卒業後の人生は「余生」?
宝塚を卒業した後に始まる第二の人生を、私は「余生」としか思えなかった。10代の頃からの夢を18年間も満喫した後、やるべきことなど何も残っていない。
全く同感だったと、その方は笑った。
「大丈夫。そのうち余生なんて言っていられないくらい、やりたいことができるから」
私もそうだったよと笑顔で語るのは、早霧せいなさん。2014年から2017年まで、雪組のトップスターをつとめた男役だ。
万年脇役だった私でさえ「余生」だと思うのだから、組の顔であり、常に主演をつとめる男役トップスターに昇り詰めた人は、どれほど命を燃焼させてしまったのだろうか。
宝塚の生徒(宝塚歌劇では劇団員のことを全員「生徒」と呼ぶ)は皆、1年を通して多忙な生活を送っている。お稽古期間中は朝から深夜まで稽古場に缶詰になることも多く、公演中は休憩時間も準備や片付けに追われる。トップスターともなれば、取材や撮影など公演以外の仕事もたくさん抱え、まさに激務の日々。その上休日も、身体のケアやレッスンで分刻みのスケジュールをこなす。
宝塚大劇場前の満開の桜を見ても、「あー咲いてるな、としか思わなかったよね」と淡々と当時を振り返る早霧さん。「桜が綺麗だ」と心が動くだけの余裕は、在団中ずっとなかった。
早霧せいなさん。愛称は、ちぎさん。87期生として2001年宙組公演「ベルサイユのばら2001」で初舞台を踏み、そのまま宙組に配属された。身長168センチメートルで華奢な体型の早霧さんは男役としては小柄だったが、それを感じさせないパワフルなダンスと繊細な演技力で注目され、2006年に「NEVER SAY GOODBY」で新人公演初主演を果たす。
新人公演とは、通常の本公演と同じ作品を入団7年目までの生徒たちだけで演じるもので、本公演期間中、宝塚と東京で1度ずつ上演される。スターへの登竜門である、新人公演の主演。早霧さんは次の公演でもう一度そのチャンスを掴み、劇団内でもファンの間でも存在感を増していった。
そして、2009年に雪組へ組替えとなる。
革命児、現る
組替えとは一般企業における「異動」と同じで、所属する環境がまったく新しくなる。私たち雪組生の前に現れた早霧さんは、宙組と異なる雰囲気や習慣に気後れすることなく、積極的に個性を打ち出す舞台スタイルを貫いた。
たとえばショーの一場面。男役は「きっちりした髪型で統一」という決まりがあった。でも、振付けや衣装に合わせて、それぞれがもっと自由にして良いのでは?と提案し、議論の末に受け入れられた。
窮屈に感じる状況でも果敢に自分の意見を主張する姿はとても格好良く、組の若者を大いに奮起させた。
「あの時は珍しく、革命の炎が燃えていた」
後輩の面倒を見ることは大切だが、それがただの制約になってしまうと、下級生は自分で考える力を失くしてしまう。早霧さんは常々、そう考えていた。
「自由な個性を見せることでお客様を楽しませたいという気持ちに、革命の炎が加わってしまったんだね」
退団してから4年が経つ今、懐かしそうにそう話す。トップスター候補の一人として存在感を示したあの頃から、不器用なほどまっすぐに進み続ける方だった。雪組で「パッション早霧」の異名を轟かせた彼女の、情熱あふれる生一本な心意気。それは、生まれもっての性格なのだろうか。
「いや〜、そんなことないと思うんだけど。なんでこうなったかは……謎」
長崎県佐世保市出身の早霧さんは、穏やかでおおらかな父と、礼儀やマナーをしっかり教えてくれる母のもとで、妹・弟とともに育った。山々に囲まれた自然豊かな環境でソフトボールに打ち込んだ「いたって普通の学生時代」は、宝塚や芸能の世界とは遠いものだった。
「いつも見守ってくれた両親には、大人になって改めて感謝しています」
家族のことを尋ねると、少し照れて、ややかしこまる。
在団中に一度だけ母に弱音を吐いた時、ただそっと寄り添ってくれたことは忘れられない。故郷から遠く離れ、厳しい芸の世界で一人闘う早霧さんを気遣うことはしても、あれこれと口出しせず支え続けた家族。早霧さんの舞台姿をいつも一番楽しみに、はるばる観劇に来てくれたのも両親だった。
ご自身の著書『元宝塚トップスターが伝える 夢のつかみ方、挑戦し続ける力』に、14歳の時に10年後の自分へ書いた手紙が紹介されている。そこには宝塚のトップスターになりたいという夢と、驚くべきことに、宝塚に入れたとしても卒業後に仕事があるかどうかの不安までが切実に綴られていた。
