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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

製パン指導の前に予想外の算数指導

 バンデスの辣腕(?)によって、6人のスタッフが増えた。しかし問題は、これだけの未経験者にどのようにパン作りを教えるか、だった。バンデスは、このうち英語が少し話せる男性をマーケィング担当にしようと言い出した。それはいいのだが、そもそも販売する物がそろってなければ営業しようがないことぐらい、経営に関して全く知識も経験もない私だって分かる。
 まずは全員がコッペパンを焼け、カツサンドや照り焼きチキンサンドの二種類を作れるようにするところからはじめた。多くのスタッフは、飲食店で働いた経験もなかったので、肉の塊を触るのも初めてだった。カンボジア人はあまり食べないのか、フライや揚げ物の作り方も意外と知らない。
 何はともあれ、かくして私は、一気にたくさんの若者に製パンを教えることになった。みんなが一人でパンを焼けるようになってもらうため、一つずつ材料を計るところからはじめようとした。ところがすぐに問題が生じた。例えば小麦粉500グラムに対するレシピを参考にした場合、小麦粉を350グラムにしたら、砂糖や塩、水をどのくらいの割合に変えればいいのか、多くのスタッフは計算できなかったのだ。電卓を買って渡しても、割合の概念が分からないのか、どうやって計算するのか混乱するようだった。
 そういえば、日中は日系のオンライン広告会社、夜はカフェバーのキッチンスタッフと、仕事を掛け持ちするオウンから、「姪に、学校で教わった算数を教えてって言われたけど、母ちゃん(私のこと)は分かるか?」と聞かれたことがあった。100個のりんごを仕入れたら3個傷んでいました。この割合でいけば、320個仕入れたらいくつ傷んでいるでしょうか、といったような問題だ。オウンは、どうやって考えればいいのか、この問題が分からないのだという。
 たぶん、20歳以上の人は、公立学校では割合について習っていないのだろう。知り合いの日本人によれば、掛け算の九九が分からないカンボジア人はとても多いのだそうだ。前述したようにポル・ポト政権で学校の先生の多くが殺害されたため、カンボジアでは教員の数が圧倒的に足りず、小学校を卒業しただけの人が教員として授業を教えていたことが長らく続いたという。確かに、九九を知らないのに、掛け算や割り算の概念を人に教えるのは大変だろう。習っていないなら、分からないのも無理がない。
 以前にオウンからの話を聞いていなければ、スタッフの多くが材料を計算できないと知ったら、私は想定外のことにもっとびっくりしただろう。ともあれ、パンのレシピの配合の計算の話に戻ると、計算の方法を教えることは簡単だが、自分たちで計算できるようにならないといけないので、「みんなで相談して、どうしたら計算できるか考えてちょうだい」と伝えて、様子をみることにした。
 すると、一人のスタッフが、「小麦粉を10グラムにした場合の、他の材料を計算すればいいのではないか」と言い出し、それをまたすべて35倍にするという方法で、電卓を使ってはじき出した。しかしパンは種類によって材料の配合が異なるので、どんなときにも計算できるよう、この計算方法をみんなで共有しなければならない。しかもほとんどの人は英語を理解しない。英語が分からなくても理解できるよう、私はまず、電卓を使いながらの算術の授業からはじめたのだった。
 一つのボウルをスケールに載せて材料を次々に入れたまま計量すると、暗算ができないと間違いが起きやすい。ボウルをたくさん買い、塩、砂糖、水など一つずつきちんと計量することも教えなければならなかった。計量する人、材料を片付ける人など、役割分担をした方が効率は良いのだが、とにかくみんなが一人でパンを焼けるようになることにこだわった。

