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村井さんちの生活

2026年10月20日 村井さんちの生活

どこまでも広がる義父の妄想

著者: 村井理子

  スポーツの日に、義父の面会に行ってきた。連休が始まった当初は、行く気はなかった。それでも秋の始まりの清々しい天気で気分が良かったこともあったし、施設の近所に用事もあったため、ついでという感じで立ち寄ったのだ。もちろん、夫と一緒に行った。私一人で行き、以前のようにオイオイ泣かれると精神的ダメージが大きすぎる。そんなこと、カテーテル・アブレーション治療を受けたばかりの体でやってはいけない。私は私をもっと大切にすべき。そう誓ったではないか。だったら面会なんて最初から行かなければいいのでは? と思いつつも、暴露系書き手の予感めいたものもあり(そろそろネタがほしい)、ドーナツを持って行ってきた。

 最初に書こう。義父の妄想が大展開している。

 義父はもうすぐ九十三歳という高齢者だが、とても健康、そして驚くべきことに認知症も軽度である。もちろん、年齢相応のもの忘れや見当違いはあるし、歩行スピードは遅いし、耳も遠いし、九十歳超えならではの勘違いもあるのだが、おおむね、意思の疎通はできる。私の感覚だと、彼の言うことの75%程度はまともだ。残りの25%ぐらいが、ちょっとおかしい。友人らが施設にやってくれば、以前と変わらず歓談できるし、テレビも観るし、新聞も読む。至って普通だ。メンタル面を言えば、50%が依存、残りの50%が粘着という、最も警戒すべきタイプの爺さんである。しかしながら、老いぼれ(ひどい)とはいえ昭和一桁生まれの男である。多くの災害や苦難を乗り越えて立派に生きてきた。ビシッと筋が通ったところもあるし、なにより頑丈な体で病気ひとつないのは素晴らしい。悪いのは性格だけ!

 しかし! スポーツの日に会った義父はひと味違っていた。真剣な顔をして、「いいか、ここの職員を信用するな」と、眉間に皺を寄せて私に言うのだ。

 「……なぜですか?」とワックワクで聞くと、「ワシが、あんたにもらったお菓子を食べていたら、私の分はないのですか? と、毎回聞いてくる職員がおる」と答えた。

 「それは冗談で言っているのではないの?」と私が返すと、義父は人差し指を素早く(それもかなり素早かった)唇に当てて「シッ! 聞こえてしまう」と言い、「冗談というわけではない。本気や。いつもそうなんや」と言った。そして、「いま、ドアの向こうにいたような気がする」と言い、居室のドアを睨み付けていた。

 これは面白くなってきたぞと姿勢を正した私に向かって義父は、今度はこう言った。「あの家、憶えているか? 和歌山の〇〇の家だ……」と、私が憶えているはずのない家の話題が始まった。

 「憶えてないよ、行ったことないもん」と答えると、「あの家だけどな……」と、35年以上前に引っ越したはずの家の話をし始めた。ここで、夫の邪魔が入った。私がネタを収集するモードに入ったことに敏感に気づいたのだろう。

 「親父! その家はずいぶん昔になくなったぞ!」と義父の話を遮ったのだ。すると義父は、「え……?」と心底不思議そうな表情をした。え? なくなったってどゆこと……? みたいな表情だった。そこに一切の演技はなかった。心底、あの家が、ない……? という驚きに満ちた表情だったのだ。

 「親父、そんな家はもうない! あんたの家は、△△にあるじゃないか」と追い打ちをかけるように言う夫。義父は「ああ、そうやったそうやった」と一応、ごまかしながら言うのだが、しばらくすると、再び「和歌山の〇〇の家だけどな。あれは、騙されてしまったと思っている……」と語り始める。

 私は再びぐっと身を乗り出して、「騙された?? それで?!」と聞く。すると義父は、「あの家によく来てくれていた近所の人たちがいたやろ……? よくしてくれた人たちやったけれども、(急に声のトーンを落として)……持って行ったんや……」と言う。

 「な、なにを……?」と聞き返すと、「(囁くような声で)家のなかのもの……ワシ、騙されてしもうたんや……」 まさか物盗られ妄想が35年の年月を超えてスタートするとは!

 感染症対策でマスクをしておいてよかったと思った。興味深い話に口元が緩んだのを隠すことができた。夫は、義父の話題が脱線するたびに、私にネタにされてはかなわないとばかりに、「親父、それはちゃう!」とか、「親父、勘違いや!」などと義父を遮っていた。しかし義父の訴えは終わらない。こういうときの義父はしつこいぞ!

