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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

2021年9月24日 没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

26. 日本大好き青年が見る夢とアフターコロナ in カンボジア

著者: 小谷みどり

ビボルが目指すスタッフ改革元気な挨拶と「報・連・相(ほうれんそう)」

 店でいまや通訳係兼スタッフ統括のようになっているビボルは、広島の会社で電気工事の技能実習生として働いた経験があり、専門資格も取得したが、カンボジアへ帰ってきてもその技能を活かす機会がなかった。日本での成果としては、あえて言えば、日本語が流暢に話せるようになったことだろうか。日本へ行く前、プノンペンで無料の日本語学校で勉強していたものの、滞在中も電気工事の実習だけでは日常会話を話せるようになるとは思えないので、ビボルは積極的に、日本人と交流をしたのだろう。 

 ビボルは日本にいる間に、不動産業で利益をあげている人に出会い、その人の影響を受けたのか、不動産の転売で収入を得る人生にあこがれを持っていた。確かにコロナ禍前のカンボジアでは、どんどん土地の値段が高騰し、不動産の売却益で大金持ちになる人がプノンペンでは続出していた。ビボルも日本で蓄えた数百万円ほどでカンボジアに土地を買い、値上がり益を期待していたが、それもこのコロナ禍で、捕らぬ狸の皮算用となった。

 そもそも、新しい店への移転の際、トラックを手配してくれ、引っ越しを手伝ってくれたご縁で、ビボルは店に顔を出してくれるようになった。日本大好きのビボルが力を入れて取り組んだスタッフの改革は、挨拶だ。

 私がカンボジアで不思議に思ったことの一つが、カンボジア人はあまり挨拶をしないということだった。出勤してきても、スタッフ同士が「おはよう」「こんにちは」を言うことはない。配達に行くスタッフに「行ってらっしゃい」とか、帰宅するときに「お疲れさま」といったような挨拶もしない。仲良くなった(というか、私の行きつけの)みかんジュースの屋台の女性は、私が屋台の前を通ると、満面の笑みで手を振ってくれるし、大家さんも会えば、にっこりしてくれるが、「おはよう」も「こんにちは」も言わない。

 もちろん、前の大家のバンデスや、バナリー一家のように英語やフランス語を話せる人たちは、「グッドモーニング」や「ボンジュール」と挨拶をするが、少なくともスタッフ同士が挨拶をしているのを見たことがない。またカンボジアについて書かれた本では、カンボジア人はタイ人と同じく、挨拶の時には手を合掌するとあるが、これまたスタッフが合掌するのは、お給料をもらった時だけだ。私は朝、「おはよう」の合掌をする人を見たことがないし、食事の際の「いただきます」「ごちそうさま」や合掌もない。私がかつて勤めていた日本のシンクタンクでは社員の出勤や帰宅時間はバラバラだったが、「おはようございます」や「お先に失礼します」の挨拶をする人は少なかったので、現代の若者は挨拶をしなくなるというのは、どこの国でも同じなのかもしれない。

 とにかく、ビボルはスタッフに、出勤時には「おはようございます」、帰る時には「お疲れさまでした」と日本語で挨拶させるようにした。さらに言えばカンボジア人は、挨拶だけでなく、「ごめんなさい」と謝ることもしない。

 一度、チャンティがパン生地をこねる機械を壊したことがあった。チャンティは壊したことを内緒にしており、それが私にばれた時にもしらばっくれた。私は何も言わずに壊れて使えなくなった機械を別の場所に移したのだが、チャンティはビボルに促され、私に謝りにやってきた。

 私は、「挨拶も謝りもしない人たちなんだな」とは思っていたが、郷に入れば郷に従えで、挨拶をしましょうとはスタッフに言わなかったのだが、日本で「ほうれんそう」(報告、連絡、相談)の徹底と挨拶に感激したビボルにとっては、それが一番気になる点だったようだ。

「命がお金で買える」国の行く末

 ビボルは人懐っこいので、顔見知りが多い。ある日、「明日は知り合いのお葬式に行きます!」と私に言うので、お葬式は私の研究対象でもあるので一緒に連れて行ってもらうことにした。カンボジアでは白が喪の色で、参列者や遺族は白いシャツを着るのがならわしだというので、私は市場で白いTシャツを買った。

 亡くなったのは38歳の女性で、中学校の教員だった。実は10年前から肝炎に感染していたが、カンボジアでは健康診断を受ける人はほとんどおらず、本人も劇症肝炎を発症するまで知らなかったそうだ。「カンボジア国内では助けるすべはない」と病院で言われ、夫は妻をタイのバンコクにある病院へ連れて行ったが、時すでに遅し、だったという。バンコクの病院の医師からは、「あと数日早くタイへ来れば、助かったのに」と言われたそうだ。

 バンコクとプノンペンまでの移送費(飛行機は高いので、なんと片道15時間かけてバスで!)や医療費で100万円以上を使ったため、遺族にはお葬式代にまわせるお金は残っていなかったようだ。亡くなった日にバンコクから戻り、その翌日には火葬された。ビボルによれば、故人の夫は、「わいろを要求せず、悪いこともしない警察官だから、出世をしていない」という。あまりにも急なお葬式だったため、故人の教え子や同僚の教員たちは出棺に立ち会ったが、友人たちは間に合わなかった。お墓を建てるお金もないので、遺骨は川に散骨すると、夫が私に教えてくれた。

