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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

2021年1月8日 没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

9. 6人家族の長女で大黒柱、ちょっと不器用なスレイモンを救え!

著者: 小谷みどり

パンを食べたことのないスタッフにパン作りを教える

 私の知人がプノンペンのイタリアンレストランを引き取ることになったのは前回書いた通り
 そこで働いていたスタッフも丸ごと引き受けることになったが、26歳女性の厨房スタッフ、スレイモンが、私は気がかりで仕方なかった。6畳間に家族6人で暮らし、その家計はスレイモンが支えている。学歴もなく、何かの技能があるわけでもないのに、稼ぎ頭と期待されていた彼女を助けたいと思った。20代半ばになって、今さら学校へ通わせるわけにもいかないし、働かないと家族みんなが路頭に迷ってしまう。
 知人が引き受けたレストランには厨房がある。「そうだ、パン屋さんだ」と思いついた。
 日本のみならず、アジアのどこの国でも、経済発展して人々の生活が豊かになれば、朝食が白米からパン食に代わっていくことを体感していた。プノンペンの街中にもおしゃれなパン屋さんはあちこちで見かけるし、高級パン屋さんでは、日本と同じ値段なら、とても美味しいフランスパンが手に入る。しかしコメ文化の人たちは、フランスのようなハード系のパンやパサパサのパンではなく、しっとりしたパンをきっと好むに違いないと、何の根拠もないものの、アジアでの生活経験上、感じていた。製パンの基本的な技術があれば、きっと就職には困らないだろうし、オーブンさえ買ってあげれば、将来、自宅でパン屋さんを開けるのではないかと考えたのだ。
 わたしは、25年以上前に趣味でパン作りを習ったことがあり、会社員時代には自宅でパンを焼いては友人たちに送り付け、試食してもらっていた。素人ではあるが、パンのこね方や基本的な成形なら教えることができる。
 さっそく、スレイモンにパン作りを習う気があるかを聞いてみた。「やります」と即答した。考えてみれば、彼女一人に家族の生活がかかっているのだから、「給料をもらえるならなんだってやります」と答えるに決まっているのだが、スレイモンを助けたい一心の私は、彼女を一人前に育てるという使命に駆られてしまった。
 まずは私がコッペパンを焼き、スレイモンや、彼女と同い年の同僚女性スレイピッチに食べてもらった。すると、思いもよらぬ反応が返ってきたのだ。「こんなパンを食べたことがないので、美味しいかどうか分かりません」と。ええ! 食べたことがないってどういうこと? 彼女たちが言っていることがすぐには理解できなかった。
 イタリアンレストランの厨房で数年働いてきた二人は、店で出すピザは試食しており、味を知っていた。スレイモンは、給料日に、屋台で売っているフランスパンのサンドイッチを買うことがあるらしく、彼女がこれまでに食べたことがあるパンは、屋台のフランスパンとピザだけで、ふんわりしたパンを食べたのは人生初だったのだ。確かに自分のイメージとは異なるパンを食べたら、美味しいかどうか、分からないかもしれない。思い返せば、ドイツの黒パンや、インドのナンやチャパティを人生で初めて食べた時には、私も未知のものへの違和感があった気がする。
 しかも屋台のフランスパンサンドイッチなら、日本円にして一個100円程度で買えるが、おしゃれなベーカリーでは数百円はするし、一緒に売っている菓子パンも150円程度はする。月給が現地で200ドル弱、2万円ほどで一家6人を養うスレイモンには、自分で買えるはずもない。改めてカンボジアの貧富の格差を垣間見た。
 これだけパン屋さんが街中にあるのに、フランスパンとピザ以外は口にしたことがないという事実に驚きはしたが、とにかくパン作りを一緒に始めることにした。
 強力粉、塩や砂糖、イースト菌、バターを計量するところから教え、材料をこね、たたき、発酵させていく過程に興味を示してくれたまではいいが、問題は成形だった。スレイピッチはのみ込みが早いのに、スレイモンは何度練習しても、コッぺパンをきれいに成形できない。同じことを同時に習っても、理解が早く、めきめきと上達する子と、なかなかうまくできない子との差は、どこにあるのだろうかと考えた。
 思えば、イタリアンレストランで働いていても、調理を任されるまでになり、給料があがっていったスレイピッチと、勤務年数はスレイピッチより少ないとはいえ、お客さんに出せるレベルではないような料理しかできず、給料も安いスレイモン。料理は上達しなくても、製パン能力はあるかもしれない、と期待を抱き、とにかく手取り足取り何度も何度も練習させた。