将来への希望と不安に揺れる14歳の早霧さんは、手紙の最後に「途中で諦め宝塚以外のことをしているのなら、それを一生後悔すると思いますよ」と、10年後の自分を脅すような言葉で、夢への強い思いを自分自身に誓うのだ。
星との約束
高校の部活帰り。夜道を歩きながら、彼女は星に願いを懸けた。
「宝塚に受かるなら、どんなことでもします。だから、合格させてください」
不安以上に憧れた未来、ただひとつ心に決めた夢を実現させるため、レッスンに励んだ早霧さんは高校1・2年時に宝塚を受験し、「2度の不合格」という挫折にも負けなかった。燃えたぎる青春全力少女の熱意を、星も応援していたことだろう。
3度目の正直となったのは、高校3年生の時。宝塚音楽学校を受験できる最後の機会に見事合格したのだ。しかも早霧さんは大学受験にも併行して挑んでおり、そちらも合格したという。若者が目標に向かう根性は絶大とはいえ、早霧さんの底力は人並み外れたものがある。
喜びも束の間、厳しい上下関係とレッスンに明け暮れる2年間の学校生活が始まる。ダンス、芝居、歌。周りは自分よりも圧倒的に上手い子ばかりだったが、ここでも彼女はへこたれない。どんなことでもすると、星に約束したではないか……!
並の人ならば「星さん、ありがとう」で終わる美談だが、早霧さんは恩を決して忘れない少女だった。
思えば、早霧さんは「大笑いしたことは覚えているが、なぜ可笑しかったかは思い出せない」タイプであった。どうしても思い出せず、他人から笑いの原因である自分の失敗を聞かされ、もう一度笑うこともしばしば。でも、人生において大切なことは、それがどんな些細な出来事でも忘れなかった。
子供の頃から積み重ねた宝塚への熱意も彼女の中で消えることはなく、入団から17年間ずっと早霧さんを突き動かしたのだった。
2番手時代のコンプレックス
お稽古場でも舞台でも、彼女は常に体当たりの演技をするスターさんだった。お稽古が始まるとすぐに様々なアイディアを取り入れるその発想力と表現力は、同じ生徒たちからだけでなく演出家からも注目された。だが、2番手スターとなってからは思い悩むことが多かったという。
「私には高い身長がない、男役らしい強い声もない。それなのに、自分が願う以上の立場と役柄をもらっている。でも、実力が追いつかない……。周りからもそう思われていると分かってた」
こんなふうに本音を包み隠さず話せるのは、彼女が自分のコンプレックスととことん向き合い、なんとか克服しようと足掻いてきたからかもしれない。
沢山の競争相手に囲まれた環境で、早霧さんは常に他人と自分を比べることが癖になっていた。人との比較をやめようとしても、今度は過去の自分と比べてしまう。「他人のことは気にしません」と格好つけることもできるが、彼女はそうしなかった。
宝塚では、必然的に自分自身と向き合わざるを得ない。舞台化粧も髪型のセットも、舞台でつけるアクセサリーを用意するのも、全て自分。熱心に研究すればするほど、自分の欠点を思い知ることになる。私もそうだったように、嫌な部分からはなるべく目を逸らしたいものだ。
だから、「格好悪い自分」を正面から見つめるには、相当の覚悟が必要だっただろう。その潔さに、早霧さんの実直な人柄を感じる。
さらに、早霧さんが自分自身を否定してしまった原因は、それだけではなかった。
お稽古場や楽屋でよく見かけたのが、ファンレターを読む姿。どんなに忙しくてもすべての手紙に目を通し、あたたかいメッセージに元気をもらう一方で、心ない言葉に胸を痛めることも多かった。悪意のある文章、文字の力は強大で、受け取る人の心を深く傷つける。
しかし、それでもいつの頃からか、気持ちを切り替えることを心掛けた。批判はしっかり受け止めるが、とらわれてばかりはいられない。
「自分を嫌う人の心を変えることはできない。私にできることはただひとつ。いつも精一杯の気持ちで舞台をつとめよう」
耐えがたいほど厳しい批判にさらされても、彼女の心は強かった。自分の弱さを自覚して向き合おうとする気持ちが、彼女に前を向かせた。弱さを武器に変えられたことで、舞台での表現にも深みが増し、公演を重ねるごとに洗練されていった。
早霧さんの決意は、観る人の心に確かに響いたのだろう。だんだんと誹謗中傷の手紙は減り、名実ともにスターとして充実した頃。
早霧さんはついに雪組トップスターに就任した。
トップスターの仕事って?
