シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

安田菜津紀の写真日記

いつも滞在していた首都ダマスカス郊外の集落で出迎えてくれていた子どもたち

 時折、戦場と化す前のシリアを訪れたことがある、あるいは暮らしていたことがある方々と集うと、「シリアってよくこういうことが起きたよね!」という話題が尽きない。私はそれを勝手に、“シリアあるある”と呼ぶことにしている。
 それはシリアに通い始めてまだ間もない頃だった、道に迷って地図を片手におろおろしていると、「どうした? 迷子か?!」、「どこに行きたいんだ?」と周囲の人が勝手に何人か駆け寄ってきた。ただでさえ心細い上に、知らない人にぐるっと囲まれれば、恐らく多くの人は「だまされるのでは?」と身構えるだろう。当然私も、そうだった。その人たちが駆け寄ってきた勢いそのままに「そこに行きたいんだったらバス停はあっちだ」と連れていかれ、「ほら、あのバスだ!」と乗せられた。窓の外で手を振る彼らが何者なのかを知る間もなく、バスは出発した。そしていざバスを降りるときに運転手さんにバス代を払おうとすると、「あの見送ってくれていた人たちがもう払ってくれたよ」と彼はいたずらっぽく笑った。彼らにお礼すらまともに言えなかった。もしかすると彼らは、お礼など求めていなかったのかもしれない。全く同じシチュエーションとはいかないものの、ただ同然で乗せてくれた、一日観光案内までしてくれた、という話はよく耳にする。これが“車あるある”だ。
 誰かのお家にお邪魔すると、気づけばご飯を頂くことになり、そして食べ終わった頃に、パジャマが用意され始める。“ここはお前の家だと思えあるある”だ。
 大寒波の年だった冬、衝撃的な経験をしたことがある。シリアは冬になるとがくっと気温が下がり、雪に見舞われる地域もある。私は風邪をひき、鼻水をぐずぐずとすすりながら一通行人として道を歩いていた。すると道の向こうから、やはり通行人の一人の若いお兄さんが歩いてきた。けれどもそのお兄さん、こちらをちらちらと見ながら、カバンの中をごそごそとかき回し何かを探しているのだ。どう見ても怪しい。私は少し警戒しながらすれ違おうとすると、そのすれ違いざまにお兄さんがさっと私に何か白いものを手渡してくれた。ティッシュだった。お礼を求めるでもなく、彼は颯爽と歩き去っていった。さすがにこのティッシュ事件は他に聞いたことがないので“あるある”にはできない。
 ただ、当時から政治的な話をタブー視する空気は、海外から訪れる私たちにもひしひしと伝わっていた。たとえ英語でさえ、政権に関わるような言葉に、彼らは敏感に反応した。思えばあの時から、何かが始まっていたのかもしれない。
 「シリアは死んでしまった」と、あるシリア人の友人が語ってくれたことがある。あの日々が温かかった分だけ、痛みは深いだろう。だからこそ取り戻したいのだ。何気ないことで笑い合っていた、あの日常を。

街なかのパン屋さんの床で昼寝していたお兄さん。弟が水をかけて起こそうと試みていた。何気ない笑いがそこにあった。
君とまた、あの場所へ―シリア難民の明日―

君とまた、あの場所へ―シリア難民の明日―

安田菜津紀

2016/04/22発売

シリアからの残酷な映像ばかりが注目される中、その陰に隠れて見過ごされている難民たちの日常を現地取材。彼らのささやかな声に耳を澄まし、「置き去りにされた悲しみ」に寄り添いながら、その苦悩と希望を撮り、綴って伝える渾身のルポ。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

安田菜津紀

1987年神奈川県生まれ。認定NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事 -世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。

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