小学校5年のとき、父親が東京に呼び戻され、私は日本の小学校に転入し、そこからふたたび暗記型の授業が始まった。アメリカの探究学習は楽しかった。知識と知識が有機的につながり、みんなに発表して喜ばれる。それは、充実感へとつながる。一方、暗記学習は辛い。断片的な知識だけが増えてゆく。焦燥感に駆られ、私はいきなり不登校になった。
 だが、たまたま、担任の先生が東北大学理学部生物学科出身の先生で、主に理科の授業で、探究型の授業をしてくれた。漢字レベルが小学3年で止まっていた私は学年で成績がビリだったが、先生が地域の科学教室に入れてくれ、私はそこでも、理科のさまざまな実験、つまりは探究学習ができることになった。不登校は徐々に解消され、私は教科書での暗記学習と、理科の探究学習の「ハイブリッド」環境で勉強を続けることとなった。
 まあ、こんな話を延々と書いても無駄だと思うのでそろそろ終わりにするが、高校受験も大学受験も私は暗記型の勉強で乗り切った。英語はアメリカ滞在が利いて日本語7、英語3くらいのバイリンガルなのだが、日本の受験英語は生きた英語とは無関係の代物なので、ひたすら「試験に出る英単語」を丸暗記した(笑)。

 自身の体験から、私は、なぜ暗記型が辛く、探究型が楽しいのかを理解するようになった。探究は、子どもの頃の「遊び」の延長なのだ。仔猫もライオンの仔も、遊びながら狩のやり方を覚えるわけだが、人間の子どもも話は同じ。本来、知的な生き物は、遊びを通じて、生きるためのスキルを身につけていくものなのだ。
 だが、いつのまにか人間は、複雑化した社会の仕組みに(から)め捕られてしまい、先人が見出した成功パターンを効率よく暗記する方向へと走るようになった。探究は「遊び」だから無駄だと斬り捨て、先人が探究の末に辿り着いた「結果」だけを暗記するようになってしまった。
 AI時代の到来とともに、ふたたび「遊ばないと生きていけなくなる」とは、なんとも皮肉な話ではあるが、それは、人類にとっての一種の原点回帰なのかもしれない。

暗記か探究か、それが問題だ

 私の場合、暗記型と探究型が人生で交互にやってきたせいか、いまでは、双方の利点を理解するようになった。暗記した知識は、当初はバラバラかもしれないが、探究することで、バラバラな知識の間に有機的なつながりがあることを発見する。探究は、知識と知識をくっつけて強靱なネットワークを形成するための「接着剤」なのだ。知識は部品にすぎず、無数の部品を組み立てあげて精巧なマシンに仕上げるために探究プロセスが必要だ。
 暗記学習だけでは、せっかく覚えた知識を活用することができない(クイズ王にはなれるかもしれないが!)。クイズ王ではなく頭脳王になるためには、知識の間の「関係性」に気づく必要があり、そのためには、自ら探究しなくてはならない。
 社会に出てから、それまでの受験に特化した暗記型の生き方では通用しないことに気づいて、自ら工夫を始める人も多い。「仕事ができる」人は、マニュアル人間に陥らないように、常に探究し続けている。
 暗記型で知識をためこんでから、探究によって、その知識を何倍、何十倍、何百倍にも活用することは充分に可能なのだ。
 ここで一つの疑問が生まれる。最初から暗記を排し、探究型の授業だけで子どもを育てたらどうなるだろうか。充分な知識がない状態で探究を続けることに意味はあるのか。

 くりかえしになるが、掛け算の九九の例は参考になるだろう。掛け算の順番を替えてもいいことや、結果の数(4、9、64、81などなど)には「欠番」があり、それらは掛け算であらわすことができない「素数」と呼ばれる特殊な数であること…先生の工夫次第では、九九の表には、さまざまな数学の驚きが隠されている。私の友人の物理学者の場合、九九を暗記する前に、自分で勝手に九の段から探究を始めてしまい、法則を発見した。そして、探究を続けた結果、九九の表は半分だけ覚えることになったが、その半分は、私が覚えている半分とは逆だった(私は「さんくにじゅうしち」、彼は「くさんにじゅうしち」だけを覚えている)。探究とは、きわめて個人的な知の旅であり、決まったパターンなどない。個々の脳が、知的好奇心に駆られて突き進むのであり、先生は、ちょっぴり手助けをするだけでいい。
 私の友人の物理学者は天才肌である。だから、彼には、学校が暗記を押し付けるのは逆効果だったであろうし、先生がちょっと助けただけで、彼はどんどん探究を続けてゆき、知識も雪だるま式に増えていった。
 私は彼とは違って凡人だ。我慢強く集中するだけが取り柄で、知能指数が格段に高いわけでもない。私みたいに真面目にコツコツ勉強するタイプの人間は、暗記で知識を蓄えた後に、その知識の間に「橋をかける」ようなイメージで探究をした方が効率がよいように感じる。いきなりゼロから「探究せよ」と放置されたら、ちょっぴり困ってしまう。
 最近、7歳になる娘がせがむので、就寝前の10分ほど、「偉い人の伝記」という本を読んで聞かせている。そこに登場する、アインシュタインやライト兄弟のような天才たちは、幼少時からひたすら探究型の人生を歩んで成功を勝ち取ったように見える。おそらく、天才には、探究型が向いているのだと思う。
 だが、探究だけでぐいぐい前に進める人ばかりとは限らない。私は、自身の体験から、暗記と探究のハイブリッドで人生を切り拓くのも悪くないと考えている。
 ともかく、お店やお役所の窓口で、かなり頻繁に出くわす「マニュアル人間」みたいにならないように気をつけるべきだ。彼らは究極の暗記型であり、すでにAIに淘汰され始めている。いまからでも遅くはない。時代に取り残されないよう、探究し始めようではないか。