてカンボジアを訪問した2018年7月には、救国党解党後初の国民議会選挙で、与党の人民党が国民議会の全議席を獲得し、圧勝している。
 ともあれ、その日は、バンデスは元々国家公務員だったこと、このカフェの常連欧米人にはアメリカ退役軍人が多いこと、でも彼のように70歳を超えたカンボジア人は英語よりフランス語を話す人が多いことなどを話してくれた。そして、私は何をしにカンボジアへやって来たのかを聞かれたので、「日本で研究者をしていたが、50歳になったのを機に退職し、この先は経済的に恵まれないカンボジアの若者のために何か職業支援をしたいと思っている」と答えたら、満面の笑みで「サンキュー」と何度も言ってくれた。
 バンデスを囲むおしゃべりの輪のメンバーはさまざまだ。フランスからやってきた長期滞在の若者がいたと思えば、インターナショナルスクールで先生をしているカナダ人や、アメリカ退役軍人の顔ぶれもころころ変わる。ここで知り合った退役軍人たちはまだ60代だが、恩給をもらいながら、プノンペンで月10万円ほどのプール付きのワンルームマンションを借り、悠々自適の生活をしている。そのうちの一人、ポールはDMZ(DeMilitarized Zone=非武装地帯)やバグダッドに駐留した経験を持ち、タイのウドーンターニーにあった米軍基地にも一時期いたことがあり、退役後は、多くの仲間が住むフロリダではなく、アジアに住もうと考えていたそうだ。
 ポールは子どもや孫に会いに、退役軍人の日である11月にはアメリカに帰国するが、寒いアメリカにはいられないとすぐにカンボジアへ戻ってくる。カンボジアではアメリカドルが通貨として使えること(カンボジアにはリエルという現地通貨があるにはあるが、銀行預金は主にドル建てだし、スタッフの給与の支払いもドル札を使う。ただし1ドル以下のコインはないので、スーパーやレストランなどでのおつりはリエル札で返ってくる)、アメリカに比べれば物価が格段に安く、英語が話せる人が多いことから、アメリカ人にはとても住みやすいそうだ。
 私が知り合いの日本人に夕方まで貸してもらっていたレストランは、ポールのようにお金に余裕のある退職後の欧米人や、日本人を含め外国人駐在員が住んでいるエリアにあった。お手頃なアメリカのチェーンのピザ店やハンバーガー店から、一人数千円はくだらない高級ステーキハウス、フレンチレストランまで、このエリアでは、お金を出せば食事にも困らない。お客として利用するなら、日本より手頃な料金で日本にいるのと変わらないレベルの料理が食べられるのでありがたいのだが、前にも触れたように、それは安い賃金で働く現地の人たちの労働力あってのことだ。だから、そんな風に使い捨てされる労働力ではなく、カンボジアの若者たちが技能を身に付け、自立してほしいというのが私の願いだった。

カフェでくつろぐバンデス(中央)たちとアメリカ退役軍人。写真はすべて著者提供

 カフェのカンボジア人常連客の中に、コーヒー豆の製造販売まで手がけるタイ系大手カフェチェーンの、カンボジアでの経営権を持っている男性がいた。彼はバンデスの元同僚で、国家公務員を定年退職してから、このブランドとライセンス契約し、カフェビジネスを始めたそうだ。いつも開襟シャツにチノパンというラフないで立ちだが、何百万円もする高級車に乗り、英語は完璧に話す。自身も一等地のコンドミニアムに住むが、カフェにやってくる退役軍人たちに頼まれ、賃貸マンションの仲介もしていた。娘家族はオーストラリアに住んでおり、彼自身はタイやシンガポールへは当然のことながら、欧米や日本にはもう何度も家族で旅行したという。当然、私たちがおしゃべりしているカフェも、彼のお客さんだし、カフェのオーナーは、バンデスの幼馴染だということも分かった。カンボジアでは、ビジネスをする上でいわゆるコネがとても大事だということも教わった。確かにビジネスで成功している人は政府高官の親戚や関係者が少なくない。カンボジアで公務員の汚職がなくならないのは、そのせいなのかもしれない。
 だんだん親しくなってくると、バンデスは彼の身に起きた悲劇の話をしてくれるようになった。ポル・ポト政権時代に両親と妹を殺され、生き残った弟はバンデスが親代わりに育てたという40数年前の話だけでなく、国家公務員を定年退職後は救国党の国会議員になり、現フン・セン首相率いるカンボジア人民党の長期独裁体制に反対する立場をとってきたこと、次の選挙で国会議員の過半数を占めそうな勢いだった救国党は、恐れをなしたフン・センによって解党させられ、この数年間で救国党の仲間が何人も暗殺されたこと、自身も目立った行動や発言をすれば殺される可能性があることなど、それまでカンボジアにさほど関心があったわけではなかった私にも、衝撃的な話だった。

