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お坊さんらしく、ない。

「『お坊さんらしく、ない』なんてタイトルだから気楽にやってるんだろうが、もう5回も記事を出したんだから、そろそろ真面目に仏教のことを書いたらどうだ」

 最近こういうことを言ってきたのは古くからの知人である。

 冗談ではない! 私は最初から真面目に仏教の話を書いている。タイトルは編集の人が付けたのであって、さすがにこれは何だかナァと、今でもちょっと思っている!

 知人の言い分は常の如く笑いまじりの揶揄なのだが、私は同じようなことを過去に二度、真顔で言われたことがある。いずれも大学で講演したときである。

 一通り話し終えて、「お疲れさまでした」と、接待役に先導されて奥に行くと、立派な応接間に通され、学長だか総長だか、そういう偉い人ともう一人、理事長を名乗る紳士が待っていた。

 挨拶もそこそこに、二人は深々とソファに沈んで、大きい声で口々に、

 「いやあ、大変結構なご講演でした!」

 などと言った直後、二人ともまるで判で押したかの如く、「大変すばらしいお話でしたが、そのお、仏教のお話はしなくてよろしいのですか?」。

 思うに、学校の先生とか坊さんとか、人前で話をすることが役目の人たちというのは、何を話すのか事前に決めて、それをテーマにしゃべることを習いとしているだろう。そのテーマも、長年自分が専門としてきた事柄がほとんどに違いない。

 彼らは、アカデミックな学問なり、宗派の教義なり、すでに出来上がった体系を前提に研鑽しているわけだ。

 ところが、私にはそういうものがない。素晴らしい教えを信仰していて、その素晴らしさを伝えたいとか、この学問が明らかにしている真理を広めたいなどというスタンスではない。

 私には宿痾のごとく自分の中に巣食っている問題があり、敢えて言えばそれを扱うための道具が仏教なのだ。

「君は仏教で自分語りをした草分けだね」

 私の著書を読んだ人から言われたこの一言が、おそらく正鵠を射ている。

 ご存じの読者もおられようが、私は3歳のときにアレルギー性の小児喘息を発症し、専門医もいない当時、著しく悪化させてしまった。そのせいで、己れの記憶の最初から、絶息状態の言語道断の苦しさに、恒常的に襲われることになってしまった。

 この経験が以後の自意識に深刻な影響を残したのは、実に致し方のないところで、学齢に達する前には、すでに生涯自分を拘束する問題は形になっていた。

 死ぬとはどういうことか――。

 これは死んだらどうなる、などと悠長な話ではない。当時から私にとっての死は、「先々の出来事」ではなく、「死んだ後」を考える余裕のある問題でもなかった。

 私の「死」は絶息のすぐ次に来るはずの事態であり、それはいつ起こるのかもわからない脅威であった。

「死」は私の「先」にではなく、「中」にあった。「先」で待つものではなく、「中」で次第に育って、いつか破裂する爆弾のようなものだった。

 そして、爆弾の正体は絶対にわからないことも、10歳の時、祖父の死体を見て悟った。他人の死は死体であって死ではない。自分の死以外は死ではない。その自分の死を経験する自分はいない。それでも、そうであっても、死とは何か、死の意味とは何か、考えずにはいられない。

 この絶対に正体のわからない爆弾が自分の中にあるという感覚を持ってしまったら、今度はその「自分」の存在に確信を持てなくなるのは当然の成り行きである。

 そもそも、喘息の発作で自意識がバラバラに崩壊するような感覚を味わっているのだから、理屈以前に、感覚として「自分」が脆い。その上、必ず起こる死という一大事の何たるかがわからず、それがわからないと今度は、なぜ死ぬように生まれてくるんだろうと、考えが反対に飛ぶ。その両方がわからないとなると、自分が自分であることは、到底当たり前の話ではなくなる。

 幼児期には感覚としてあった不安が、思春期には理屈になって固まり、もうどうにもならんと切羽詰まったとき、私は「諸行無常」の語を見た。

 中学の国語教科書にあった『平家物語』にこの言葉はあった。

「無常」。私の感覚と思考を丸ごと言い当てる言葉だった。あの不安と脅威。自意識が崩壊する、あらゆる存在が地滑りするような感覚。

 私にとっては「鐘の声」だの「響きあり」だのという悠長な話ではなかった。桜が散る様を見て、「儚いなあ」などと独りごちる暢気な感傷でもなかった。「儚い」と言うオマエが儚いと言っているのである。

「無常」は、この言葉を知った最初から、教義の言葉ではなく、自分の経験を直接語る言葉だった。となれば、「無常」について考えることが、教義に限定されるはずがない。よりリアルに、より身に引き付けて語るにはどうするかを考え続けることになる。

 その後すぐに覚えた「無我」という言葉も同じである。これを「我儘を言うな」「我を張るな」などのような処世訓にして、他人に説教するようなことは、土台、私にはできなかった。「我」が常に同一でそれ自体として存在するもの(実体)を意味すると知ったとき、それは「自分がいる」という感覚に確信の持てない私自身のことにしか思えなかったのである。

 幼児期の不安は、中学を出るころには、3歳の自分と今の自分が同じ自分であることを証明する術はないという理屈になっていた。死ぬのに死がわからず、生まれて来るのに理由がわからない。両端の意味が不明なのに中間に意味があるはずもない……というようなこじれたアイデアを、すべて「無我」のひと言に詰め込んだ。

「縁起」というアイデアも、物事にはすべて原因がある、などという誰でも使う思考法でもないし、夫がいるから妻がいる、妻がいるから夫がいる、全ては繋がっているから、みんなお互い様で仲良くね、とでも言いたげな道徳噺でもない。

 自分が自分である根拠は、自分以外にある。自分は自分でないものから生起する。自分は自分に成りたくて成ったのではない。自分にさせられたのだ。茶碗は茶碗であるべくしてそこにあるのではない。自分が茶を飲むとき、その物体は初めて茶碗になるのだ。それが、私にとっての「縁起」の意味であった。

 このような性向を有する坊さんが話をする時、どこかで聞いたような説教を素直にできるわけがない。しかし、している話は、仏教に出会えなかったら、他人が聞くだけの意味ある話には決してならなかった。おそらくこの際どさが、本人が大真面目に仏教の話をしているつもりなのに、他人にそう聞こえない所以かもしれない。

 私が話をすると、何度も言われることがもう一つある。 

「落研出身でしょう?」

「落語、やってたんですか?」

 ある人に招待されて、いつもの通り作務衣で(頭も剃りたて)寿司屋に行き、楽しく歓談していたら、カウンターの「大将」から

「え? ソチラ、坊さん? 落語家じゃないの?」と言われたこともある。

 父親がその昔言った。

「他人の自慢話は誰も聞きたくないだろ? 苦労話は自慢話と同じだ。どうしてもしなければならない時は、笑い話にして言え」

 坊さんらしくない話が多いのは、この教訓のせいも、あるかもしれない。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

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金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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