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没イチ、カンボジアでパン屋はじめます!

スタッフごと!? 知人が譲り受けた店舗物件

 2018年、会社を辞める半年前に私をプノンペンに誘ってくれた知人は、市内にレストランを経営しているカンボジア人から店を引き受けようとしていた。家賃が高すぎて営業を圧迫しているから助けてほしいと、頼まれたらしい。
 一緒に見に行ったお店がある場所は、とてもここがカンボジアだとは思えないような雰囲気だった。各国の大使館、国連やNGOの施設が多く、外国人居住者が訪れるおしゃれなレストランやカフェが立ち並んでいた。知人が引き受けるお店は、古いけれど瀟洒な一軒家でプールまであった。カンボジアは1953年までフランスの支配を受けていたので、今でもプノンペンのあちこちに洋風の一軒家があり、植民地時代の面影が残っているのだ。
 この日本人の知人は、カンボジアの公用語であるクメール語はおろか、英語もろくに話せない。一方、店を引き継いでほしいと泣きついてきたカンボジア人は日本語を完璧に話す。文部科学省の国費外国人留学生として日本で学んだ秀才で、35年以上も首相の座にあるフン・セン氏の子どもの同級生というコネクションもあり、最初は警察官からスタートし、今では建設業、飲食業、縫製工場などを手広く経営する若手実業家だ。私が最初に出会ったカンボジア人は、知人と私を空港まで迎えに来てくれた、まだ30代のその男性だった。
 にこやかに微笑み、流暢な日本語を話す彼は腰が低く、知人の依頼に迅速に対応するかたわら、ひっきりなしにスマホに入ってくる連絡にも即座に返信する。幼稚園に通う息子のお迎えもこなし、いかにも「仕事も育児もこなす青年」のように見えた。カンボジアの急激な発展の裏には、こんな働き者がたくさんいるからなのかとびっくりした。
 やがて私が会社を辞めた頃、知人が、そのカンボジア人男性のお店を正式に引き取ってあげることになった。知人は、それまでのイタリアンレストランから、生バンドの歌を聴きながらお酒を飲む夜のお店へと転向することにし、夕方の開店までの間、私がお店を自由に使わせてもらえることになった。とはいえ、何かあてがあるわけではない。この頃はまだパン屋のアイデアは微塵もなかった。
 今まで会社で研究しかやってきていない私に、いきなりお店の経営などできるはずもないし、何をどこから始めればいいのかも見当すらつかない。ただ、改めて訪れてお店がある周辺を歩いてみて、分かったことがあった。
 一見、日本にいるのと変わらないようなおしゃれなカフェやレストランが林立し、外国人やお金持ちのカンボジア人でにぎわっているが、それは、とんでもなく安い給料で働くカンボジア人スタッフに対し、お客さんは、とんでもなくお金を持ったカンボジア人富裕層だというギャップが存在しているから、ビジネスが成立するのだということだ。
 実際、カンボジア人が経営していたレストランのスタッフの給料を聞いて、びっくりした。10ドル近くするピザやパスタを販売しているのに、週5日、1日12時間以上働いて月給180ドルの厨房スタッフがいた。夜7時間働いて90ドルのホールスタッフもいた。
 知人は新しい店をスタートするにあたり、これまでカンボジア人オーナーが雇っていたこれらのスタッフもそのまま引き受けた。知人には、夕方までお店を自由に使っていいとは言われたが、知人が引き受けたスタッフをどうするか、私は悩んだ。オーナーが変わった以上、スタッフが新しい店で働きたいかどうか、分からない。私がやりたいのはお金儲けを目的とするビジネスではないが、片や知人は純粋なビジネスをしようとしていた。安い給料で長時間働くスタッフが欲しいに決まっている。
 私は、一人ひとりのスタッフにインタビューすることにした。しかし、ホールスタッフは日常会話程度の英語はできたが、厨房スタッフはほとんど英語を理解しない。