自宅でおこなわれた出棺前の様子。中央に立つ男児が遺児。

 毎月給料をもらえる仕事に就いていたこの遺族はこれでもマシな方で、本当に貧しくて医療費が払えなければ、バンコクの病院にさえも行くことはできない。スレイモンが腎臓結石で入院した時も、お金がないので、病院の廊下にストレッチャーのまま置かれ、なかなか手術をしてもらえなかった。

 元野党の国会議員だったバンデス夫妻が数か月に一度、検診のために飛行機でバンコクの病院へ行くのは知っていたが、そんな裕福な家庭は氷山の一角だったと改めて認識したと同時に、お金で命を買えるカンボジアの現状を目の当たりにし、私はショックだった。今日生きることの方が深刻で、先のことが考えられない人が多いこともあるが、健康診断にも費用がかかるので、お金がある人は検診を受けて病気を未然に防げるが、お金がない庶民はそんな余裕はとてもない。

 そんなことを考えたこともあって、ちょうどその数日前あたりから、ビボルが「心臓がバクバクする」と言い出したので、私は健康診断代を払ってあげることにし、検診をするよう勧めた。その結果、心臓がバクバクするのは悩みごとやストレスがあるせいだという診断を受けたのだが、何よりも私がびっくりしたのは、血糖値、中性脂肪値が高く、糖尿病予備軍だったことだ。

 その後、30代前半のカンボジア人の僧侶にも検診代を寄付して同じ検診センターに送り込んだが、日本ならば糖尿病の疑いがあるレベルの数値だった。20年以上も僧侶をしており、肉やお酒を一切口にしないのに、30代前半で、コレステロールや中性脂肪の数値が高かったのだ。

 日本でも患者が多い2型糖尿病は、生活習慣病だと言われている。一方、カンボジアでは若者にも糖尿病患者が多いのだが、検診を受けないので、健康のために食生活に気を付けなければならないという自覚もない。

 カンボジアでは、びっくりするほどの量のお米を三食食べる。国連食糧農業機関(FAO)の統計によれば、バングラディシュ、ラオス、カンボジアは世界で最もお米を食べる国で、国民一人当たり、一日3合を食べているという。日本では1合程度なので、カンボジア人は日本人の3倍のお米を食べている計算だ。逆に言えば、少量の濃い味のおかずかスープで大量のお米を食べるのが、カンボジアの庶民の食事スタイル。これでは糖尿病になるはずだ。カンボジアでは栄養や健康に関する教育が急務なのだが、なにせ食料を買うお金がないので、バランスよい食事を、と言われても、どうしようもない。

 カンボジア人と一緒にいると、お金がなければ教育も受けられないし、健康も手に入れられないという現実をまざまざと見せつけられる。ビボルは日本で技能実習生となり、蓄財ができたので、どうしたらお金持ちになれるかというよりは、手っ取り早くお金持ちになれる方法に関心があるようだった。

 ビボルは、自分が憧れているカンボジアの友人たちをよく紹介してくれた。不動産で財を成し、今は株の投資で毎日ぶらぶらしている男性、大型工場が建設されるという噂を聞けば、近隣の土地を買い占め、転売益で大金持ちになった男性など、一攫千金に成功した若者が多かった。しかしそんな若者も、異口同音に「貧しいカンボジアのために尽力したい」と力説するから興味深い。日本で、株式投資や仮想通貨取引などで億単位の資産を築いた若い投資家たちのうち、どれだけの人が「日本の貧困問題を解決したい」と思って行動しているだろうか。

 そんな友人たちのようにお金持ちになりたいビボルは、友人たちが広大な土地を買ったとき、5平米の土地代を出したそうで、「ここが私の土地です。いま売ったら、私が買った時の5倍になります」と、自慢げに現地を見せてくれた。建設が噂された韓国系の鋳物工場ができれば、従業員宿舎や従業員のための食堂などが建設されるはずだから、絶対に土地の価格は上がる!と。そんな5平米の土地など、売ろうにも売れないだろうと、素人ながらに思うのだが、ビボルは自信満々に、「友人のプロジェクトだから大丈夫です!」と言い張る。

 コロナ禍で、この土地がいまどうなっているかといえば、工場誘致の話自体が立ち消えになり、友人も資金繰りが大変なのだという。確かにこの5年ほどは、中国のカンボジアへの投資は急速に拡大し、そのおかげで利益を得て資産家になったカンボジア人もいただろうが、それは一部の特権階級だけだ。ビボルが紹介してくれた友人たちも、政府高官との強いパイプがあった。コロナ禍を経て、カンボジアがどうなっていくのか、とても興味深い。

大規模工場予定地に隣接した、くだんの土地。このなかの5平米が、ビボルの土地らしい。
土地の販売事務所の前で、ビボルと。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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