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私、元タカラジェンヌです。

2022年7月8日 私、元タカラジェンヌです。

第7回 中原由貴(煌月爽矢)(後篇) 単身、台湾へ――自分だけの挑戦が私を前に進ませる

著者: 早花まこ

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噂の「Yバレエカンパニー」

 私が宝塚に在団していた時、月組には謎めいたバレエ団があるという噂が、まことしやかに囁かれていた。組の中にバレエ団とは、どういうこと!? 噂の「Yバレエカンパニー」を設立した人こそ、中原由貴さんだった。

 宝塚の舞台では、宮廷の貴族役などの衣装で白いタイツを着用することがある。その姿をクラシックバレエの男性舞踊手に見立てた中原さんは、「バレエの公演をやろう」と同期生の男役に提案した。

 「そんな私に対して『いいよ、やろうやろう』って、すぐに賛成してくれる同期生…とんでもなく優しいでしょ」

 こうして、映えある「Yバレエカンパニー」が誕生したのだ。92期生の男役たちが、上演中の演目のナンバーなどをクラシックバレエ風に舞う。確かなダンステクニックを礎に、妙な芸術性の高さと爆笑を誘う演出が大評判となり、彼女たちの公演を観られるのはその演目で卒業する人や組替えになる「特別な人」のみにもかかわらず、観覧希望者が殺到した。

 驚くべきことに、中原さんが「Yバレエカンパニー」を設立したのはまだ研2の時、度重なる失敗のせいで叱られ続けていた頃だった。上級生からまだまだ多くの指導を受けている上に、本公演だけでなく新人公演のお稽古もあった時だ。仕事が多忙を極めるなかでのいわば「遊び」だったわけだが、「Yバレエカンパニー」について叱られたことは不思議となかったという。その評判は他組にいた私にも聞こえてきたくらいなので、純粋に笑いを追求し、エンターテイメントとして成立していた中原さんたちの高度なバレエ芸は、月組の上級生にも一目置かれていたのだろう。それに、中原さんはどんな時も、人を楽しませることが大好きな人なのだ。

 幻のバレエ団は、中原さんが卒業するまで、なんと9年間も存続していたという。

「Yバレエカンパニー風」に、というリクエストに即座に応えてくれたお二人。

男役の制約

 多忙であろうとみんなを笑わせることには労力を惜しまなかった中原さんだが、自らの芸事については常に葛藤していた。

 男役として舞台に立つ時、中原さんは常に「やってはいけない」という制約を感じていたという。女性が男役を演じるためには、何年もかけて徹底的に訓練をしなくてはならない。たとえば彼女の場合は男役のメイクをしても、元々の顔立ちもあってか、自然な笑顔ではどうしても女性らしい表情に見えてしまう。そのため、些細な瞬間も常に気が抜けなかったそうだ。舞台では、男性として振る舞うことより「女性らしい自分を消す」という意識を持つことが多かったと、中原さんは振り返る。

 「宝塚の男役をやれることは幸せでしたけど、どう表現するかについては、卒業までずっと研究していました」

 葛藤を抱えるなか、突き詰めてきた「男役」の表現を変えるきっかけとしても、心血を注いだ役としても、中原さんが「忘れがたい」と語る役がある。2012年の「ロミオとジュリエット」で演じた、「愛」の役だ。

 「愛」は女性の姿で「死」の男役と対になり、踊りと動きのみで無形のものを表現する。重要なこの役のオーディションの時、彼女は演出家の小池修一郎先生から衝撃のお言葉を頂いた。

 「煌月は、買い物に行くおばさんです」

 え、どういう意味? 不合格ということ!?とその真意をはかりかねたものの、オーディションには見事合格、中原さんが「愛」を演じることが決定した。

「愛」を表現した日々

 「愛」が表すものは音楽に込められた意味、登場人物の心情、ストーリー展開そのもの…各場面で様々だ。そこで中原さんは、「ジュリエットの恋を見守る」、「人間の弱さを悲しむ」、「死に抗う」など、場面ごとに「愛」が表現するべきテーマを細かく考えた。