「1mmも手を抜かなかった」
「常に100%のパッションで、本気で挑んだ」
「いつも、最善を尽くした」
自らの仕事や責務に対してこう断言できる人が、いったいどれほどいるだろうか。早霧さんのこの言葉は、同じ舞台の端から見ていた者として疑う余地はなく、そのエネルギーは客席にも伝わっていたと感じるところだ。
雪組トップスターとしての最初の公の場は、100周年大運動会だった。通常公演ではなく10年に一度の運動会でトップお披露目をするなんて……つくづく珍しいタイミングに恵まれている。
多くの宝塚ファンが抱いていた、それまでの彼女のイメージは「クールビューティー」。どの角度から見ても整った顔立ちと、透き通るような白い肌。その美しい容姿から連想されたのは、物静かで少し近寄りがたい人物というものだ。ところが大運動会に現れた彼女は、内なる情熱をすべて爆発させて勝利へとひた走る「熱血兄さん」だった。
運動会中のインタビューで必死になり過ぎた早霧さんは、自分でも何を言っているのか分からなかったと、苦笑いしながら振り返る。
「周りの人たちがすーっと引いているのにも気付いたよ」
奇しくも運動会のおかげで、彼女の熱いキャラクターが広く知られることとなったのだ。
そんな熱血漢・早霧さんがトップスターとして目指したのは、「一人でも多くの人に雪組の舞台を観てもらうこと」だった。これは簡単なように思えて、その実かなり難しい課題だ。
まず、トップスターだからといって全ての演目を思い通りに決めることはできない。そもそも約80名の組の生徒たちをまとめあげること、お稽古期間を含めると4ヶ月近く続く公演に集中させ、舞台を進化させ続けることは、トップスターの「立場」が保証してくれるものではない。
「私じゃなくても他の誰か……衣装でも装置でも音楽でもいい。作品を観て何かひとつでも『良い』と思ってもらうことに命を懸けていた。そのために自分に何ができるか、24時間考えていた」
公演が大好評のうちに千秋楽を迎えても、早霧さんが栄光に浸ることはなかった。次はもっと良い舞台を作らなければ、お客様も自分も満足しない。そんな思いは壮絶なプレッシャーとなり、休むことなく早霧さんをせき立てた。
「常にプレッシャーは感じていました。その重さに、毎公演、押し潰されそうだった。これじゃ身が持たないと思ったくらい」
主演をつとめ疲労困憊している終演後も、相手役さんや共演者と一日の反省点を確認し、舞台袖から見て気が付いたことがあれば下級生にもアドバイスをしていた。時には、公演スタッフさんと話し合いをすることもあった。
もともとスマートな体型だった早霧さんだが、トップをつとめた3年間ではまさに「身も心も削って」という言葉の通り、その身を細らせていった。
ちぎさん流、本気のお稽古
自分の芸を磨くのは、当たり前。より魅力的な舞台を実現するために、さらにできることはないか。そうして早霧さんが考えたのは、スターだけではなく雪組の一人一人がパワーアップすることだった。そのため入団したばかりの生徒にも全力で向き合い、お稽古に付き合う。
例えば、お芝居の中で大勢が出ている場面の自主稽古。お芝居全体の雰囲気にかかわる大勢の演技はとても重要だ。多忙なスターさんはこのような、生徒が自分たちで行う自主稽古にわざわざ参加しなくても良いのだが、早霧さんは時間が許す限り一緒にお稽古をした。
舞台の後方で頑張っている下級生にとって、主役の演技を見てその呼吸を感じることは、大きな学びになる。うまくできたらみんなと喜ぶ、そんな早霧さんの自主稽古には充実感があった。
舞台への真剣さに欠けるような言動や、努力不足が見えた時には、下級生を厳しく叱ることもあった。だがその叱責にも、その人を、舞台を良くしたいという気持ちが込められていた。
そんな彼女の熱心さが、皆をちょっと困らせることも。お稽古に夢中になったり下級生の場面を熱心に見るあまり、手元の飲み物をひっくり返してしまうことが、しょっちゅうあった。慌てて片付ける下級生に謝りながら、「また、やってしまった……」と気まずそうに俯く姿は、もはや雪組の名物だった。無意識に親しみやすさを滲ませてしまう早霧さんは、独自の方法で雪組生たちとの繋がりを深めていた。
