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考える四季

2019年6月7日 考える四季

日本翻訳大賞——駅・港・空港

著者: 西崎憲

今年で5回目を迎えた日本翻訳大賞。これまで、韓国語、チェコ語、バスク語、ポーランド語、ポルトガル語等々、さまざまな言語の名作に光を当ててきました。また、クラウドファンディングや候補作の推薦などの形で、一般の海外文学ファンが深くかかわっているという点でも注目されています。日本翻訳大賞はどのような経緯で生まれた賞なのか、翻訳書はどんなところが面白いのか、賞の発起人の西崎憲さんに改めて綴っていただきました。

賞のなりたち

 日本翻訳大賞という賞をご存知だろうか。設立が2014年、今年の4月に第5回の授賞式が御茶ノ水で開催された。対象は翻訳者で、年間の翻訳公刊物のなかで「もっとも讃えたいと思われる作品」を訳した方に贈られる賞である。今年の授賞式はアメリカのウィリアム・ギャディスの作品『JR』を訳した木原善彦氏、ポルトガルのジョゼ・ルイス・ペイショットの小説『ガルヴェイアスの犬』の訳者木下眞穂氏であった。

木原善彦
第5回受賞者の木原善彦さん photo©Tatsuki Nakata
木下眞穂
第5回受賞者の木下眞穂さん photo©Tatsuki Nakata

 筆者自身が設立にかかわっているので、どうしても我田引水的になってしまって、かなり説明しにくくもあるのだが、簡単に経緯と概要を記しておこう。
 はじまりは筆者が Twitter に書いたひとつのツィートだった。それは翻訳者に贈る賞はなぜないのか、という疑問を記したものだった。
 正確にいうと、翻訳者に贈られる賞はないことはない。しかし学術的なものだったり範囲の限られたものである。
 驚くべきことにそのツィートに返事をくれた方がいた。ゲームデザイナーの米光一成氏である。「ぷよぷよ」を作った、自分にとってはほとんど伝説的なゲームデザイナーである。筆者は Twitter での発言を介して、氏が優れた読者でもあることを瞥見していた。
 いまから考えると、米光氏の海外小説の読者という部分が、すでに賞全体の自由さを象徴していたのかもしれない。
 選考委員を誰にお願いするかはあまり迷わなかった。金原瑞人氏、岸本佐知子氏、柴田元幸氏、松永美穂氏の4氏は氏は誰がみても選考の務めを担うにふさわしい方である。そして多少迷ったが、筆者自身も末席に加えさせていただくことにした。選考という作業のなかにも「実務」はあり、それを円滑に進める役割の者が必要なように思ったのだ。
 問題は資金だった。最初は賞金も選考委員の報酬もなし、授賞式は小さなイベントなどが行われる場所にして、とにかくお金のかからないやりかたを考えた。けれども選考委員の労力や必要になる時間を考えると、それでは1回はできてもつづかない気がしたし、選考に必要な原書などの調達にはどう考えてもある程度の資金が必要だった。
 そして思いついたのが、そのころ一般的になりはじめていたクラウドファンディングだった。
 結果としてその選択は成功し、ごく短期間で200万以上の支援金を集めることができた。筆者も米光氏もクラウドファンディングははじめてだったのだが、集まりすぎてこわくなり、途中で打ちきるほどの勢いだった。主催側からの打ちきりは前代未聞だったらしいが、好意ばかりに頼りたくない、それくらいあれば少なくとも4回は開催できるわけで、そのあいだにもっと適切な資金調達の方法を案出できるとも考えたのだ。

 選考についてもすこし説明しておこう。1次選考では読者からの推薦が大きな力を持つことになる。
 200字程度の推薦文を添えればどなたでも推薦できて、推薦数上位の10作(書籍にかぎらない)が一般推薦となり、それに選考委員がそれぞれ推薦する1作を加えた15作が、1次選考対象作品になる。
 そしてそのうちの5作が2次選考対象になり、そこから大賞が選ばれる。
 しばしば尋ねられるのが、選考基準である。以下の3点は重要である。