 名もない通行人、市民の1人であっても、生い立ちや家族構成から人物像を緻密に考える。そして、同じ場面の出演者みんなで共有する。そういった「役の作り方」を月組の上級生から自然と学んでいた中原さんは、「愛」のようにかたちがなく、抽象的な役でも同じように作ることができた。

 中原さんが持つしなやかさと純粋さ、輝きが存分に生かされた「愛」は、高く評価された。精魂込めた役が多くの反響を呼んだことが嬉しかった反面、「男役ではない、女性的な役柄が好評だった」ことについて、喜びと同じくらいの戸惑いが生まれてもいた。

 「私には、男役よりもっと自然な表現方法が合っているのかも、と思いました」

 「ロミオとジュリエット」ではその新人公演でも、中原さんは観客に強い印象を残している。殺人を犯して自らもロミオに殺される、荒々しく色香に満ちた男・ティボルトは、「煌月爽矢」の新境地だった。そう伝えると、にこりと笑った彼女が、実は…と切り出した。

 「私、どうしても、ロミオをやりたかったんです」

 熱意を持って新人公演のオーディションに臨んだ中原さんだったが、ロミオ役を勝ち取ることはできなかった。

 「本当に、悔しくて。配役発表の日は、お稽古が終わってから深夜3時くらいまで、劇団でずっと泣いていました」

 涙を出し切った彼女は、主役ではなくとも魅力的な大役ティボルトに精一杯取り組もうと決意した。

 「今思えば、ロミオと正反対の役だったからこそ、思い切り演じられたのかもしれません」

 中原さんが演じた若々しいティボルトは、鋭い眼光を効かせた怒りの表情で存在感を示し、それまでの彼女のイメージを覆す役となった。「ロミオを演じる」という願いは叶わなかったが、気持ちを切り替えて努力した先に、思いがけない成果を得たのだ。

「ベルサイユのばら」の伝統を学ぶ

 2013年、中原さんは再び大きなチャンスをつかむ。「ベルサイユのばら」のオスカル役で、2度目の新人公演主演の機会を与えられたのだ。

 宝塚の代表作「ベルサイユのばら」には、1974年の初演時から変わらない「型」がある。台詞の言い回し、所作、舞台メイクや鬘の形…そんな様々な型をしっかりと踏襲した上で、自分の個性も魅力的に見せなくてはならない。今までとは全く違うお稽古のやり方に驚いたものの、宝塚の伝統を肌で感じたという。

 それにオスカルは、1年前に学んだ「愛」の繊細な表現力と、ティボルトを演じて身に付けた熱情の演技が活かせる役でもあった。また、相手役であるアンドレが、同期生の鳳月(ほうづき)(あん)さんだったことも話題を呼んだ。同期生、しかも男役同士で演じる恋人役はどうしても照れてしまうものだが、中原さんは気にならなかったという。

 「すごく忙しいスケジュールで新人公演のお稽古をしていたから、照れてる場合じゃなかったなあ」

 それに、新人公演の出演者全員で作品を作り上げたいという思いが強く、主役2人だけの世界に浸ることは少なかったそうだ。仲間を大切にして共に歩む彼女の、主役としての姿勢が表れているエピソードだ。

 新人公演の主演を終えて充実感と安堵を感じながら、またしても「女性の役を演じた評価が高かった」という葛藤が彼女の心に残った。それでも、新しい作品が始まれば気持ちを切り替え、次の役に向き合った。そうやって試行錯誤を続けた中原さんはいつの間にか、どんな役でも演じ切る強さを身に付けていた。

男役に挑み続けて

 彼女が大きな決断をするきっかけとなったのは2015年に出会った、「1789」という作品だった。お稽古の初日から「1789」の壮大な世界観に魅了され、素晴らしい作品に出演できる喜びに心が躍ったという。その思いは、「宝塚の舞台をやり切った」という満足感に繋がった。そして、男役になってからちょうど10年の節目に、中原さんは宝塚を卒業しようと決心した。

