長きに亘ったこの連載もいよいよ最後である。まとめに入るとしよう。
いまさらだが、そもそもコンピュータ・プログラムとは「何」なのか。その本質に迫ってみたい。
端から見ていると、小学校1、2年生のプログラミングの授業では、子どもたちがタブレットの画面上でブロックをつなげて遊んでいるようにしか見えない。たとえば、ゲームの主人公をジャンプさせるには、↑という記号が描かれた命令ブロックを1個用意すればよい。ジャンプしてから3歩だけ歩くなら↑→3というような具合だ。もっと複雑な命令ブロックもあるので、たくさんつなげると、たいていのことはできてしまう。
小学校3年生くらいになると、子どもたちはホンモノのソフト・エンジニアや物理学者たちが書いているような、意味不明の英文でコーディングを始める。その結果は、あっと驚くようなコンピュータ・グラフィックスであったり、物理的なロボットの駆動であったり、3Dプリンターを駆使した芸術的な造形だったりする。
ブロックと文字によるコードが同じ機能を果たしていることは、薄々わかると思うが、いったいそれらの正体は何なのか。
答えは単純だ。正体は「数式」なのである。もちろん、必要充分条件とか三段論法とか真偽というような「論理」も含めての数式だ。コンピュータは日本語では「計算機」であり、もともと数字を扱うのだから、命令ブロックや命令文が数式であることはあたりまえといえばあたりまえだが、ともすれば数学とプログラミングを別物と考えてしまいがちだ。
いま、あえて「数式」と書いたが、見方によっては、コンピュータ・プログラムは「関数」の羅列だと解釈してもかまわない。私が子どもたちにプログラミングを教えるときには、たとえば二次関数を使って、こんなふうに説明をしていく(以下、関数を函数と表記。むかしの数学の教科書では実際に「函」が使われていた)。
「いいか、たとえば、x^2−4x+4を函数という」
「かんすうってナニー? xってどんなイミー?」
「函数の函は函館の『ハコ』。xはちっちゃなハコなんだよ。このハコに数字を入れると、別の数字が出てくる。魔法のハコだね。レイナ、ちょっとハコに数字を入れてみてよ」
「うーんと、ハコに1を入れると、1×1−4×1+4=1!」
「そう、ハコ……xに1を入れると1が出てくるね。じゃあ、リト、xに2を入れたら何が出てくる?」
「ゼロ!」
「そうだ。これはハコの数だから函数って呼んで、まとめてf(x)=x^2−4x+4と書く」
「じゃあ、ショータ、f(3)は?」
「えーと、9−12+4=1!」
「そうだ。じゃあ、この函数をプログラムで書いてみようか」
ウチの学校では、算数も徐々にプロジェクトとして教えていくため、小学校低学年でも2乗やマイナスを普通に使ってしまう。
この考えをさらに広げてみよう。「スイッチを押すと、主人公がジャンプして新たな座標に移る」。そんなゲームの画面の動きも、スイッチのオンが数字の1、新たな座標がx=25、y=50だとすると、1が入って25と50という数字が出てくるのだから、やはり函数なのだ。画像解析プログラムも、音声認識プログラムも、広告視聴率予測プログラムも、数字が入ると数字が出てくるのだから、すべて函数とみなすことができる。
巷ではプログラミング塾が増え続けており、子どもたちが楽しく遊んでいるが、数学という本質を忘れてしまうと塾に通わせる意味が半減してしまう。遊園地でサバイバルを疑似体験することと実際にアウトドア世界で生き延びることが違うように、数学という観点のないプログラミングは、あくまでもお遊戯でしかない。AI時代に必要なプログラミング技能の鍵は「数学」だ。遊園地で遊ぶことも大切だが、長期的に「生き残る」ことが目的なのであれば、「数学としてのプログラミング」を学ぶ必要がある。
読者諸氏のお子さん、お孫さんは、はたして生き残るための数学プログラミングを学んでいるだろうか。
AI時代の新入社員たちと、どう付き合うか
AI時代が到来し、プログラミングとの付き合い方も大きく変わろうとしている。
これまでビジネスの場面では、ワードやエクセルが使いこなせる程度のコンピュータ・リテラシーが必須とされてきた。それ以上のレベルになると、専門のWEBデザイナーやソフト・エンジニア(SE)の仕事とされ、「一般人」が立ち入るべきではない聖域と考えられてきた。
だが、社会は急速に進化している。世界中で始まっている教育改革では、大人になるまでにワードやエクセルが使いこなせる程度のコンピュータ・リテラシーを目標とはしていない。エクセルのマクロをすらすらと書きこなすどころか、複数のコンピュータ・プログラミング言語を「ネイティヴ」として使いこなし、IoTの浸透に伴うさまざまなセキュリティ上のリスクを回避できるようなリテラシーが求められている。
そのような高度なプログラミング教育を受けたネイティヴたちが社会に出るのは、これから十数年後だ(日本は決定的に教育改革が遅れているので、二十年後だ……)。その頃までに、AIとロボットが社会で活躍するようになり、仕事の半分は人間の手から離れているだろう。
ビジネスマン諸氏は、かなり難しい状況に追い込まれているかもしれない。経営者は合理的な判断をするから、コストの安いAIに仕事をやらせて、人件費を浮かそうとするはずだ。でないと企業同士の競争に負けてしまう。気がつくと、同僚の半数が職場から消えている。そして、およそ「人類」とは思えないようなコンピュータ・ウィズ(コンピュータの魔法使い)たちが、新入社員としてあなたの部署に配属されて来るのだ。
あなたが、彼女ら・彼らに尊敬されるような魔法使いの「長老」であれば問題はない。あなたのプログラミング・スキルは、彼女ら・彼らからすれば「古代」のものかもしれないが、われわれが古代の賢人を敬うように、彼女ら・彼らもあなたのことを邪険にはしないだろう。