心は強くしていけるぜ
後ろから「わあっ!」と襲いかかる。何の意味もなく、唐突にじゃんけんを始める。
他人に対して「こういう人だ」という思い込みを持たない早霧さんは、トップスターになってからも変わらず、上級生・下級生関係なく「悪戯」を仕掛けることで自然と皆の人柄を深く知っていった。
今、改めてお話を聞くと、トップスターである大きな責任感とリーダーとしての意識がはっきり分かるのだが、当時の早霧さんは「雪組の一員」「演者の一人」という色合いを強くもっていた。トップだから皆の支持を集めたいといった目論見はなく、「男役が好きで、舞台を良くしたい」、その情熱が皆を巻き込んで結果引っ張っていくことになる――そんなスターだった。外見だけを飾り立てる人物では、そのありようは成立しなかっただろう。
人間でも物事でも、早霧さんはいつもその内面に目を凝らす。その理由は「外見で闘っていた時期があったから」だ。自分にはないものが多過ぎた、と彼女は振り返る。
「もうコンプレックスだらけ。でも、心は強くしていけるぜ!ってね」
表に出るものだけが真実ではない。それこそが人間の深みであり、その深みを見たくて人と接している。綺麗事に思えるかもしれないが、たとえ綺麗事だとしても、そうして築いた雪組生との繋がりは早霧さんにとっても大切な力となった。
「私の手が回らないことは、得意な誰かにやってもらった方がいい」
そう気が付いてからは、自分の役割を果たしつつ、場面の指導をあえて下級生に任せることもあった。トップさんから信頼されることで、下級生たちは公演への責任感とやりがいを感じていたし、自主的にお稽古をする人が増え、組の力が底上げされた。
「え、そんなふうに思ってくれてたの? ほらさ、やっぱり少しでも上手くなりたいから、私もまだまだ上手な人から教わりたいじゃん。皆でお稽古する方がはかどるしね」
照れながら大きな声で笑う。どこまでも格好つけない人だ。
トリデンテ、運命の出会い
早霧さんのもっとも心強い仲間は、相手役の咲妃みゆさん、2番手の望海風斗さん。それぞれ違う組から雪組に異動したこの二人は、実力と華、早霧さんとともに雪組を引っ張る意欲にあふれた素晴らしいタカラジェンヌだった。3人はトリデンテと呼ばれ、互いを高め合うその関係性に多くのファンが熱狂した。
「ゆうみちゃん(咲妃さん)とだいもん(望海さん)と同時期に雪組にいられたことが、偶然というよりも必然だと感じる。私の人生に欠かせない二人に恵まれました」
咲妃さんのほんわかとした言葉に早霧さんが鋭いツッコミを入れたり、咲妃さんがにこにこと言葉を添えたり。トップコンビの微笑ましい掛け合いは度々話題となった。
初めて咲妃さんと受けた「伯爵令嬢」の囲み取材で、二人の会話に笑いが起きた時「これはいけるぞ!」と早霧さんは思ったそうだ。
「夫婦漫才という芸にできる!って気付いたの。そこにだいもんが、面白い感じで加わってくれてさ、3人で取材を受けるのが本当に楽しかった」
取材の時、咲妃さんが尊敬の念と愛情を込めて褒めてくれるのが、嬉しくも気恥ずかしかったという早霧さん。そんな照れ隠しがツッコミとなり、いつしか息の合った掛け合いになったというわけだ。
ちなみに、2番手を「育てる」こともトップスターのつとめ。望海さんは、育てがいがありましたか?と問うと、
「だいもん、雪組に来た時にはもう完璧に仕上がってたよ! 育ててない、育てられないよ! あんなに完璧な人、育てられないでしょ〜」
と、心底楽しそうな声で笑っていた。
「いつか必ず、トップスターではなくなる日がくる」
早霧さんの功績として、主演大劇場公演5作連続・観客動員100%超えという驚異的な記録がある。他業種の人でも彼女の偉大さが分かる数字だが、そう称えられるたび早霧さんはどこか居心地の悪そうな表情を浮かべる。取材の中で、その理由を聞くことができた。