 卒業公演となったのは、宝塚大劇場・東京宝塚劇場公演「舞音-MANON-」「GOLDEN JAZZ」。いつもみんなを笑わせていた中原さんらしく、月組の人たちと過ごす最後の時間は楽しいことばかりだった。東京公演中に誕生日を迎えた中原さんは、彼女に内緒で集まった大勢の下級生に祝福され、嬉し涙が止まらなかったという。

 学年を超えて多くの月組生と心を交わしてきた中原さんにとって一番の寂しさは、仲間との別れだった。だがみんなのあたたかな心に触れるうち「宝塚との関わりは、これで終わりではない」という確信が生まれる。

 音楽学校に入学してから12年間を過ごした宝塚は大切な場所だが、長い人生はまだまだ続く。活動する場所を変えるだけで、大好きな宝塚と仲間を失うわけではないと思えるようになった。

 「だから私、退団者の人が『今までありがとう』って挨拶するところを、いつも『これからも宜しくお願いします』って言って、みんなに笑われていました」

 それは寂しい涙だけではない、前向きな卒業だった。

 憧れ続けた宝塚の男役であることは、中原さんにとって簡単ではなかった。自分自身の努力だけではどうしても乗り越えられないような、大きな壁にもぶつかった。もしも彼女がもっと容易に男役を演じられていたら、もっと早く卒業したかもしれない。高い壁の向こうの景色を自分の力で見るため、ゴールのない探求を続けた「煌月爽矢」。

 そうして2016年の2月、宝塚歌劇団を卒業した中原さんは、人生の新章へ飛び込んでいく。

元宝塚スター、コーヒーを淹れる

 宝塚を卒業してからどんなことをするか、中原さんは全く決めていなかった。10代から一般の社会とかけ離れた生活を送った彼女は、どうしても「世間知らず」な部分を自分自身に見つけていた。

 俳優の仕事をするために受けた、とあるオーディションで、中原さんはこんなことを言われてしまう。

 「あなた、コーヒーとか淹れたことないでしょう?」

 宝塚出身の俳優は、演技の幅が狭い…そんな皮肉がこめられた指摘を受けたわけだが、落ち込む彼女ではなかった。

 「それで私、コーヒーショップでアルバイトを始めました」

 反発心ゆえの行動だったが、これが予想以上に面白い経験となった。

 宝塚の生徒は、誰に対しても丁寧で礼儀正しく接するよう努めている一方で、周囲の人たちからは憧れの眼差しを向けられ気遣いを受けることも多い。タカラジェンヌだと知られると、「特別扱い」されることがしばしばある。

 だがコーヒーショップには、実に様々なお客さんが訪れた。驚くほど不機嫌なお客さん、スマートフォンの画面を見たまま投げるようにお金を支払うお客さん、ちょっとしたミスを過剰に責め立てるお客さん…。理不尽とも感じられる八つ当たりをされても、このアルバイト経験は、彼女曰く「めちゃめちゃ楽しかった」。半年で辞める予定が1年半も続けたというから、その言葉に嘘はないようだ。コーヒーショップは17歳の時以来初めて、「タカラジェンヌだった自分」を誰も知らない職場で、中原さんにとって新しい刺激に満ちていたのだ。

 アルバイトをしながら、演劇の舞台やテレビのバラエティ番組への出演など、彼女の新しい日々は順調かに見えた。だが、どれも楽しく学びの多い仕事と感じつつ、中原さんの心はどこか不完全燃焼だった。