 「あの人たち、家のものを持って行って、それから外国に移住したらしいんや。お父ちゃんはすっかり騙されてしまった……」 ここで私は思わず大きな声を出してしまった。「ワハハハ、お義父さん、ニュースの見すぎじゃないの?」 

 すると夫が、「ちょっと、声が大きい! 静かに!」と大慌てで私を制した。確かに爆笑した私が悪かったし、夫としては、あまりにも突拍子もないことを言いはじめる義父の姿に不安になったのだろう。こういう時に、実の子と義理の子の差は出るというものだ。

 しかし、私は知っている。義父はそもそも妄想癖がある。義母が認知症になり、在宅介護が始まるずっと前から、義父は夢に見たから、なんとなく聞こえたから、なんとなく予感があったからという理由で、本当に突拍子もないことを言うために私のケータイを鳴らす男だった。ちなみに数か月前には泣きながら「アメリカに行かないで」と私に懇願していた。理由を聞くと、「夢で見たから」と答えた。

 帰りの車中で、「親父もとうとう本格的に認知症かなあ」と夫が言うので、「お義父さんはそもそも妄想癖あるよ。昔から、夢で事故に遭ったとか、夢のなかでお金がなくなったとか、わけのわからない電話ばっかりだったよ」と言うと、夫はため息をついていた。

 確かに、義父は会うたびに突拍子もないことを言うようになった。しかしその突拍子もないことは、義父がまだしっかりしているという証拠でもあるように私には思える。というのも、登場人物の名前や場所は確かに合っているし、会話は成立するし、話し方もいつもと変わらない調子なのだ。ということで、私の見解はこうだ。

 義父は暇。

 女性が圧倒的に多い施設内で、友だちもいない義父は、毎日「ぼんやりと寝るしかやることがない」と言っていた。だから、あれこれと余分なことを考えてしまうに違いない。暇と妄想は相性がいいので、今の義父が出来上がっている。今は彼にとって妄想を大きく展開する時期なのではないだろうか。それも悪くないのでは? と、同じく妄想癖のある私は考える。

 義父はなんと幸せな人なのだろうと私は思う。本人は気づいていないかもしれないけれど、彼は本当についている。もうすぐ九十三歳で、大きな病気もなく、街中のきらきらとしたおしゃれなグループホーム暮らし。施設の人が「たくさん来られますねえ!」と言うほど面会者が多く、いつも居室にはスイーツが。そりゃ寂しいこともあるだろうし、施設暮らしが楽しいことばかりではないことはわかっている。それでもやはり、義父は超がつくほどラッキーな後期高齢者だと思う。

 きっと彼は今日も妄想を膨らませている。こうなったらどこまでもがんばれと言いたい。

義父母の介護

2024/07/18発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2026年7月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、松本太郎と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただき、ありがとうございます。

 2002年7月4日、季刊誌「考える人」が創刊されました。

 目次には当代随一の執筆陣がずらりと並び、B5判240ページの誌面の隅々から知の香りが立ちのぼってくるかのようでした。

 当時、入社3か月の営業部員だった私は、見上げるような思いで手に取り、発売日には編集長の松家仁之さんと創刊のご挨拶のために書店にうかがいました。

 まだ書店訪問にも慣れておらず、編集長ともほぼ初対面の中、次のお店の約束の時間に間に合うだろうかと時計ばかりが気になって、終始、そわそわしていました。そんな私に松家さんがやわらかな笑顔で接してくれたこと、そして、新雑誌の門出を祝うようなすっきりと晴れた一日だったことを覚えています。

 あれから四半世紀が過ぎ、ウェブマガジンとして衣替えした今でも、創刊時に掲げられた「Plain living, high thinking(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という言葉は古びていません。AIに尋ねれば瞬時に答えが返ってくる時代だからこそ、それらしい言葉に飛びつくのではなく、自分の頭で考え、心の声に耳を澄ませることの大切さは増しているように感じます。

 創刊号には、養老孟司さんのロングインタビューが掲載されています。養老さんはその中で、恩師である中井準之助先生の口癖だった「人の心がわかる心を教養という」という言葉を紹介しています。

 読んだ瞬間に立ち止まり、さまざまな思いが湧き上がってくるような文章に、楽しみながら出会える場であり続けたいと思っています。

「考える人」編集長
松本太郎


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