チャンティの両親がやって来た
ある時、スタッフのチャンティの両親が田舎から、娘の様子を見にやってくることになった。乗合ミニバンを乗り継ぎ、プノンペンまで3時間。店に住んでいたチャンティのために、私は両親も泊まってよいと許可した。
チャンティの両親は、コメ農家だが、コメの価格が暴落しているので、生活は苦しい。両親は店にいるチャンティを見て安心した様子だったが、「娘の学費や生活費を払えず、かわいそうだが、チャンティの下には弟が2人いるので、高校を卒業したらプノンペンに送るので、弟たちもここでお願いします」と、私に何度も頭を下げた。聞けば、お父さんと私は同じ年。お母さんは一回りも年下なのだが、苦労しているせいか、農作業で日焼けしているせいか、そんなに若くは見えない。チャンティが焼いたパンを差し上げたら、お母さんが「美味しい!」と、感激して泣き出した。「手に技術をつけることは大事です。コメ作りでも同じです」と、お父さんは言っていた。
実はチャンティのお母さんは、しょっちゅう、娘に電話をかけてきては、3000円や5000円程度のお金を無心していた。チャンティはお母さんを喜ばせたいと、お金を送金するので、常に金欠状態だった。チャンティは給料が出ると、そそくさと100円ほどのエナジードリンクを買いに行くのだが、それが唯一の贅沢だった。光熱費や家賃は私が負担していたとはいえ、学費や食費、親への仕送りとなると、やりくりが大変だったはずだ。
通訳のビボルを介して、「チャンティはがんばっているので、お金の無心をしないであげてほしい」と頼んだところ、母親は「はい」とは言っていたものの、無心はその後も続いていた。うちに来るまでは、チャンティにはお金がなくて学費が払えず、大学を休学していたぐらいなので、自分の未来のためにお金を使ってほしいと私は思うのだが、親に生活費を渡すのが当たり前だという風潮がカンボジアにはあり、彼女は貯金をできるはずもなかった。
日本でもかつてはそうだったのだが、カンボジアでは現在でも、「長子が下のきょうだいや両親の生活の面倒を見る」という意識が根強くあり、「なぜ自分が犠牲になるのか」という疑問すら抱かない。チャンティもあのスレイモンも、昼間は会社員で夜はイタリアンレストランでバーテンダーを掛け持ちしていたヘンも、わずかな稼ぎをことごとく親に吸い取られていても、第一子としての使命だとしか感じていないのかもしれない。連綿と受け継がれてきたカンボジアの慣習は、部外者がちょっと口を出したところで変わらない――現地で何度も感じてきたことだ。
ともあれ、チャンティの両親は店に2晩宿泊して、帰っていった。
カンボジアの僧侶たちは日焼けしている
2020年1月。いま思えば、その頃からカンボジアでもコロナウイルスがもう入り込んでいたようだ。プノンペンでは1月頃から、道端で突然、倒れて亡くなる人が増えるという不思議な現象が頻発し始めた。SNSでは、前を歩いていた人が倒れこむ姿が拡散し、私のまわりのカンボジア人は、謎の死を怖がっていた。カンボジアには武漢からの直行便が運航しており、日本よりも相当早い段階から、ウイルスが入っていたのだろう。それでもカンボジアでは、まだ平穏な日々が続いていた。
しかし3月には、カンボジアではコロナの影響で、中国人が経営する縫製工場などが閉鎖され、失業者が出始めていた。ちょうどその頃、日本のネットメディアから、私がプノンペンで孤軍奮闘している姿について取材を受けた。英語でも掲載されたところ、さっそく、カンボジアで僧侶をしているという人から連絡があった。聞けば、プノンペンから1時間ほど離れた集落で、学校やクリニックを作り、子供や村人のために尽力しているという。
カンボジアでは、日本と異なり、僧侶は肉食妻帯ができない。サレスと名乗るその30代の僧侶は、いわゆる「口減らし」で9歳の時に出家していた。お寺で小僧さんをしながら学校に通い、プノンペンの仏教大学に入学。卒業後は、ユニセフや欧米の篤志家から支援を受けながら、村人のために小学校や診療所、井戸を次々に建造していた。サレスは英語を話せることもあり、プレゼン能力や募金を集めてくる能力にたけていた。
私もカンボジアへ戻った時、サレスのリクエストに応じ、医薬品や歯ブラシ、友人や私の妹が寄付してくれた子供たちへの古着などを日本から運んだ。
