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お坊さんらしく、ない。

2022年9月12日 お坊さんらしく、ない。

十七、死んだ後のことは放っておけ

著者: 南直哉

 その人物には才覚があった。学校を終え、将来事業を起こす準備として、その役に立ちそうな会社に就職して、ほぼ予定通りの頃合いで辞め、かねて志していた事業を起こし、持ち前の先見の明と粘り強い努力で、それなりの会社に育てたのである。

 その間に家庭を持ったが、ここにも彼の「経営」感覚が適宜応用され、夫婦間に大きな波風は立たず、子供たちも無事独り立ちして、後顧の憂いも無い。要するに、この世に苦労が皆無の人生はあり得ないにしても、まずは結構な日々を過ごして、老境に至ったというわけである。

 知り合いになって暫くして、

 「実は、そろそろかと思って…」

 と言いながら、彼はある「プラン」を見せた。それは、まるで事業計画のような、いわゆる「終活プラン」であった。プランどおりに死ねると思うところがカワイイものだが、本人は大まじめで、仕事からの完全引退に始まるその計画は、実に驚くべきものであった。

 まず、健康で自立生活できる期間と、介助が必要な期間が予想されていて、その時々にやりたいことと、やらなければならないことが、時系列でプログラミングされ、大よその必要経費まで書き込まれていた。

 最後は子供たちに「迷惑をかけないため」に夫婦共々(妻の意向は知らない)高級高齢者施設に入居する手はずになっていたが、生まれてくる時に大迷惑をかけているのに、死ぬ時に迷惑をかけて、なぜいけないのであろうか。どちらも自己責任とは関係ないのに。

 遺言の草案のような文章もあって、

 「これはまた、おいおい書き直します」

 という話だったが、私が大丈夫かと思ったのは、遺産の金額はまだ記入していなかったものの、3人の子供それぞれに対して、何故この金額なのかが、かなり詳しく説明されていたのである。

 「もめるといけませんからね」

 しかし、これはさらに「もめる」原因になりかねない。

 最も字数を費やし、かつ詳細だったのは、なんと自分の葬式の次第である。坊さんを目の前にこれを見せるのはいい度胸だと思ったが、無宗教で(まあ、いいけど)行う代物であった。したがって、演出はすべて彼の一存である。

 葬儀会社(取引先だという)、祭壇の規模、案内すべき弔問者の大物どころの名前と人数、座席の位置、司会進行の「台本」、各自の弔意の表し方、流すべき音楽数曲。ここまでになると、もうわかる。彼はいま暇で退屈だから、こんな「事業計画」を作り、他人に見せて、その成果を「評価」させようとするのだ。

 家族がこれを「ありがたい」と思うか、「迷惑だ」と思うかは、私の(あず)かり知らぬところだが、私はこういうことに「凝る」のはやめたほうがよいと思う。

 以前、葬儀会社の入り口に「自分らしいお葬式」という看板が立ててあったが、そのとき「自分」はいないのだ。「らしい」も何も無い。少なくとも、弔いをするのは自分ではないのだから、(のこ)って弔うほうに丸投げして、好きなようにさせるのが一番だろう。故人の言う通り散骨したら、後に親族で騒動になり困ったという例もある。

 勘違いしてはいけないのは、葬式は生きている人が生きている人のためにやるものであって、死んだ者には関係がない。そこに故人はいないのだから。

 葬式の仕方は、お国柄、宗教宗派によって様々だが、その核心にある意味は一つだけである。それは、「○○さんは死んだ」と確定することである。この確定によって、それまでの「生者」は「死者」となり、我々と「死者の○○さん」との新しいご縁が始まるのだ。

 人は他人と共に生きる。だから自分が生きたようにしか、他人に弔われない。それだけである。後のことまで口を出すのは余計と言うものだ。ただし、一つ、是非とも生きているうちにハッキリさせておくべきことがある。それは、最終的に自分の息の根を止める決断を、誰にさせるのか、ということである。

 昔と違って、当節そう簡単に死ねない。生かそうと思えば、体中を機械に繋いで、「寿命」自体はいくらでも延ばせる。もし、突然意識を失ったまま「脳死状態」になったり、「延命措置」に関して何の意志表示も無いまま、重度の認知症になったら、最期にどうするのか。

 たとえ「延命措置」を拒否する意志を遺したとしても、今わの際で前後不覚になった時、家族の合意が得られなければ、医師は一方的に措置の停止はしないだろう。後で訴えられたらコトである。

 つまり、ある人物を死なせる最終決断を誰にさせるのか、あるいは最終決断を家族内でどのように決めるのかを、死ぬ当事者が生きている間に身内で合意しておくことが重要である。ある人物の最期に家族がこれで言い争いになっては、死ぬ当事者も死にきれまい。

 「自己決定・自己責任」という浅はかなアイデアで何事も押し通そうとする馬鹿者がいるが、これが昂じると、自分の死まで「自己決定・自己責任」でケリをつけようとする。何が何だかわからないもの(絶対にわからない!)について、どうやって自分で決めるのか。かろうじて決められるのは、死ぬまでのこと、つまり生きている間のことで、死とは無縁である。ならば、生きている間のことなのだから、周囲の方々のご都合・ご事情を考えるのが大人と言うものであろう。

 大人として死にたければ、自分でできることはほとんどないと思うべきだ。おそらく自分でできることの中で、遺された者に感謝されそうなのは、持ち物を極力減らしておくことである。だが、これは想像以上に難しい。

 人は「命」が惜しくなくなっても、「自分」は惜しいものである。「死刑になりたい」と言って罪を犯す者は、往々にして、自分の「命」に価値を認めなくても、自分の「存在」は認めてほしいのだ。

 すると、もう「要らない」物でも、それが「自分の物」であるという、その一点で惜しくなる。所有行為が人間を意味づけるのが、市場社会というものなのだから。が、この事情も遺される者とは関係ない。形見分けなど、そこに残っていれば、欲しがる者には何でも形見である。特に「準備」するなど、要らぬ心配だ。

 持ち物を減らし(七十過ぎれば、一年使わない物はまず要らないと、昔老僧が言っていた)、誰が自分の息の根を止めるのかハッキリさせておけば、後はもういいのではないか。住職三十年、私はそう思う。

*次回は、10月10日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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