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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

店名の変更からスタッフの新規採用まで

 前回、カフェでたまたま出会って知り合いになったカンボジア人男性のバンデスは、野党救国党の元国会議員だったことを書いた。初対面から数か月経った頃、「しばらくあんたの様子を見ていたけど、頑張っているから、手伝ってあげる」と、時々店にやってくるようになった。自称コンサルタントだ。
 まず、「店の名前を日本風にした方がいい」と有無を言わさず、変更するよう提案してきた。私が最初に考えた店名は、「U&me」だった。あなたと私で夢に向かって一緒に前に進もうと、「ユメ」と「一緒に」をかけた。ところが、バンデスは「これじゃあ欧米のパン屋の印象を与える」と言う。
「そう言われるとそうなのかな」と、それほど店名にこだわりがあったわけではない私は、バンデスのアドバイスを聞き入れることにした。「では、ジャパンベーカリーは?」と聞くと、バンデスは「too big!」。フジやサクラ、トーキョーはすでにプノンペンのレストランやナイトクラブの名前にあることが分かったので、私の出身地でもあるオオサカにすることにした。「オオサカなら、みんな日本だって分かる!」と、バンデスも賛成してくれた。
 バンデスの迫力に負けて、店名を変えざるを得ない雰囲気に追い込まれたものの、内心は、「オオサカベーカリー」だなんてとてもダサい名前だと思った。しかし考えてみれば、「コペンハーゲンベーカリー」という名前のパン屋さんは美味しそうに聞こえるということは、もしかすると、日本に対して良いイメージを持っているカンボジア人にとっては、「オオサカベーカリー」はおしゃれに聞こえるのかもしれないと思うことにした。

開店に向けて決めていた店名とロゴ
新店名のロゴ

 しかしスレイモンに「オオサカって聞いたことがある?」と聞くと、「それは何ですか?」と逆に質問された。数年前までの私が、カンボジアの地名では首都のプノンペンしか知らなかったのと同じレベルだ。つまり、オオサカが日本の地名であることを知っているカンボジア人は日本に興味があるか、それなりの知的階層に限られるのだろう。いずれにしても、かくして、いとも簡単に店の名前が変更された。
 バンデスは私が日本にいる間も、週に一度はふらっとスレイモンの様子を見に行ってくれた。そして「あの子は使い物にならないからクビにして、新しいスタッフを募集すべきだ」と言い始めた。さらにインターネットでスタッフを募集するサイトに登録し、バンデスが、応募者から送られてくる履歴書を選別し、スタッフを決めてくれるという。
 私は儲けを出す商売でパン屋をしようと思っているわけではないので、将来の自立のためにパンの作り方を習いたい人がいれば、誰でも大歓迎だった。スレイモンは手先が不器用だが、性格が悪いわけではない。自分で何かを考えたり、頑張ろうと思ったりすることはできないが、それは家庭環境のせいだろう。
 お酒を飲んでは暴れる父親に、スレイモンを学校へ通わせなかったうえに彼女の稼ぎで生活する祖母と母親。小さな部屋で6人が生活する自宅では、プライバシーも何もない。貧しい中でも支えあって暮らしていると言えば聞こえはいいが、スレイモンの自宅に行くと、いつも祖母や母親は近所に出てのんびりおしゃべりをしている。カンボジアでは、暑い日中は家の中はサウナのようになるので、クーラーがない多くの家庭では、外の木陰のハンモックで寝ている人も多い。
 そうはいっても、祖母も母親も元気そうだ。母親は、酒乱の夫に苦しめられてきたとはいえ、働かない理由にはならない。夫は愛人と暮らすために出て行ったのだから、なおさら自分が働こうと思ってもいいはずだ。スレイモンも、この状況がおかしいとは感じていないどころか、当たり前だと思っているふしがある。
 こんな環境にいれば、スレイモンは人生の中で成功体験もないだろうし、そもそも何かをしたいとか、やり遂げようと思ったことさえないだろう。彼女は不器用なうえ、やる気もないので技術が上達しないのだが、だからと言って使い物にならないと切り捨てることはしたくなかった。