だが、あなたが高度なコンピュータ技能とは無縁だった場合、何を考えているかわからない魔法使いたちと、どう付き合えばいいのか。いまから必死にプログラミングと高等数学を勉強すべきなのか。いや、おそらく答えは真逆だ。ネイティヴの魔法使いたちに対抗しようなんて、考えちゃだめだ。そうではなく、人間同士の高度なコミュニケーション術で、彼女ら・彼らと「対等」に渡り合うことを考えるべきだ。
AIもプログラミングも人間のために使われる道具にすぎない。その道具を易々と使いこなす魔法使いたちは、強力な武器を持っている。だが、どんな魔法使いにも弱点はある。仕事柄、私は無数のコンピュータ・ウィズ、数学ウィズを見てきたが、彼女ら・彼らの多くは、人間コミュニケーションが苦手なのだ。年がら年中パソコンとばかり付き合っているのだから、無理もない。だとしたら、その対極にいて、パソコンとはうまく付き合えないが、人間関係においては、心の奥底にまで気配りが利いて、「理想の上司」といわれるような存在、すなわち「ヒューマン・ウィズ」になればいいのである。
AI時代の生き残り策が人間力にあるというのは、逆説的ではある。だが、あらゆる物事にはバランスが必要だ。未来においても、AI一辺倒で社会がひっくり返らないよう、誰かがバランスを取る必要がある。
いま私がやろうとしていること
いま私がやろうとしているプロジェクトがある。それは、13万人を超える小中学校の不登校児とその親のための「居場所」作りだ。
なぜ、これほど大量の人々が学校に通わなく(あるいは、通えなく)なってしまったのか。いじめや価値観の多様化など、さまざまな原因があるだろうが、その一つは「既存の学校がAI時代に生き残るための教育を与えてくれないから」であろう。実際、私の娘は既存の学校に通っておらず、統計上は「不登校」なわけだが、国語も英語も数学=プログラミングも、既存の学校を凌駕する教育を授かっている。
「不」登校という言葉には「登校できていない」というニュアンスがあるが、既存の学校が時代遅れになってしまっている今、もはや「不」適切な言葉になってしまっている。
既存の学校にも通わず、自分でも何も勉強しないというのでは、たしかに社会で生き抜く力を培うことはできない。だが、既存の学校に通わなくとも、未来を見据えた教育を受け続けるのであれば何も問題はないはずだ。
そうやって開き直って、親が自分の子どもにAI時代の教育を授けるのが「ホームスクール」であり、既存の学校に行きつつ、年間30日程度を学校外で教育するのが「ハイブリッドスクール」だ。すでに教育改革が進んでいる欧米の国々では、政府が助成金まで出して、公教育として認めている仕組みだ。
日本は、150年前に導入された教育システムから政府も国会も脱却できていない。だから、ホームスクーラーが安心して情報交換でき、教育のレベルが担保できているかをチェック・アドバイスしてくれるような民間の拠点が必要だ(いわゆるアンブレラ校=傘のようにホームスクーラーを守る居場所)。
前にこの連載で書いたプロジェクト学習について、私は、ホンモノのプロジェクトは社会にあると考えている。私が本を書く場合、編集者と二人三脚で原稿を仕上げ、校閲の人がチェックしてくれ、最終的に本の形となって、本屋さんで販売されるまでが一つのプロジェクトだ。あるいは、指揮者が楽団と一緒にリハーサルを重ね、コンサートで観客の拍手喝采を浴びるのもプロジェクトだ。会社の業務の多くもプロジェクトである。社会で仕事をしているプロフェッショナルたちは、常にプロジェクトを遂行しているのだ。
不登校・ホームスクール・ハイブリッドスクールの親子のために、一線で活躍しているプロフェッショナルを招聘し、プロジェクト学習をやってもらう。私が作ろうとしている「居場所」から、AI時代を支える人材が巣立つ。それが私の夢だ。
無論、政府の助成金など存在しないから、傘の下に集ってくれるホームスクーラーからの会費と、クラウドファンディングで集める寄付で運営していくしかない。
かつて、自分が不登校で苦しんだから、そして、AI時代を見据えたこの国の人材育成が遅々として進まない現状を打破したいから、私は、このドンキホーテ的な非営利プロジェクトを推進している。
この連載を読んでくださった読者には、日本の現状と、私の強い危機感が少しは伝わったであろうか。そうであれば、15年後、あなたは職場で必ずや生き残っているはずだ。そして、あなたのお子さんやお孫さんもAIと共存しながら幸せな人生を送っているにちがいない。
第四次産業革命を脅威ではなくチャンスととらえ、明るい未来を皆で作っていこうではありませんか!
(おわり)
※ご愛読ありがとうございました。本連載をまとめた本を、新潮社から刊行予定です。
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竹内薫
たけうちかおる サイエンス作家。1960年、東京生まれ。東京大学教養学部、同理学部を卒業、カナダ・マギル大で物理を専攻、理学博士に。『99・9%は仮説』『文系のための理数センス養成講座』『わが子をAIの奴隷にしないために』など著書多数。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 竹内薫
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たけうちかおる サイエンス作家。1960年、東京生まれ。東京大学教養学部、同理学部を卒業、カナダ・マギル大で物理を専攻、理学博士に。『99・9%は仮説』『文系のための理数センス養成講座』『わが子をAIの奴隷にしないために』など著書多数。
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