交渉力は抜群のスレイモン

 イタリアンレストランが廃業し、夜はライブハウスとしてスタートすることになったこの店で、厨房スタッフとして引き続き働くことになったスレイモンは、「給料をあげろ」と私の友人でもある新しいオーナーに言い寄った。スレイピッチは、イタリアンレストランを経営していたカンボジア人が別に経営する和食レストランの料理人として移ることになり、スレイモンは、もれなく自分が昇格できると思ったのだろう。
 確かに一日12時間以上働いて月に200ドルもないのは、さすがにかわいそうだ。しかし日本でいくつもの飲食店を経営しているライブハウスのオーナーは、渋った。スレイモンの言い値が350ドルだったからだ。私の会社員時代は固定給だったし、新聞社やテレビ局の取材にコメントをしても無償が当たり前だったので、ギャラの交渉をするなどという発想はなかった。オーナーも業態も新しくなって、一度もまだ働いてないのに、スレイモンがこれまでの2倍近い給料を堂々と要求したしたたかさには驚いていたが、生きるためにはこうした交渉力も必要なのだと感じた。
 私と新しいオーナーは友人でもあるし、営業時間までの間、店を無償で貸してもらえるのだからと、私がスレイモンの給料をすべてもつことにした。スレイモンにしてみれば天性の嗅覚で、「日本人は押しに弱い」と踏んでいたのだろう。
 スレイモンは、「バイクを買うお金がないので通勤できない」とも言い出した。店のある場所はプノンペンの一等地だ。対して、貧しいスレイモンは、店から車で30分ほど離れたスラムに住んでいた。交通手段がないため、これまではバイクタクシーで通勤していたので、月に30ドル以上はかかっていたはずだ。
 公共交通手段が発達していないプノンペンでは、バイクがなければ、当然、行動範囲も就ける仕事も制限される。実は友人オーナーはスレイモンにどうしても働いてもらいたいわけではなかった。けれども、何をするにもバイクがなければ貧困からも脱却できないだろうと、交渉上手なスレイモンのために、またもや私がバイクを買うお金を前貸ししてあげることにした。
 カンボジアでは、125㏄以下のバイクには運転免許がなくても誰でも乗れる。スレイモンはその日のうちに、400ドルで中古バイクを買い、お母さんを後部座席に乗せて戻ってきた。初めて買った自分のバイクがうれしくて、お母さんと一緒に「ありがとう」を言いに来たのだ。
 私より数歳だけ年上のお母さんは折れそうに細く、身長が150センチもない私よりさらに低く、笑うと歯が何本もないのが見えた。小さな体をもっと小さくして私に合掌をし、「ありがとう、ありがとう」と何度も言った。一家を養うには充分ではないものの、給料もあがり、バイクも手に入り、これでスレイモンが働くことに集中でき、調理技術を高めてもらえればいいなと、思った。
 ところがライブハウスのオープンから一か月も経たないうちに、友人オーナーは「スレイモンはいらない」と言い始めた。何度言っても、ステーキはまともに焼けないし、パスタも食べられるレベルではない、と。10ドル以上で提供しているステーキを何度も無駄にしているという。ステーキ一皿はスレイモンの一日の給料に相当するのだから、まあ、友人が怒るのも無理はない。私がもしも経営者だったら、同じことを考えるだろう。
 私もピンチに陥った。こちらも昼間は、パン教室のまねごとをしているだけだ。ライブハウスをクビになった以上、さすがに今までのように給料を払い続けるわけにはいかない。スレイモンには、「私は月に200ドルをあげるから、16時以降働ける場所を探してくれば?」と、助言した。
 プノンペンには、在住外国人やお金持ちのカンボジア人を相手にするレストランがたくさんある。安い賃金でよければ、仕事はすぐに見つかる。数日後には、スレイモンは、近くのイタリアンレストランの厨房スタッフの仕事があると報告してきた。16時から24時まで週6日働き、月160ドルだという。私からの給料を合わせれば、10ドルもアップする。
 西洋人がオーナーのそのお店は、とてもカンボジアにいるとは思えないほどおしゃれな内装で、ワインを飲み、ピザやパスタ、肉料理などを注文すると、ひとり50ドル程度はする。カンボジア人にとっては高級なレストランで働くスタッフの給料がそんなに安いのは、なぜなのだろうか。家賃が異常に高いプノンペンでは、店を経営するのは大変だろうが、それにしても給料が安すぎはしないだろうか。
 昼間の貿易事務の仕事と、ライブハウスのホールスタッフの仕事を掛け持ちしていた青年ヘンも、一度の食事に、自分が店で働く月給ほども支払うお客さんを見て、「惨めになる」とため息をつくのはうなずける。
 結局、スレイモンは調理技術が低すぎて、そのレストランから採用されることはなく、ライブハウスからもクビになった。