首都のプノンペンと地方の状況とは大きな経済格差がある。サレスと一緒にその村へ行ってみると、小僧さんや僧侶が建築業者と一緒に汗水を流しながら、診療所を建てているところだった。タイやカンボジアでは、僧侶が肉体労働をするのは当たり前の光景で、積極的に人々の中へ入っていき、問題解決のために自ら行動する。
この村では、コロナの影響で町の縫製工場などで働いていた若者たちが軒並み失業し、子供たちの稼ぎをあてにしていた両親たちは食べるものがない状態に陥っていた。村には川や湖がなく、カンボジアは本来ならば二毛作できる気候なのに、乾季にはコメはおろか、野菜も収穫できない土壌なので、出稼ぎをするしかない住民がたくさんいた。
サレスが「このままでは、来週の正月を迎えられない人たちがたくさんいる。助けてくれないだろうか」というので、それぞれの町内会長が困窮度合で選んだ100家庭にコメ5キロ、缶詰、調味料などを寄贈したこともあった。私が寄付したお金で、小僧さんたちが食料を調達し、仕分けして、お寺に集まってもらった人たちに配布するという流れだ。
この村で、住民が自立できるような支援の方法がないかをサレスとともに模索することにしたものの、それ以降、コロナ禍で私はカンボジアへ戻れていない。
カンボジアに行けない間に起こっていたこと
もう一人、記事を見て連絡してきたのは、インド人のダニーだ。インドの大学を卒業し、コンサル会社で働いていたが、若いうちに世界をこの目で見てみたくなり、2年前にやってきたカンボジア最大の港町シアヌークビルのインターナショナルスクールで、英語教師として働いていたという。しかしコロナ禍で学校が閉鎖し、解雇された。「カンボジアの若者をサポートしている姿に感銘を受けた。自分も手伝いたい」というメッセージを私に送ってきたのだが、収入が途絶えたので、プノンペンで職を探す間、店に住まわせてほしいという条件だった。
インド人を助けに来たわけではないが、カンボジア人に限っているわけでもないうえ、私自身が、外国でいろんな人に助けてもらった経験があるので、店に住まわせることにした。結局、このインド人は2021年3月にシンガポールへ移ったので、私が住居を提供したのは10か月ほどだった。最後の半年は、コロナ禍で失業して住む場所もなくなった新しいスタッフを店に住まわせるため、スタッフでもないインド人青年のことは、私の友人であるバナリーに頼み込み、彼女が経営するホテルに住まわせた。私がコロナ禍でカンボジアへ行けていないので、ダニーとは一度も会ったことがない。よくもまあ、一度も会ったことがない人を無償で店やホテルに住まわせてあげるわと、自分でも呆れるが、彼がいつか、「会ったこともない日本人にピンチを救ってもらったなあ」と思い出してくれることがあれば、それが国際親善なのではないかと私は考えている。しょせん、すべては私の自己満足なのだから。
肝心の店はといえば、ノックはコーヒーショップを開店したが、これでは利益が出ないと、屋台を店の前に出し、店内でお酒と料理を出しはじめた。家賃や光熱費が不要だし、ノックの友人たちで店はにぎわっていたようだ。音楽を流した店内では若者たちが夜中までパーティをすることもあったようで、とうとう、上に住む大家から苦情がきた。22時までの閉店時間を遵守するとか、音楽のボリュームを下げるとか、店を続けるための条件を出されたらしい。いくらでも大家と譲歩することができただろうに、ノックは、「22時で閉店したのでは儲からない」と、2か月ほどで辞めてしまった。カンボジアでは、飲食店を開業するにあたって何の免許も必要ないものの、後先を考えず、思い付きで行動する人が多いので、開店したものの、数日間で閉店してしまう店も少なくない。
いやはや、若者を支援するのは容易ではない。
肝心のパン屋だが、せっかく納品させてもらえるようになったホテルやお店はコロナ禍で休業した。フライドチキン店に納品していたパンは、チャンティやボニーが発酵に失敗した酸っぱいパンを何度か持って行ったようで、とうとう契約を打ち切られてしまった。毎日ちゃんと業務報告するよう、口を酸っぱくしてスタッフに言わなかった私が悪いのだが、そんなパンを平気で持っていったなんて、フライドチキン店には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。もちろん、二人はまったく悪びれることもなく、平然としている。が、カンボジア人が謝らないことにも、もう慣れた。