バンデスが採用したスタッフたちと。前列左から二人目がチャンティ、筆者、バンデス、スレイモン、ボニー。写真はすべて著者提供

借りていた部屋がもぬけの殻

 ちょうどそんな頃、また別の事件が起きた。
 私は日本で仕事をしながら、一週間から10日ほど時間があくとカンボジアにやってくるという生活を送っていた。カンボジアにきたある日の夜、バンデスが自宅に招いてくれたことがあった。空港からそのまま店に寄って、あんこの材料など、日本から運んできた荷物を置き、バンデスの自宅へうかがった。私は、カンボジアへやってきた当初はゲストハウスに泊まっていたが、無償で厨房を貸してくれていた日本人がそのことを知り、別に経営していた洋服店の二階を寮として貸してくれていた。カンボジアで使うTシャツやシャンプーなどのちょっとしたモノを置いておけるようになり、とても便利になった。
 その日、夜9時半頃、バンデスの自宅から出て洋服店に戻った。店はすでに閉まっているので、借りている鍵で出入り口になるシャッターをあけたら、店の中が、がらんどうになっているのが分かった。数週間前に来た時には、服がたくさん陳列してあったのに。びっくりしてドアを開けて電気をつけようとしたら、電気がつかない。
 たまたま、バンデスの自宅から乗ってきたトゥクトゥクの運転手は、バンデスの友人で、私も何度か会ったことがある顔見知りだった。彼に店の前で待ってもらい、暗がりの中、携帯電話の明かりを頼りに二階にあがってみると、部屋の中にはベッドはおろか、私が置いていたモノもすべてなくなっていた。
 私は、部屋を貸してくれていた友人から何も聞かされていなかった。でも、店に強盗が入ったのかとか、置いてあった私物がどうなったかということよりも、「こんな時間。今夜どこに泊まるのか」の方が不安になった。寒くはないとはいえ、シャッターを閉め、水も電気もない真っ暗な店の床で寝るのは怖い。もぬけの殻になっている状況が分からないながら、また強盗やら何やらがやってくるかもしれないとも考えた。しかも、誰かが私が店に入るのを見ていて外から何かして、シャッターがあけられない状態にされたら、私は店の中に閉じ込められてしまう。
 店の前には駐車スペースがあるが、さすがにバックパックの若者ではないので、そこで寝るのもはばかられる。私の携帯電話は、Wi-Fiがつながらない場所ではLINE電話もできず、店の持ち主である日本に住む友人に連絡し、報告することもできないのだが、洋服屋のWi-Fiは解約されていて、つながらない。とにかく、ここにいることはできない。
 トゥクトゥクの運転手のボナに、「どうしよう」と相談したら、「前に行ったことがあるホテルが近いから、そこへ連れて行ってあげる」と言ってくれた。聞けば、行きつけのカフェで知り合いになった男性の妻が経営する小さなホテルだった。ホテルに着いたら、「満室だったけど、急にキャンセルになった部屋が一部屋だけある」と、奇跡的に寝場所を確保することができた。

教訓=スタッフとの信頼関係を構築すべし

 翌朝、店を貸してくれていた友人から「小谷さんに言ってなくてすみません。店を任せていた人にお金を持ち逃げされ、閉店しました」と、LINEに返信があった。「早く言ってよ!」と文句を言いたかったが、厨房だけでなく、無償で泊まる場所まで貸してもらっていたのだから、それだけでありがたいと思うべきだろう、と思い直した。シャンプーやらドライヤー、洋服などがなくなったのは、現地調達できるのでまだいいのだが、誰かへの手土産にしようと前回に持って行ったものの、差し上げる機会がなかった高級な日本酒や梅酒もすべて消えていた。
 さらに友人の話では、持ち逃げしたという日本人に対し、洋服店が閉店できるよう整理・片付けをし、電気などもすっかり解約するところまでやれば、今回の件には目をつぶるということにしたらしい。いやいや、私はまだ目をつぶれていない。私のモノはどこに行ったんだ?
 洋服店を任されていたその日本人青年の連絡先を教えてもらい、連絡をすると、「いつも泊まっている日本人がとったのではないか?」と返信があった。いつも泊まっている日本人とは、私が日本にいる間、交代でカンボジアへ様子を見に行ってくれていた、立教セカンドステージ大学の学生、池内さんのことだ。「没イチ会」の幹事でもある。妻と死別した池内さんがみるからに女性モノのドライヤーなど、しかも電圧が違うので日本では使えないような電化製品をとるわけがないし、ワイン党の池内さんが、部屋にある日本酒を勝手に飲むはずがない。それになにより、前回私が滞在した後は、池内さんはカンボジアには来ていなかった。
 結局、私の荷物がどこへ行ったのか、いまだ行方不明のままだ。下着を置いていなかったことだけが、不幸中の幸いだ。店を片付ける時に、業者がすべて持って行ったのか、売り払ったのだろう。納得したわけではないが、たかだか数万円のことで、左腕や足に入れ墨のあるその日本人青年を怒らせるのも怖いので、泣き寝入りすることにした。
 その青年は、私が雇ってもらいたいと思うぐらいの高給をもらっていたのに、店のお金を持ち逃げするなんて、異国の地で同胞に裏切られた友人が気の毒だった。しかし、日本でもいくつかの会社を経営している友人は、私が知る限りでは、従業員に持ち逃げされたり、騙されたりしたのは、これが3度目なのに、あまり気にしていないようだった。私が前職で知り合った人のなかには中小企業の経営者が少なくなく、従業員が会社の多額のお金を横領したのに、警察にも行かず解雇しただけという話は、これまで何度か聞いたことがあった。でも私はそんな事態に実際に遭遇したのは初めてだったので、スタッフとの信頼関係を築くことの難しさを目の当たりにした思いだった。
 ましてや、私が常時カンボジアにいるわけではないうえ、共通言語を持たないカンボジア人スタッフと、製パン指導にたどり着くための算術指南をしながら信頼関係が構築できるのかと一抹の不安はよぎった。それでもこれまでに親切にしてくれるカンボジア人にも出会っているし、やるしかないと改めて意を強くしたのだった。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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