ぶきっちょでもスレイモンを切り捨てるなんてできない

 私は大学院を修了した後、生命保険会社の研究所にプロパー研究員として入社した。26年近く在籍したその研究所には、毎年、親会社の生命保険会社から管理者として出向者が転勤してくる。そのなかには、病気になって保険営業の現場で働けなくなった人たちが何人もいた。志半ばで病気になり、どんなに無念だろうと思う。
 利潤を追求する企業では即戦力が重宝されるので仕方がないが、会社員時代は、仕事ができない人の陰口を何度も聞いたし、そんな人をどうやって配置転換したり、ほかの会社に出したりできるかを議論しているところに遭遇したこともある。私は研究職だったので、部下を管理する立場にはなかったが、仕事ができない部下がいれば、イライラする上司の気持ちは分からなくもない。
 何でもソツなくこなす器用な人、上司の懐に入り込むのが上手な人もいるが、一方で、何をしても仕事が遅いとか、失敗してしまう人もいる。私は会社では、どちらか言えば、そんなどんくさい方の人たちと気が合い、仕事帰りによくお酒を飲みに行った。会社では仕事ができないとされているかもしれないが、心が優しい人、自分の人生を楽しんでいる人など、私はその人たちから多くのことを学んだ。
 そんな経験があったので、パンを上手に成形できないことが、私にとってはスレイモンを切り捨てる理由にはならなかった。むしろ、利潤を追求することを目的としていない分、スレイモンには時間がかかっても、前向きになってもらえるような環境を作ってあげたいと思った。
 とはいえ、切磋琢磨する仲間がいた方がいいに決まっている。私は、バンデスのありがたい申し出を受け入れ、スタッフを募集することにした。バンデスは、インターネットのスタッフ募集サイトに登録し、応募者の面接もしてくれるという。本来、経営者なら、採用を他人に丸投げするなんてありえないことだろうが、私は、少しでも多くの人たちが、カンボジアの若者支援に関わってもらえるなら素晴らしいと思っていたので、任せることにした。
 NGOや立派な支援団体からすれば、話にならないと馬鹿にされるかもしれないが、私はカンボジアの若者の支援をしたいという思いを漠然と持っただけでやってきたものの、支援を求めている人がどこにいるのか、探す術も持っていなかった。そもそも英語が話せるなら、プノンペンでは給料の良い仕事はいくらでもあるだろう。私が「将来をどうにかしたい」と一方的に思っていたのは、ちゃんと教育を受け、英語が話せるような若者ではないので、クメール語を話せない私には、コミュニケーションに限界がある。バンデスの申し出はとてもありがたかった。
 私は、「商売でパン屋をするつもりなのではなく、手に職をつけたいと思う若者に製パンの基礎を学んでもらいたいのだ」と、何度もバンデスに伝えた。スタッフの募集にあたって、給料はバンデスが決定した。後から思えば、何の技能もない若者を募集するにはちょっと高い金額だったが、その効果だったのか、びっくりするほどたくさんの応募があったらしい。私が日本に戻っている間に募集をし、送られてきた履歴書はバンデスが目を通し、最終的に面談して6人を選んだ。
 こちらとしては、どんな子が欲しいというイメージはなく、パンを作ってみたいと思うなら誰でも良かったので、バンデスがどういう基準で選んだのかは不明だが、私は任せた以上、何も口出ししなかった。お金を出すのは私だから、口出ししないというのも変な話なのだが、自信たっぷりに採用の経緯を話すバンデスに私が意見するという雰囲気でもなかったし、「来月から6人の給料を出すのなら、日本で頑張って仕事をしなきゃなあ」と思う程度で、元来が楽観主義者の私が軽く考えていたこともあった。

6人の新規追加スタッフ決定

 講師をしている大学の前期の講義が終わって、私がカンボジアに戻った2019年8月。バンデスが選んでくれた新しいスタッフたちが集まった。ほとんどが大学生だった。大学生なら日中働けないのでどうしたものかと思っていたら、全員が「問題ない、朝から夕方まで働ける」と言う。聞けば大学の授業は夕方から3時間ほどしか開講されないらしい。
 カンボジアのほとんどの大学はプノンペンにあるため、地方出身者で進学したい人は、高校卒業後にプノンペンに出てくるしかない。また高校卒業試験に合格すれば、一般的な大学には個別の入学試験がない。かつては教師に賄賂を渡して卒業試験内容を事前に教えてもらったり、カンニングを黙認してもらったりすることが横行していたが、ここ数年は厳しくなったそうで、合格率は6割から7割程度だ。ちなみに、今年2021年の高校卒業生12万人はコロナ禍で、全員が無試験で合格扱いになった。
 カンボジアでは、ポル・ポト政権時代に知識人が殺害されたため、教師の数が少ないこともあって、小学校など生徒が多い学校では、午前と夕方の二部制を採用している。大学も二部制のところが多く、お金がある家庭の子女のなかには、二つの大学や二つの学部に通っている学生もいるが、経済的余裕のない家庭では、生活費や学費を自分で捻出しなければならないため、日中は働き、夜間に大学に通うのだという。
 午後には勤務が終わるパン屋さんは、お金を稼がなければならない学生にはちょうど良い働き口だったのだ。年間授業料は、応募してきた彼らが通う大学では、日本円で10万円から20万円ほど。家賃や生活費を入れると、月収が150ドルではカツカツだろう。バンデスが設定した試用期間中の給料はそれをはるかに上回っていたので、大学生たちは飛びつくはずだ。
 バンデスが採用した女学生チャンティは、プノンペンから車で3時間はかかるベトナム国境の村の出身だ。両親は、米農家の手伝いをして生計を立てているが、チャンティの下に弟が二人おり、チャンティの学費や生活費を出す余裕はない。家賃や生活費を稼ぐので精一杯で、学費が期限までに支払えず、半年間休学していた。
 別の大学に通うボニーはプノンペンから1時間ほどの郊外の村の出身で、母親はボニーが小学生の頃に病死し、マンゴー農家の父親と祖父母に育てられた。
 故郷を離れ、都会で学費を稼ぎながら大学に通う彼女たちの姿をみながら、親から虐待を受けて育ったスレイモンも一念発起してくれればいいなと思っていた。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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