バンデスから広がったカンボジアの知識とコネクション

 そのうち、私がゲストハウスに滞在していることを知った知り合いの日本人が、彼が近くでやっていた洋服店の二階を寮として貸してくれることになり、私は行きつけのカフェの前を通る機会がなくなった。
 しかし、店でスレイモンとパンを作っていると、バンデスから「いまからカフェにおいでよ」という電話がかかってくるようになった。
 パンの発酵を待っている間などにトゥクトゥクに乗って、カフェまで顔を出すと、同じようにバンデスに電話で呼び出されたのであろう新顔のカンボジア人がいることもあった。英語を話せない人もいたが、貧しい人たちを無償で診察している医師や、村で農業指導をしている人など、志を持って地域のために活動している人が大勢いた。
 そのなかの一人がコサル氏だ。建設資材などを輸入販売する会社を経営する彼は流ちょうな英語を話し、貧しい人たちをたくさん雇えるよう、会社を大きくしたいと夢を語ってくれた。妻は、ポル・ポト時代に絶滅してしまったシルク産業の復興に取り組みつつ、小さなホテルを経営しているとのことだった。コサルは、バンデス同様、私に「カンボジア人のためにありがとう」と言ってくれた。
 数日後、コサルの妻・バナリーに会った。彼女が経営するプチホテルは20部屋あり、知人が貸してくれていたレストランから歩いて5分の場所にあった。フランス統治時代の建物をリノベーションしたホテルで、大手旅行サイトではプノンペンの人気ホテルの上位にランクインされている。ソーシャルビジネスとしてシルク復興に携わっているバナリーは、私がやろうとしているささやかな活動に共感してくれ、スタッフのスレイモンが作ったコッペパンサンドイッチをホテルに滞在するお客さんに販売しようと言ってくれた。
 無償で厨房を貸してくれる日本人の知人がいたというだけで、若者の支援をしようという漠然とした考えで訪れたプノンペンだったが、コーヒーを飲みにふらっと入ったカフェで知り合ったカンボジア人たちとの交流がはじまり、私はカンボジアについて知る機会を得るようになった。
 私はカンボジアでお金を稼ぐつもりは毛頭なく、日本での自分の収入をカンボジアの活動に使うつもりだったので、日本で働かなければ、カンボジアのために何かしたいという私の計画がたちゆかなくなる。正直に言えば、私はそれまでカンボジアについてまったく関心がなかったし、未来を支える若者を支援できる場所は、カンボジアである必然性もなかったのだ。
 でも、私が日本にいる間、代わりにプノンペンに行ってくれる人も現れた。私が講師をしている立教セカンドステージ大学の卒業生の池内さんだ。配偶者を亡くした人の「没イチ会」の幹事もしてくれている池内さんは、大手通信会社在職中に派遣されたタイで、日本語教師をしていた女性と出会い、結婚した。2010年にその妻と死別し、一人息子は就職して転勤先のアメリカで妻子と暮らしている。池内さんは内戦終了直後のカンボジアへは仕事で何度か行ったこともあり、「一人で日本にいようが、カンボジアにいようが、同じだから」と、ボランティアでカンボジアへ通ってくれている。亡き妻はカンボジアのシルクの復興にも関心を寄せていたそうで、池内さんは「これも何かのご縁」と、前年秋からは、東京外国語大学のカンボジア語(クメール語)講座で勉強も始めている。
 私はカンボジアの若者を支援したいと思っていたのに、細々とした私の活動は、ありがたいことにこうした善意の人たちに支えられ、私が逆に刺激をもらっているのだ。

法事から誕生会まで、家族ぐるみのおつきあい

 ある日、バンデスはプノンペンから車で片道2時間ほどかかる故郷まで、親族の法事に連れて行ってくれた。法事では、参列者たちがバンデスの妻に現金を渡していた。10ドル程度の人もいたが、300ドルを渡している人もおり、「ご仏前」の額が私の想定以上に多くて驚いた。私の目の前で、みんながむき出しで現金を喪主に渡しているので、見なかったことにするわけにもいかず、私の財布の中には50ドル札が1枚、あとは10ドル札や1ドル札しかなかったが、なけなしの50ドルを差し出した。

白いシャツを着用し、私も親族と一緒に法事に参列。

 家族での食事に誘ってくれるようにもなった。プノンペンに日本人の知り合いがいるわけでもないし、一人で特にすることもないので、ありがたく参加するようになった。
 別に暮らすバンデスの娘たちは各々オンラインで洋服や化粧品を販売し、月に30~40万円稼いでいたり、息子たちはガソリンスタンドや建設会社を経営したりして、かなり裕福な生活をしているように見えた。
 孫はインターナショナルスクールに通っており、8歳にして英語がペラペラだ。孫の学校は月に5万円も学費がかかるというが、授業料が無料の公立学校ではまともな教育が受けられないので、インターナショナルスクールへ通わせる親は多いという。コサルとバナリーの子ども3人もインターナショナルスクールへ通っており、教育費だけで月に20万円はかかるらしい。理科や算数の授業もすべて英語でおこなわれる。そういえば、プノンペンの街中には、インターナショナルスクールという看板を掲げた学校がやたらにある。

バンデスの自宅で。

 バンデスの娘の誕生会に誘われたこともあった。高級中華料理店での会食には親族郎党が30人ほど集まるという。電話口で、バンデスは「娘の誕生会にお金を出さなきゃならないのにお金がない」とつぶやいた。やってきた女性たちはみんな着飾っていて、プレゼントが入った大きな紙袋を持っていた。会食がはじまると、ふかひれの姿煮、豚の丸焼き、アワビの煮込みなど、私が日本でもめったに食べないようなご馳走が次々に運ばれ、ここがカンボジアであることを忘れそうになるほどだった。
 私が誕生会に誘われたのはその日の朝だったうえに、数回自宅で会っただけの、しかも私より収入が多い娘にどんな誕生日プレゼントを用意すればいいのかわからなかったので、帰り際に、私はバンデスに300ドルを手渡した。

バンデスの娘の誕生会。私は一家の長のゲストなので、常に上座をあてがわれる。

 スレイモンなど、イタリアレストランで働いていたスタッフたちは、こんなレストランに入ったこともなければ、ふかひれなど食べたこともないだろう。彼女たちの月給では、将来、自分の子どもに良い教育を受けさせられる可能性も極めて低い。私は、カンボジア人同士の恐ろしいまでの貧富の差を垣間見た。
 実はこの誕生会が終わった頃から、バンデスが、私のなんちゃってベーカリーの自称コンサルタントとして関わってくるようになるのだった。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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