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村井さんちの生活

2026年1月21日 村井さんちの生活

おとうちゃんを捨てないで……!

著者: 村井理子

 昨年の年末、義父の入居しているグループホームから連絡が入るたび、ドキドキしていた。もしかして年末年始のことを聞かれるのではないかと恐れていたのだ(年越しは家ですか、ホームですか?)。義父は年末年始、わが家で過ごすと考えていた様子だった。12月初旬に面会に行ったときも、「年末、お前の家に(お前って言うな)、ワシの居場所はあるのか…?」と聞いてきた。まったくないし、今まであったこともない。Never, EVERという話だ。「無理ですね」とあっさり答えたが、義父には懇願された。私はこれが嫌で堪らない。その場にいた夫も、「きつい」と言い、答えを濁したまま、私たちは逃げるようにしてホームを後にした。そこで終わりにしておけばよかった。

 さて、24日、クリスマスイブ。私は用事があって義父の暮らすグループホームから目と鼻の先にいた。そういえば、この辺りに新しいケーキ屋ができていたではないかと思いだした私は、立ち寄ることにしたのだ。家族の分のケーキをたっぷり注文し、ふと店内の棚を見ると、Merry Christmasと印刷された袋に入ったクッキーセットがあった。しばし、考えた。義父よりは義母に届けたいが、義母のホームは遠い。しかし義父のホームはすぐ近くだ。…仕方がない。私だって、鬼じゃあないんだ。これを義父に渡して、そしてさっと家に帰ればいいじゃないか、相手は92歳の気の毒な爺さんだぞ…? と、その時は考えて、購入して、義父のグループホームに向かった。私のバカバカバカ!

 クッキーの袋を手に義父のいるフロアに行くと、義父は両手に杖を持ち、廊下の先に立っていた。私の顔を見た瞬間に号泣しはじめ、「理子〜! 理子〜!」(呼び捨てにすんな)と叫んだ。職員さん全員が、ザーッと引いたのがわかった。私だって同じだ。そのまま帰ろうかと思った。

 義父は泣きながら大声で私の名を呼び続けた。こんなことを書いてはいけないと思いつつ、それでも勇気を出して書こう。気持ちが悪かった。義父に付き添っていた顔なじみの職員さんも、とても困った表情をしていた。私が実の娘ではなく、義理の娘だと知っていて、「ほんっとに、大変ねえ…」と声をかけてくれたことがあった人なのだ。

 名前を泣きながら叫ばれて、気絶寸前の状態で義父の居室に入った。義父は職員さんにベッドに座らせてもらいながらも、まだ大声で泣いていた。なにこれ、地獄ですか? 明日、地球滅亡ですか? 職員さんは、逃げるようにして居室から出て行き、号泣する92歳と私が狭い居室で二人きりになった。私が最初に考えたのは、「夫が信じるわけがない」ということだった。というのも、義父は夫に対して酷く泣いたりしないからだ。それは過去の経緯からもはっきりしている。ということで、私はポケットに入っていたケータイの録音ボタンをさくっと押した。

 義父は、私が頑なに断っているというのに、自分が座っているベッドの横に座れと何度も言った。それも大声で言った。私が断り続けていたら、今度はベッドの上にバタリと倒れて、意識を失った(フリをした)。よし、今がチャンスだ、逃げろと思った瞬間に居室のドアが開き、担当のKさんが丸椅子を持って来てくれた(若く、屈強な男性。義父のわがままを封印する圧のある人)。たぶん、義父の叫び声が聞こえていたのだろう。なんだかすごく、申し訳なさそうな顔をしているKさん。その時だ、意識が無くなっていたはずの義父が、途切れ途切れの甲高い声で叫んだ!

 ステ…ス…ステ…捨てないで…! お願いよう、捨てないで…!

 ギィィィィィ、怖え! これはホラー! 担当Kさんも固まっていた。私も固まった。しかし、私たちの狼狽に気づかない義父は甲高い声で続けた。

 理子、お願い、捨てないで! おとうちゃんを捨てないで…!

 Kさんは大急ぎで丸椅子を部屋に置き、そそくさと去って行った。きっと怖かったのだと思う。私はジリジリと後ずさりして義父からなるべく距離を取り、ポケットからケータイを取り出して、号泣して大声で叫ぶ義父の写真を一枚だけ撮影した。私のこの撮影行為を責める読者もいるだろう。しかし、東北で突然死した兄の部屋の写真を山ほど撮影した女に今さら何を? これを残さねば夫は私を信じてくれない。これを記録せずして、私は7年という月日をなんのために介護に費やしてきたのか!

 撮影を済ませると、私は気絶したフリをし続ける義父に声もかけずに居室を出た。クッキーは義父の足元に(投げて)置いてきた。真っ直ぐ出口へと向かう私に、職員の皆さんは気を遣って「ご苦労様です…」と声をかけてくれた。

 その日の晩に夫が帰宅すると、私は急いで事件概要を説明した。夫が「まさか〜」と言い、本気で取り合わなかったために、義父の号泣写真を見せた。夫はひと言、「消して」と言った。

 「私はもう二度と面会に行かないと思う」と言うと、夫は「もちろん、行かなくていい」と答えた。だから私は去年のクリスマスイブを最後に、義父には会っていない。義父には強く生きていってほしいと思っている。大丈夫だ、グループホームに入居してからというもの、義父は太り、ぴかぴかになって、健康状態はこれ以上ないほど良好で100歳も夢ではない。数日前に面会に行った夫が撮影した義父は、満面の笑みでスイーツを食べていた。あとは私が自分の好奇心に負けないことを祈るばかりだ。

 最後に義母だが、実は年末も押し迫る12月30日、救急車で総合病院まで搬送された。一週間程度の入院を経て退院し、グループホームに戻ったが、体重はますます減ってしまっている。私は搬送された直後に病院に行って状況を確認したし、面会にも行ったが、あれだけ健康で運動神経もよく、活発だった義母が静かにベッドに横たわる姿を見るのは辛かった。

 義母は今まで何十年にもわたって、義父のキャリアや生活を支えるために専業主婦として努力し続けた。何もしなくていい時間を楽しめるはずとグループホームへ送り出したものの、健康問題は次々に発生している。それが残念で仕方がない。義母が一日でも長く、健康で朗らかな日々を過ごせるよう、心から祈っている。 

義父母の介護

2024/07/18発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
 「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
 どうして自分が「考える人」なんだろう―。
 手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
 それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥


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