一緒に楽しむ時間を作って彼女のやる気を引き出そう

 これまで東南アジアに何度も行ったし、シンガポールに住んだこともあったが、レストランで食事をしても、そこで働く現地スタッフの給料と、私が支払う食事代のギャップに思いをはせたことはなかった。日本人の私にとっては普通のレストランなのに、自分たちは自腹では食べられない料理を運んで、お客さんが食べている姿をスタッフはどう思っているのだろう。
 そんなことを考えていた私は、友人の許可を得て、ライブハウスの休みの日にそこで働くスタッフ全員を招待し、お客さんとして楽しんでもらおうと思いついた。計画を話すと、スタッフは「友人を連れてきていいか?」と、大喜び。ケチケチしても仕方がないので、友人はスタッフ一人につき3人までオッケーということにした。
 協力してくれたライブハウスのDJは、いつもは欧米人向けの音楽を流すのだが、その日は、スタッフのためにカンボジアの若者に流行っている曲をかけてくれたので、大盛り上がり。「今日だけは特別ね!」と、店の外にいる警備員も店内に誘い、15人ほどで4ダースのビールを飲みほした。調理は、元路上生活者だったホールスタッフで昼間は日本のパチンコ店のウェブ広告を制作する会社で働く青年オウンと、スレイモン、私の3人で担当した。
 スペアリブのオーブン焼き、ポテトフライ、ツナサラダに、スレイモンが焼いたコッペパンでカツサンドやチキンサンドなどを大量に作った。ダンスフロアで踊ったり、ビールを飲んだり、ごちそうを食べたり、みんなとても楽しそうだった。
 夜11時になった頃、ダンスをしていたオウンが私のところへやってきて、「マム、遅いからバイクで送る。店の片づけは任せて」と言ってくれた。25歳が年齢中央値のカンボジアでは、50歳はかなりの年配だ。子どもがいない私にとって、若い子から年寄り扱いされるのも悪くはない。歩いて10分もかからないのだが、素直にオウンのバイクで宿泊先まで送ってもらうことにした。
 20代の若いアジア男性のバイクの後ろに日本人のおばさんが乗っているなんて―インドネシアのバリ島でこれまで何度も見た光景が頭に浮かび、最初は躊躇しないわけではなかった。同じ日本人女性として、嫌悪を感じた覚えがあったからだ。
 今では何にも感じず、平気でヘンやオウンのバイクに乗せてもらっているが、この件に限らず、カンボジア人は、こちらが頼みもしないのに、親切に世話を焼いてくれる人が少なくない。

貸切ライブハウスにスタッフを招待。大盛り上がりで夜が更ける。写真はすべて著者提供。

 ある日曜日には、遠足に行った。
 ライブハウスでガードマンをしている父親と一緒に店の二階に住むヘンは、昼間の仕事から帰宅すると、すぐに下に降りてきて、あれやこれやと話をしにやってくる。
「マム、今度の日曜日、プノンペン郊外まで遊びに行こうよ。きれいな場所があるんだ」
 ライブハウスでホールスタッフとしても働くヘンとオウン、オウンのガールフレンド、そしてスレイモンも誘い、バイクを相乗りしてピクニックに出かけた。川沿いに並ぶ東屋のスペースを借りてのんびりするというのが、プノンペンに住む人たちの休日の過ごし方の定番だ。
 その場で料理を注文することもできるのだが、私たちはランチ代を節約しようと、店で調理をした食料持参で出かけた。食材を買うお金は私が出し、スレイモンが料理したカエルや雷魚を焼いたもの(彼女はローカル料理ならできるのだ)や、卵焼き、お菓子などをつまみながら、ビールを飲んでひとしきりおしゃべりをした後はフリータイム。スペースのあちこちにぶら下がっているハンモックでお昼寝したり、スマホでYouTubeを見たりして、それぞれがまったり過ごすという計画だった。
 それならわざわざ出かけなくても、自宅でのんびりしていればいいじゃないかと思うのだが、どうせすることがないのなら、狭い家に閉じこもっているより、みんなで同じ空間にいた方がいいということなのだろうか。
 プノンペンにあるイオンモールには、スケートリンクやボーリング場、映画館もあるが、ボーリング場や映画館の入場料は日本円で一人500円ほどかかる。映画館で売っているポップコーンとソフトドリンクのセットは800円もする。ちなみに、プノンペンでは4DXの映画の鑑賞料金は1000円強なので、日本の半額以下だ。お金があれば日本と変わらない生活ができるが、イオンモールで一日遊べる若者は、カンボジアではお金持ちの家庭の子女に限られる。

バイク相乗りで出かけた休日のピクニック。左から筆者、オウンのガールフレンド、オウン、スレイモン、ヘン。

  父親から虐待を受けて育ち、働かない祖母や母に代わって一人で家計を支えているスレイモンになんとか「がんばろう」と思ってもらえるよう、こんな風に休日も一緒に過ごすなど、少しでもコミュニケーションをとるよう心掛けたのだった。  

 

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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