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お坊さんらしく、ない。

2022年1月10日 お坊さんらしく、ない。

九、「親ガチャ」をゆるせないか

著者: 南直哉

「親ガチャって、知ってるか?」

 と知人が言った。

「よく知らんがオモチャだろ」

 確か、お金を入れて、ハンドルを回すとオモチャが出てくる遊びで、街のところどころで見かける。

「それはガチャガチャだ。それに親がつく」

「親って…、あ!」

「わかったか。金を入れてハンドルを回しても、何がでてくるかわからんように、親は選べないという意味さ。つまりは、お前が小難しい理屈で言ってることを、ガチャ一発で片づけるんだよ」

 ショック! 「自分であることの無根拠さ」とか「他者に課された自己」などと、長らく考えに考えてきたことが、ガチャ一発!? つまりは、「諸行無常」「諸法無我」も「親ガチャ」か!!

「常」であるとは、「常に同じ」であることを意味する。それは要するに「常に同じ何かがある」ということになる。

 この「常に同じ何か」を「我」という。仏教のアイデアは、そのような「常」と「我」を否定するのだ。

 これを自分自身に当てはめて言うなら、「自分が自分であることを保証する確かなものは何も無い」という話になる。そして、このことを突き詰めていくと露わになる、最も根源的な事実は、「自分がその人を親として生まれてきたことに、さらに言えば、そのような自分として生まれて来たことに、何の理由も根拠も無い」ということである。即ち、我々の存在の究極にあるのは、「親ガチャ」という無常なのだ。

「草食系」「悟り世代」という言葉が出てきた時にも、実際「出家遁世」みたいだなァとは思ったが、それは個人の生き方の内で、選択肢の一つに過ぎないから、私は特に気にも留めなかった。

 が、しかし、「親ガチャ」は違う。これは最早どうしようもない酷薄な現実のことである。その「酷薄な現実」が、「親ガチャ」などという「軽い」(63歳にはそう思える)言葉で言われてしまうことに、それこそ軽くない衝撃を受けるわけである。

 このような言葉で言い表せられ、それがSNSで流通し、メディアにも扱われているとなると、「親ガチャ」が意味する切なさは、かなり広汎に、特に若い世代に共有されているわけだろう。それは社会的・経済的格差が露わになってきた昨今の状況から、なるほど(むべ)なることかなと思う。

 ただ、それにしても、これは単純に「親」、すなわち自分が生まれた家庭環境の「当たり外れ」だけの話なのだろうか。たとえば、恵まれた環境に生まれ育った者は、この「親ガチャ」という言葉には関心が無く、リアルに感じないのだろうか。あるいは、中高年には若者の戯言に過ぎないのだろうか。

 必ずしもそうではないだろうと、私は思う。自分の意志でも責任でもない苦境に突然投げ込まれる。しかもその苦境が個人の力ではいかんともし難いという事態は、誰にでもあるし、あり得る。「親ガチャ」という言葉は、実はここまで響いてくる。それなら、まさに「無常」「無我」という仏教の教えに通底するだろう。

 しかし、仏教にはもう一つ、重要な教えがある。「縁起」である。私たちは、他者との関係においてしか自分であり得ない。

 私は思う。確かに親は選べない。ガチャそのものである。しかし、それが遊びとして成り立つのは、「外れ」を受け容れる前提があるからだ。

 ならば、あえて「ガチャ」と言うなら、選べなかった親を、と言うより選べない事実を、赦せないか。恨んで当然の親と環境を、いつか、なんとか、赦すことはできないか。おそらく、自立とは、大人になるということは、それが赦せた時から始まるのだ。

 そして、自分でどうしようもない苦しさで身動きできないとき、人を頼る勇気が持てないか。

 我々は自分を自分で始めたのではない。そこに根拠も無い代わりに、責任も無いのだ。

 私が縁起の教えに学んで痛切に思うのは、我々が問答無用、宿命的に他者との関係にある以上、すべての責任を背負う理由はなにもない、ということである。

 自分でできることは、もう自分でやっている。それが大人のプライドというものだろう。  

 しかし、できる範囲を超えた時、「自己を課した他者」(「親」ばかりのことではない)に助けを求めるのは当然のことで、何ら恥じ入ることではない。そこに責任があるのは、他者なのだ。そして、立場が逆転し、自分が助けを求められたときに、何かできることをするのが、もう一つの大人のプライドというものだろう。

 思いも寄らない苦境に陥った人々に対しても、「自己責任」や「自己決定」を言い募る、イイ歳をした大馬鹿者がいる。彼らの頭の中身は、昂進する自意識にのぼせた思春期の連中と変わらない。要するに、こちらは単に歳を重ねただけで、まだ「大人」になっていないのだ。

 幼児は他人に頼ることしかできない。それが少し育つと、何でも自分でしたいと思うし、できると思う。この「できる」が挫折して、妥協の苦さを思い知る時から、「大人」が始まる。が、「妥協」を「迎合」に誤解していては、大人になれない。妥協の要諦は自分の限界を知ることである。限界を知り、その限界から他者に向かって、自らもう一度関係を作り直そうとするとき、そこに大人がいるのである。となれば、実は大人と年齢には大した関係がないだろう。

「仏教では自業自得と言うじゃないか」と突っ込まれるかもしれないが、この話は「自業」を、つまり自分の在り方を、どこまで深く自覚するかにかかっている。これを簡単に他人に向けて言う人は、私の経験ではほぼ例外なく、「業」の自覚が絶望的に浅い。ということは、大した「自得」もない。その上、他人の「行い(業)」を云々することに傍若無人なほど熱心である。他人を簡単に責めるのは、未熟な者の最もわかりやすい特徴の一つだ。

 私は、もの心つき始めた幼少期から、ただの一度も大人になりたいと思ったことはないし、なるべきだと思ったこともない。そうならざるを得なかったに過ぎないし、単に仕方なかったのだ。ただ、「仕方がないことは仕方がない」と覚悟しなければならないと思った時期は、おそらく人より早かった。私が「マセている」と、よく言われたゆえんだろう。

 結局、「マセた子供」が出家したのは、そうでもしなければ、「大人」になれなかったからかもしれない。

「ところで、『無理ゲー』って、知ってるか?」

 私は即答した。

「聞いたことはある。仏教で言えば、『一切皆苦』だな」

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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