父子で出稼ぎの青年、一人で一家6人を養う娘、元路上生活者

 ホールスタッフの青年ヘンは、28歳。日中は貿易会社で働き、夜はその店でアルバイトをしていた。お父さんは店の二階に住み込みながら、ガードマンをしていたので、ヘンは父親と一緒に店に住ませてもらう代わりに、夜中まで安い給料で働いていた。「夜7時間働いて90ドルのホールスタッフ」とは彼のことだ。家賃がいらないにせよ、90ドルの給料はあまりにも安すぎる。ヘンが「お店にやってくるカンボジア人が一晩で100ドル以上を使っているのをみると、せつなくなる」と、私に心の内を打ち明けてくれた。そりゃあそうだろう。彼の一か月の給料を、年齢がさほど変わらないカンボジア人が一晩で使っているのだから。
 ヘンは私を「マム」と呼ぶ人懐っこい青年だ。故郷の高校を卒業後、プノンペンに住む親せきの家に居候しながら、日中は働いて英語の語学学校に通った。彼には15歳も年の離れた妹がいるが、ヘンは妹とはほとんど一緒に暮らしたことがない。彼の父親は小学校しか卒業しておらず、田舎では良い仕事がないので、娘が生まれた後、プノンペンでホテルやレストランのガードマンを転々としている。
 プノンペンでは、セキュリティーシステムを導入したり、頑丈な防犯扉をつけたりするより、人件費の方が安いので、閉店後の店の前でガードマンが夜間警備を兼ねて(?)、寝ていることがよくある。私の定宿でも閉門後、ガードマンは扉の内側で寝ている。早朝に出かけたい時にはガードマンにどいてもらわないと門が開かないのだが、声をかけても、熟睡しているガードマンはなかなか起きなくて焦ることもある。近くの日系ラーメン屋さんでは閉店後、シャッターの前に吊ったハンモックのなかでガードマンが寝ている。屋外で寝ているのだから、夜中に雨が降ったり、蚊にも刺されたり、車の音がうるさかったりして、ゆっくり眠れないのではないかと他人事ながら心配になる。なにより、ハンモックで寝ているガードマンが襲われたり、睡眠薬を飲まされたりしたら、セキュリティーの意味がないんじゃないだろうか?
 厨房の女性スタッフ、スレイモンは26歳。世界遺産のアンコールワットがあるシェムリアップの出身だ。祖母も母も配偶者から暴力を受け、どちらも夫とは別居していた。スレイモンは、祖母、母、弟、姪や甥の6人でプノンペンの6畳間に住んでいる。祖母は72歳、母は52歳。どちらも元気なのに働かず、スレイモンが一人で一家の生活を支えていた。私はお母さんと同じ年だと伝えると、彼女は、私の顔を見て「歯がありますね」とびっくりしたように言った。「50歳ならまだ入れ歯じゃないだろ!」と突っ込みたかったが、後日会ったスレイモンの母親は、笑うと本当に前歯がほとんどなかった。

スレイモンの自宅。この一間に6人が住む。80ドルの家賃も滞納しがちだった。

 カンボジアの平均寿命は、2018 年には男性が 68 歳、女性は 72 歳。とはいえ、65 歳以上人口は2019年には 4.7%(日本は 2019 年で 28.0%)しかいない。全人口の年齢の中央値は 2019年で 25.6歳だ。日本は48.4歳なので、いかにカンボジアに若者が多いかがわかるだろう。そう、カンボジアでは50歳を超えている人は立派な高齢者なのだ。
 子どもの頃から貧しく、栄養が不足しているうえ、歯が悪くなっても治療するお金もないし、入れ歯も買えない。ましてやインプラントなんてありえない。スレイモンの母親のように、歯が抜けた50代はカンボジアには少なくない。
 スレイモンの家庭は本当に貧しく、ドイツのNGOの支援を受けて寮生活で中学までは通ったが、それ以降は家族を養うために働いている。スレイモンが中学生の頃、母親はまだ40歳になったばかりだから、働けたはずだ。だが、何もしていない。スレイモンのわずかな稼ぎだけでは、物価が高いプノンペンで一家6人の生活を支えるのは到底、不可能だと思われる。中古バイクを買うお金もないので、毎日、店まで往復2ドルかけてバイクタクシーで通っていた。カンボジア人オーナーからは交通費は支給されていないので、これではお金が残らない。
 後で知ったのだが、子どもを働かせ、親たちは何もしないというスレイモンの家庭の例は珍しいことではない。祖父も父も、酒を飲んでは家族に暴力をふるっていたのだが、学もなく、働くすべもない祖母と母は無力だった。父は愛人と暮らしており、時折、スレイモンのいない隙に家にやってきては、妻であるスレイモンの母からお金をもらって買ったビールを飲み(そのお金だってスレイモンの稼ぎだ!)、仕事から帰宅したスレイモンに手をあげる―そんな生活がもう10年近く続いているという。
 ホールスタッフのオウンはスレイモンの同級生で、同じNGOで支援を受け、大きくなった仲間だ。彼は高校を卒業した後、働きながらパソコンの勉強をし、日中は日本のウェブのアニメーション広告の会社で、アニメーションを作成している。6人兄弟の末っ子で、彼が8歳ぐらいまで、家族8人で路上生活をしていたという。日中はごみの回収をしてわずかなお金を稼ぎ、夜は空き地で、みんなで体を寄せ合って寝たという。そんなある日、ドイツのNGOスタッフがやってきて、オウンに「学校で勉強をしたいか」と聞いてきた。「行きたい」と答えたオウンは、すぐ上の兄とともに、NGOの施設で生活をしながら小学校で勉強することになったという。ほかの兄たちは、すでに小学校を卒業している年齢に達していたため、学校で勉強をするという夢はついにかなわなかった。そのため、オウンは今でも上の兄たちに恩義を感じていた。

従業員はサイボーグなのか!?