「その記録は、私一人のものではないからね」
雪組生とスタッフの方々。さらにはそれまで雪組の歴史を作ってきた歴代のトップスターと上級生たち。この記録は何年にもわたって雪組に携わった大勢の人々による成果であり、自分はただの代表者であると。
自分の名誉を誇らしく語るどころか、ここでもっとも早霧さんらしい言葉が飛び出した。
「なによりもまず、記録を作ったのはお客様だよ。この数字は、それだけ多くの方々が足を運んでくださったっていうことだから」
建前ではなく、ただ謙虚なだけでもない。実感したことしか言葉にしない早霧さんだからこそ、宝塚史に残る記録に至るまでの1日1日を積み重ねることができたと思えてならない。そしてその記録の陰には、トップスターにしか分からない苦しみも積み重ねられていた。
「1日でガラリと立場が変わるって、とても怖い経験なんです」
トップスターに就任した日。一夜明けたら何もかもが変化していた経験は、それからの3年間、早霧さんの心を離れなかった。
再びたった1日で全てが変わる、トップスターの座を退く時に自分はどうなるのか。誰からも見向きもされなくなる自分を想像して、震えたこともあったという。私などからは想像もつかないことだが、「コンプレックスだらけ」という自己認識も影響していたのかもしれない。
「宝塚に入った時から、やめた後のことは一瞬たりとも考えてなかったの。宝塚の日々が終わったら、ああもう何もない。やめた後に仕事はありますか?って14歳の私が心配していた通り、自信なんてなかったから。きっともう、なにもできないって」
退団公演の千秋楽を終えた時の安堵と解放感を、早霧さんは鮮烈に記憶している。3年間背負い続けた「雪組」という重責を降ろして、やっと身の丈にあったものを背負えると心底ほっとした。だがそれは、新しい闘いの始まりでもあった。
(続きは単行本『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』でお楽しみください)
長崎県佐世保市出身。俳優。元宝塚雪組トップスター。
宝塚卒業後は舞台や映像などで幅広く活躍。4月からはTBS系ドラマ「ドラゴン桜」に出演する。
また5月にはM&Oplaysプロデュースの舞台『DOORS』が世田谷パブリックシアターで、6月以降は地方6都市で上演予定。
オフィシャルサイト https://seinasagiri.com/
この連載が単行本になりました!
早花まこ『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』
宝塚という夢の世界と、その後の人生。
元宝塚雪組の著者が徹底取材、涙と希望のノンフィクション!
早霧せいな、仙名彩世、香綾しずる、鳳真由、風馬翔、美城れん、煌月爽矢、夢乃聖夏、咲妃みゆ。トップスターから専科生まで、9名の現役当時の喜びと葛藤を、同じ時代に切磋琢磨した著者だからこそ聞き出せた裏話とともに描き出す。卒業後の彼女たちの新たな挑戦にも迫り、大反響を呼んだインタビュー連載、待望の書籍化!
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早花まこ
元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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- 早花まこ
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元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。BookBangで「ザ・ブックレビュー 宝塚の本箱」を連載中。
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