 「正直なところ、何をやっても、宝塚にいた時ほどの達成感を得られなかったんです」

 無我夢中で頑張った宝塚での日々を「過去の栄光」にして懐かしむだけではなく、もっと前進したいと思っていた。

 「まだ20代だったし、ここで終わって『昔が一番輝いていたね』とは思いたくなかった。でも、どうしても、新しい目標が見つからなくて…」

 宝塚と同じくらい打ち込めるものを見つけるためには、今いる環境を変えなくては。中原さんは、直感的にそう思ったという。

たった1人で台湾へ

 新たな環境を探していた中原さんは、ある企画の情報を得た。「日本人モデルとして海外でオーディションを受け、活動する」という内容で、彼女はすぐに参加することを決めた。海外での活動に以前から興味があったわけでも、英語が話せたわけでもない。しかも、10代と20代前半のモデル経験者である他の参加者たちの中で、30代前半になっていた宝塚出身の中原さんは、やや異色の存在だったそうだ。

 「冷静に考えたら、無謀ですよね。日本で活動することだって難しいのに。でもやってみたいって気持ちがむくむくと湧き上がって」

 この企画はきっとチャンスになるという自分の直感を、中原さんは信じた。

 最初に、シンガポールとタイへ渡った。エージェントと他の参加者とともにひたすら芸能事務所のドアを叩き、それぞれがモデルとしてアピールするものの、すぐには契約に繋がらない日々が続く。そんなふうに多くの芸能事務所を回る中で、唯一、とある事務所に興味を示されたのは中原さんだった。「他の人より条件が悪い」と危惧していた彼女は驚き、若い経験者だけが有利だという考えが自分の思い込みだったと気がついたという。

 そこでは事務所との契約までには至らなかったものの、わずかだが確かな手応えを感じた中原さん。次の渡航先となった台湾で、なんと彼女は大手事務所2社からオファーをもらうことができた。

 「まずは半年間、台湾で語学留学をしようってすぐに決めました。台湾には何度も旅行へ行ったことがあって、大好きな国だったので、何の迷いもありませんでした」

 自力で見つけた新たな道は、ようやく彼女の心を昂らせた。

モデルとして台湾で活躍する中原さん

 こうして2020年の2月末、中原さんは単身、台湾へ渡った。折しも、その直後に世界中で新型コロナウイルスの感染が拡大した。極めて特別な状況を海外で過ごすことになり、今しか感じ取れないこと、学べないことがあるはずだと思ったという。彼女は大学で語学を学びつつ、精力的に様々なオーディションを受けた。

 実は仕事の幅を広げるため、中原さんは宝塚を卒業した直後から中国語のレッスンを始めていた。継続していたレッスンが役立つことになったが、台湾で生活して仕事をするには、より高い語学力が必要だった。「大学でみんなが話していることは6割くらい、分からなかった」と振り返る。それでも、必死で勉強を続ける日々は充実していた。

 半年間の留学を予定していたが、台湾の学校へ通い始めると「もっと滞在して学びたい」とすぐ考えを改めた。

 「でも、留学をもう少し続けようと思った矢先に、予想外のことが起きました」

広い世界が見える場所

 新型コロナウイルスの影響を受け、なんと中原さんが所属する事務所がなくなってしまった。それでも、彼女は少しも力を失わなかった。「これから、もっと良い出会いに恵まれる」と考えて、諦めることなくモデルとしての活動を続けた結果、CMやテレビ出演などの仕事も増えてきたという。

 台湾へ来て2年半が経った今でも、仕事の打ち合わせや会議に出席する時には録音をして、中国語の会話や説明をあとで何度も聞き直し、内容をしっかり理解するようにしている。オーディションでも仕事の現場でも、中原さん自身が1人ですべてのやりとりをする。今、事務所がなくなった不安以上に味わっているのは、習得した中国語で仕事をやり遂げた時の「楽しい!」と声に出したくなるような達成感だという。

 「試行錯誤の連続でしたが、それにわくわくするんです。私にとって、そういうお仕事に出会えたのが、台湾という場所だった」

 日本の芸能界では珍しくない「元タカラジェンヌ」という経歴は、台湾では多くの人に注目された。また、「台湾でモデルとして活動する」という他の宝塚出身の人とは違う挑戦が、中原さんのやる気を駆り立てた。宝塚を卒業した人たちはそれぞれが輝ける道を歩んでいて、私の場合はそれが海外での活動だったと、中原さんは語る。