 ・原文解釈の正確さと日本語の表現力
 ・原作の面白さ・興味深さ
 ・作品公刊や紹介の意義

 選考委員の専門は英語とドイツ語しかないので、それ以外の言語の場合は、専門の方に解釈面でのチェックをお願いしている。

 このように賞に関していうべきことは多いのだが、もっとも重要なのはこの賞が特定の団体や出版社とまったく関係がないことだろう。つまり完全なインディーの賞なのである。そしてそのことが賞を取り巻く方々の熱気の理由ではないかと思う。
 第1回の授賞式のときに感じた熱気と幸福感はそれまで経験したことのないものだった。あれほど多くの人間が穏やかな笑みを浮かべ、幸福そうにしている姿を、筆者はそれまで見たことがなかった。なにかの授賞式でというだけに留まらない。人があれだけ集まる場で、あれほど何かに、つまりは本だったのだが、本に、そしてそれにかかわる者に、穏やかな尊敬の視線が向けられる場にいあわせたのは、間違いなくはじめてだった。そしてそう思ったのは筆者だけではなかったらしく、後で観客の何人かの口から同様の感想をきいた。
 それはたぶんこの賞に内在する自由がもたらしたものだろう。これは翻訳作品を愛する者たちが作った賞なのである。あまり例がないものなのだ。

窓のある部屋、川のある町

 以上が日本翻訳大賞の概略であるが、ここからは5回が終わったいま、心中に去来することについて、漫然と記そう。
 個人的なことになるが、筆者は、知人友人の家を訪れて、そこに本か楽器がないとすこし落ち着かない気持ちになる。窓がない部屋に押しこめられたような気になるし、閉所恐怖症的な感覚が兆すのである。
 そういう家に住んでいる人は多いだろう。だからこんなことを書くのは申しわけなくもあるのだが、自分が好きなものがまったくない家に行くと、似たような感覚を覚える方はすくなくないのではないだろうか。マンガ、映画、ゲーム、模型。
 インテリア雑誌のなかの部屋に感心することは多い。
 できればそういう広く整理された空間に住んでみたいとも思うが、それらの家や部屋の写真に、筆者は同時にかすかに恐怖を覚える。たいていそういう写真のなかの部屋には本も楽器もないのだ。あったとしてもそれは人間に関係のない「本」や「楽器」という記号でしかない。
 家や部屋は人間を囲むものだ。それらは人を風雨から守り、安全な時間を提供する。だから窓やベランダや縁側などといったものは本来は不要なのではないだろうか。箱のようなもので十分でないか。箱のなかはとても安全なのだから。
 けれど窓のない部屋はあまり好まれない。それは家という、自己を護ることが主眼の場にあっても、人が外界を必要とするということを意味しているのではないだろうか。
 筆者にとっては、本や楽器は外界である。本は違う場所につづく扉であるし、楽器もまた違う世界につながる入口である。そういうものが室内にあることは、内と外を同時に所有しているという心地のいい感覚を提供してくれる。
 テレビがその役割を担っていると主張する方もいるだろうか。もちろんそうなることもあるだろう。けれど、テレビというドアが導く世界ははたして自分が行きたいところなのだろうか。

 視点を変えて「町」について考えてみよう。
 筆者が住みたい町には駅があって欲しい。港があればさらにいい。福岡市のように空港が町の中心地から何駅かしか離れていない場所にあったら、もう完璧である。
 川のある町もいい。川はどこともしれないところから流れてきて、またどこともしれない場所に流れていく。
 川にかかる橋も悪くない。橋はふたつの地点を結ぶ。川向こうの町はこちらの町とはずいぶん違っていて、商店や家の佇まいや子供の顔が違う。
 そういうものがない町とはどういうものだろう。たとえばバスの停留所もなく、駅もなく、港も、空港もなく、川もなく、橋もない町、わたしはそういう町にはあまり住みたくない。なぜならそこには外から何もやってこないからだ。何もやってこないのはもしかしたら平和なことかもしれない。脅威もまたやってこないのだから。けれどもその町が迎えるのは穏やかで平和な衰退だろう。それは好ましいことだろうか。

 なにが言いたいか、すでにおわかりかと思う。翻訳というものは、駅や港や空港や川なのだ。それは外からやってくるものを迎える場所であり、外界への扉だ。
 外からやってくるものがすべて良いものとはかぎらないが、外がないものを待つのは記したように緩慢な衰退である。文化は交通や流通から生まれる。「外」のない文化というものをはたして想像できるだろうか。
 さらに言えば「外」は鏡でもある。外がないと我々はおそらく自分たちの姿を確認することができない。外がなければいつか我々は想像とあまりに違う自分の姿を目にして驚くことになるかもしれない。
 翻訳というもの、翻訳をする者を必要以上に称揚するつもりはないが、翻訳者は交通や流通に携わるものであり、その種の者を増やし、育てることは大きな利益をもたらすことになるだろう。交通や流通は今後の世界にとってかぎりなく大きな意味を持っているように思う。