  とにもかくにも、そんな身の上話を聞いたら、この子たちをどうにかしなきゃと、頼まれてもいないのに私のおせっかいスイッチが入ってしまった。すでに大人になってしまっているこの子たちに私ができることは、何なのか。
 なかでも気がかりだったのはスレイモンだ。ヘンやオウンは、日中はほかの仕事についているし、片言の英語も話せる。スレイモンのように家族の生活を一人で支えなければならないわけではない。スレイモンはそれまでのイタリアンレストランで厨房スタッフとして働いていたとはいうものの、まともな料理が出せるレベルではない。「わたしはカルボナーラが得意です。食べてもらいたい」と言うので、店を引き受けた知人と一緒に試食したところ、知人は一口食べて、二度と手を付けようとしなかった。味がないうえ、クリームや卵に火が入りすぎて、パスタが塊のようになっていた。
 カルボナーラを素人が上手に作るのは確かに難しいが、これが自分の得意料理だと自信満々に言い張るのだから、スレイモンは調理が嫌いなわけではないのだろう。美味しいカルボナーラを食べたことがないだけで、もしも彼女が調理の技術を身につけられたら、極度の貧困から脱出することができるのではないだろうかと考えた。
 レストランのランチタイムの厨房で働いていたのは、スレイモン以外に、スレイピッチという女性の同僚がいた。二人の年齢は同じだが、スレイピッチは、軍人をしている中学校の同級生と結婚したばかりで、幸せそのものだった。スレイピッチは田舎の高校を卒業し、一人でプノンペンへ出てきて、このイタリアンレストランのコック見習いの職を得た。先輩スタッフに怒られ、泣きながら、これまでの人生で見たことも食べたこともないピザやパスタの調理を覚えていったという。今では、カンボジア人オーナーに見込まれ、夕方からは彼が別の場所で経営する日本風居酒屋でも働いており、調理の幅を広げていた。スレイピッチは、「早く子どもが欲しい」と望んでおり、休みがなくてもいいので、妊娠するまでにできるだけ働いてお金を貯めておきたいと考えていた。
 さて、店を引き受けた日本人の知人は、スタッフも丸ごと引き受けたはいいが、昼の間、スタッフをどうするかが問題だった。新しい店は夜だけの営業なので、昼間のスタッフは必要ないからだ。
 とはいえ、私はスレイモンを見捨てるわけにはいかなかった。スレイピッチも昼間の仕事を失うことになる。あるとき、参考にしようとスレイピッチに「将来の夢は何なのか。何をしたいか」と聞いてみた。すると、それを知った店の元オーナー・カンボジア人青年に烈火のごとく、私は怒られた。「従業員に何がしたいかなんて聞かないでくれ。従業員はこちらの命令で働く立場なのだから、本人の希望なんてどうでもいい!」と。「これがカンボジアのやり方なんだから、カンボジアのことを知らないくせにいらぬことをしないでほしい。スレイピッチは、夜はうちの店で働いていて、住むところだって与えてやっているんだから、自分の意見を言う権利はない」とも。
 私はこれまでの人生では、ラッキーなことに「従業員はサイボーグのように意思を持たず、命令だけを聞いて働け!」というような労働環境にはいなかった。そのせいだけではないが、従業員は意思を持たずに命令に従って働けという考え方が正しいとは、今でも思えない。しかし、青年実業家に「これがカンボジアのやり方なのだ!」と言われ、同じアジアの一員なのに、日本人が捨てられないのがこの「みんな平等」という思い込みなのだと痛感した。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

小谷みどり

こたに・みどり 1969年大阪生まれ。奈良女子大学大学院修了。第一生命経済研究所主席研究員を経て2019年よりシニア生活文化研究所所長。専門は死生学、生活設計論、葬送関連。大学で講師・客員教授を務めるほか、「終活」に関する講演多数。11年に夫を突然死で亡くしており、立教セカンドステージ大学では配偶者に先立たれた受講生と「没イチ会」を結成。著書に『ひとり終活』(小学館新書)、『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓 』(岩波新書)、『没イチ パートナーを亡くしてからの生き方』(新潮社)など。


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