 そして、芸能活動だけではなく、台湾で多くの学びがあったそうだ。大学に通って出会った色々な国の友人たちと母国について語り合うことで、日本の社会のこと、産業のこと、経済のこと…中原さんが今まで知らなかった日本の姿が見えてきた。日本の文化や様々な技術が海外でも認められていると知り、「日本人である私こそ、母国をもっと理解しなくては」と考えている。

 そして、今までは当たり前だった、四季が巡る日々。その風景にある情緒がどれほど素晴らしいか、日本を離れたことで実感できたという。

心の距離は変わらない

 中原さんは、いつでもご家族や多くの友人に囲まれている人だった。そんな彼女が日本の親しい人たちと会えない日々の孤独感を、どう乗り切っているのだろうか。

 「長い間離れていても大好きな人たちと心の距離は変わらないという、自信があるんです」

 卒業した後も、宝塚の仲間との繋がりは消えなかった。大切に育んだ友情はずっと続くことを知ったから、彼女は今も寂しさを感じていない。

 「でも…そう思っているのは私だけだったりして!」

 急に不安そうな表情を浮かべる中原さんの言葉に、思わず吹き出してしまった。宝塚で出会った人たちとの結び付きは、今も彼女の中に根付いている。そして、台湾で活動する今に至るまでを支えてくれたのは素晴らしい人たちとの出会いだと、彼女は痛感している。

 「そういう方々から受け取るばかりではなく、そのご縁を形にして誰かに繋いだり、社会に還したいです。私がもらってばかりじゃ、だめですよね!」

 人との縁を活かすことは、支えてくれる大切な人たちへの感謝でもある。日本を離れてみて、改めてそう思うのだと語る中原さん。

 「中原由貴さんにとって、宝塚とはなんですか」という問いに、彼女はこう答えてくれた。

 「人生の基盤です。宝塚での日々があったから、今の私があります」

 宝塚で過ごした歳月は、華やかで楽しいことばかりではなかった。タカラジェンヌとして心身ともに鍛えられたから、これからの長い人生で何があっても、絶対に乗り越えられる気がするのだと、彼女は語る。

 将来は、日本と台湾を行き来して生活したい。そして、伝統的な文化が豊富な台湾で、ダンスやエンターテイメントに携わる仕事をしたい…それが、今の彼女の目標だ。語学の勉強を続けながら、夢に近づく方法を模索している。

 台湾で出会った人たちは、年齢や経歴にとらわれず、思いのまま何にでもチャレンジしていた。そんな人たちの姿を見た中原さんは自分自身が意外にも、無意識のうちに「私には無理だ」と決め付けていたと気づかされたという。「自分の年齢や経歴にとらわれない。それが、今の私の課題」、そう言って笑った。宝塚の男役として活躍していた頃から、私が見てきた中原さんは「常に進化を求める挑戦者」だった。新しいことや遥か上の目標に向かって、常識や安定を求めずに挑んでいく彼女は、格好良かった。だが、彼女の思い描く未来は、もっともっと自由自在なものなのだろう。            

 男役「煌月爽矢」は、何度つまずいても、掲げた目標に向かって走り続けた。苦労を笑いに変える前向きさに多くの人が心惹かれ、財産といえる仲間に恵まれた。その生き方は今も変わることなく、中原さんは未知の挑戦を続けている。どんなピンチの時も顔を上げて進み続ける彼女の姿は、私たちにまだ見ぬ景色を見せてくれるだろう。海の向こうから届く知らせを、わくわくしながら待っている。   

(終わり)

中原由貴(なかはら・ゆうき)
東京都世田谷区出身。元宝塚歌劇団男役スター。
宝塚卒業後は単身台湾に渡り、モデル・ダンス講師として活躍している。
ツイッター @Yuuki_Nakahara
インスタグラム @Nakahara.yuuki

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

早花まこ

元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
note https://note.com/maco_sahana


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