健診センターには、健診を受けた人に出すサンドイッチを提供させてもらっていたが、これも、何度か「今日は忙しいから無理」と、私に無断で納品を断っていたらしく、契約中止の連絡が入った。
菓子パンを置かせてもらっていたコーヒーショップからは、せめて朝7時までに持ってきてほしいと言われたが、ボニーは「それは無理」と答えた。コーヒーショップはバナリーの紹介であり、バナリーの顔をつぶすことにもなるので、バナリーの忠告で、ボニーを解雇した。
一人残ったチャンティは、「一人で働くのはいやだ」と、私がカンボジアへ戻ってきたら辞めると、周りの人に言うようになった。私は、誰かに働いてもらいたいわけではないので、パン作りをしたい人がいないのなら、いったん店を閉めて、一から仕切りなおそうとも考えた。
そんな頃、バナリーから「プノンペンのレストランやパン屋が閉店や休業し、住む場所も仕事も失った若者がたくさんいる」と連絡があり、希望者を受け入れることにした。それを知ったチャンティは、「やっぱりここに残りたい」と言ったが、やる気がない人を支援する理由はないので、残念だが、辞めてもらうことになった。
したいことがない退屈な人生よりも……
最後のカンボジア滞在から日本に戻って一年半。現在、店には会ったことがない青年ケンが住み、パンを焼いている。街がロックダウンし、市場で働いていた人たちも軒並み、日銭を稼ぐことができなくなった。ごみ収集で日銭を得ていた人たちも、ロックダウンによってごみが減り、生活がままならなくなった。
せめてもの支援として、ケンはパンを焼き、生活に困窮した人たちに無償で提供している。パン作りをほかのカンボジア人の若者が手伝ってくれることもあるし、バナリーが小麦粉を買うお金を寄付してくれることもある。
人生は何が起きるかわからないから、おもしろい。言葉も話せないし、関心があったわけでもないカンボジアで、いろんなことを学んだ。カンボジアには優しい人が多い。相互扶助の精神が根付いている。
私は死生学者として、あるいは夫と突然死別した者として、いつまでも人生が続くわけではないということを体験してきたが、日本にいると、「老後のために貯蓄をする」「健康寿命を伸ばす」ことが美徳とされ、みんなが老後を目指して生活設計をしている。しかしカンボジアでは、そんな発想はない。今日明日の生活をどうするかで頭がいっぱいで、老後のために貯金する余裕なんてないし、栄養バランスのよい食事をとることがままならない庶民には、健康寿命なんて考えることもできない。
どちらが正しいかという話でもない。ただ、貯蓄や健康は、人生の手段であって、生きる目的ではないはずだ。したいことがあるから健康でなければならないのだし、お金も必要になる。
したいこともなく、ただひたすら毎日を過ごす人生は、私には退屈すぎる。カンボジアでのわずかな経験からだけでも、いろんな問題が見えてきた。日本人を含め、学校をカンボジアに建設して寄贈する外国人は多いが、肝心の教師がいないのだから廃墟と化した建造物もたびたび目にした。貧富の差が激しく、貧しい人は病院にもかかれず、薬も買えず、死ぬしかないという現実にも直面した。大学を卒業しても割り算がわからない若者も多く、生きる力の教育が必要なことも痛感した。
私に何ができるかわからないけれど、コロナ禍が収まったら、細々とでも自立のための後方支援を続けたいと思う。
(おわり)
※「没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!」は今回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。当連載をまとめた単行本を、新潮社から刊行予定です。
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小谷みどり
こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 小谷みどり
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こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。
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