この連載では、かなりの割合で竹内薫の個人的な体験を綴っているが、暗記型・探究型の話でも、自分の体験をざっくり振り返ってみたい。

 子どもの頃、私はどちらかというと探究型の人生を歩んでいたように思う。当時、東京のはずれにあった町田に引っ越して、家のまわりには田んぼと桑畑しかなかった。子どもたちは、毎日、原っぱで三角ベースに興じていた。バットやグローブもないので、ふにゃふにゃのゴムボールを投げて、掌で打ち返す。打ったボールも遠くに飛ぶことがないから、ベースも三角形の配置で事足りる。何から何まで、創意工夫で遊んでいた。
 私の母方の家はちょっとした名門(?)だったらしく、妹は、母親の実家がある鎌倉の近くの湘南白百合学園というハイソな幼稚園に通っていたが、私は、地元のきそ幼稚園から町田第三小学校に通わされた。
 父親は朝早くから会社に出かけ、帰りはいつも午前様だったし、母親と妹も朝早くから鎌倉方面に出かけ、帰りは夕方だった。自宅は、父方の祖母と私の家族との二世帯住宅だったから、私はいつも、離れの祖母のところにランドセルを置くと、そのまま飛び出して、近所の友達と暗くなるまで遊んでいた。
 私は、田んぼで大量のザリガニを捕ってきて、離れで飼っていた。夏になれば、カブトムシやクワガタを含む、これまた大量の虫を捕まえてきた。図鑑で調べて、カブトムシを長生きさせるにはどうすればいいかを調べたりして、工夫して飼っていたものの、あまりうまくいかず、死んでしまう。死んだら、かわいそうだから、家の庭に小さなお墓を作って埋葬してやった。
 小学校へ行く途中の道はダンプカーが爆走していて、道路の端に避けたはずみで側溝に落ちて、太ももを何針も縫うような目にも遭った。この道路は非常に危険で、あるとき、集団登下校のリーダー格の少年が(登下校とは関係ないときに)クルマにはねられて亡くなった。その詳細は、子どもたちには知らされなかったが、赤いスポーツカーにはねられて、頭が割れて脳ミソが外に出てしまった、というような話が噂されていた。クルマにぶつかったとき、彼は痛かっただろうか、悲しかっただろうか。人が死ぬと魂は天国に行くのか。それなら天国はどこにあるのか…幼いながらに、必死に答えを考え続けていた覚えがある。
 子どもの頃の私は、家庭的には、ほとんど放置状態で、乱開発で自然がなくなりつつある田舎の片隅で、勝手に遊んで勝手に探究していた。図鑑を調べたり、森や林を探索したり、大人に聞いたりしながら、必要なことを学んでいった。誰かが用意してくれたものではなく、身近な体験から始まり、いろいろなことを理解していった。生き物の命の仕組みや命の大切さも学んだ。大きな怪我を体験したり、同じ年頃の子どもの死を見て、自分の命にかかわるであろうリスクについても学んだ。
 そんな私が暗記型になったのは、小学校の3年生くらいからだと思う。先生は、ひたすら教科書(もしくは、あんちょこ)を黒板に写し、生徒たちは、ひたすら黒板を写す。あるいは、掛け算の九九を暗誦させられる。
 掛け算の九九は、暗誦する以外に、探究してから覚える方法もある。実際、私の理数系の友人には、驚くべきことに、九の段から理解していった人もいる。「くいちがく」なのは、10に一つ足りないから。「くにじゅうはち」は、20に二つ足りないから。「くさんにじゅうしち」は、30に三つ足りないから。そうやって、理由を探究しながら進んでいったので、九の段から覚えてしまったという。そして、掛け算は順番を交換しても良いことに気づいてからは、余計なものは覚えなくなった。だから、この人は「さんくにじゅうしち」は(今でも)覚えていない。頭の中で、「さんく…くさんにじゅうしち」と、九の段に変換してしまうのだ。彼は、物理学で博士号を取得し、理化学研究所や米ソーク研究所等で研究していたので、おそらく頭は悪くない(それどころか、相当良いはずだ)。
 私はこの友人ほど徹底して掛け算を探究することはなかったが、「くさんにじゅうしち」は覚えていない。今でも「さんくにじゅうしち」と、頭の中で変換している。おそらく、私のように、八の段や九の段はほとんど覚えておらず、低い段に変換している理数系の人は、かなり多いはずだ。変換するのも、探究の結果である。
 誰もが暗記するのがあたりまえと思っている掛け算の九九でさえ、程度の差こそあれ、探究学習が可能なわけだ。暗誦した人は、ヘリコプターで掛け算の九九の頂きに着陸した。私は登山道を登って頂きに立った。そして、私の友人は、獣道を登って頂きに辿り着いたのだと思う。
 日本の小学校は基本的に暗記型なので、私の思考も、ひたすら教科書を暗記する方向に傾いたが、小学3年の中頃、いきなり父親の転勤でニューヨークに連れて行かれ、現地校に転入させられた。当時はまだ第二次世界大戦終結から20年余り。アメリカと日本の経済格差は、先進国と途上国のような関係だった。ニューヨーク全体で日本人が千人くらいしかおらず、私が転入した小学校に、日本人の子どもは、わずか3名。
 この学校はふつうの公立小学校だったが、授業は徹底的に探究型であった。教科書はあるが、分厚く、誰かの使い古しで、自宅には持ち帰らない。だから、教科書を暗記する必要がないし、しようと思ってもできないシステムだった。教科書は探究の道具の一つでしかない。
 探究型の授業では、生徒がグループになって歴史や理科や経済について調べ、学校外のエキスパートにインタビューを敢行し、レポートにまとめ、最後にみんなの前でプレゼンをする。子どもが遊びながら探究するのと同じように、まさにからだ全体で体験し、その体験を発表という形でアウトプットするのだ。
 この学校は都会のど真ん中にあり、自然はほとんどなかった。あるとき、コンクリートの校庭にカマキリが一匹迷い込んできて、子どもたちが遠巻きにして見守っていた。私が何の気なしに、「あれ、カマキリじゃん」と指でつまんでみせたら、いきなり子どもたちの拍手喝采となって驚いた。授業は徹底的に探究型だったが、ニューヨークの小学校には、原体験のためのアウトドアの要素が欠けていたようだ。(この項続く)