 もう一度、日本翻訳大賞を運営する立場に戻ると、授賞式の会場を提供してくださっているデジタルハリウッド大学などの協力もあって、授賞式収入も見込めるようになり、資金を自分たちである程度は調達できる見こみがついている。選考委員やこれまでの受賞者に協力いただき、「日本翻訳大賞文庫」といった趣の同人誌的な電子書籍を販売する企画なども検討している。しかしそれだけで賄うことはまだすこし難しいだろう。寄付も同時に募るので、これまで同様、ご支援をお願いできれば幸いである。

 第6回から、毎年ゲスト選考委員に加わっていただいて、選考委員が6人体制になる。最初のゲストは韓国文学の翻訳者斎藤真理子氏である。

 最後にさきほどよりさらに個人的なことを述べる。筆者は子供の時分に郵便配達人になりたかった。手紙を運ぶ仕事がいいように思ったのである。そしてその夢はなかば叶えられたのかもしれない。翻訳はつまりは手紙を届けるようなものでもあるのだから。

日本翻訳大賞授賞式
第5回日本翻訳大賞授賞式 2019.4.27 於デジタルハリウッド大学 photo©Tatsuki Nakata

 

日本翻訳大賞受賞者および作品

第1回(2015年)
受賞者:阿部賢一、篠原琢、ヒョン・ジェフン、斎藤真理子、東江一紀(読者賞)

エウロペアナ

エウロペアナ: 二〇世紀史概説

パトリク・オウジェドニーク著、阿部賢一/篠原琢訳、白水社

きわめて「現代文学的」な作品。歴史と小説の出会い。

カステラ

カステラ

パク・ミンギュ著、ヒョン・ジェフン/斎藤真理子訳、クレイン

韓国文学流行の口火を切った作品。読者を選ばない。誰もが楽しめる。

ストーナー

ジョン・ウィリアムズ著、東江一紀訳、作品社

一人の学者の人生を描く。ずっしりとした読後感。

第2回(2016年)
受賞者:金子奈美、関口涼子、パトリック・オノレ

ムシェ

ムシェ 小さな英雄の物語

キルメン・ウリベ著、金子奈美訳、白水社

バスク語で書かれた作品。縦糸横糸がたくみに紡がれた精緻なオートフィクション。

素晴らしきソリボ

素晴らしきソリボ

パトリック・シャモワゾー著、関口涼子/パトリック・オノレ訳、河出書房新社

クレオール文学の傑作。語りの魔術。

第3回(2017年)
受賞者:藤井光、松本健二

すべての見えない光

すべての見えない光

アンソニー・ドーア著、藤井光訳、新潮社

とにかくページをめくらせる。読者をまったく選ばない。高いリーダビリティー(読みやすさ)。

ポーランドのボクサー

ポーランドのボクサー

エドゥアルド・ハルフォン著、松本健二訳、白水社

オートフィクションとして巧みな構成、きわめて現代的な文学。

第4回(2018年)
受賞者:吉川凪、関口時正

殺人者の記憶法

殺人者の記憶法

キム・ヨンハ著、吉川凪訳、クオン

韓国文学の広さを示す小説。リーダビリティー高い。

人形

人形

ボレスワフ・プルス著、関口時正訳、未知谷

ポーランドの大古典。新聞小説で大人気となった。大冊だが『吾輩は猫である』のようにするすると読める。

第5回(2019年)
受賞者:木下眞穂、木原善彦

Galveias150

ガルヴェイアスの犬

ジョゼ・ルイス・ペイショット著、木下眞穂訳、新潮社

マジックリアリズム的なカラフルさと同時に滋味も具えた作品。

JR

ウィリアム・ ギャディス著、木原善彦訳、国書刊行会

実験的、長大、しかし読みやすい。アメリカ文学の金字塔。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

西崎憲
西崎憲

にしざき・けん 翻訳家、作家、アンソロジスト。訳書にコッパード『郵便局と蛇』、『ヴァージニア・ウルフ短篇集』、『ヘミングウェイ短篇集』、バークリー『第二の銃声』など。編纂・共訳に『短篇小説日和』、『怪奇小説日和』、ウルフ『ピース』(共訳)など。著書に第十四回日本ファンタジーノベル大賞受賞作『世界の果ての庭』、ほかに『蕃東国年代記』、『ゆみに町ガイドブック』、『飛行士と東京の雨の森』、『全ロック史』など。歌集『ビットとデシベル』刊行(歌人名フラワーしげる)。音楽インディーレーベルdog and me recordsと電子書籍レーベル〈惑星と口笛ブックス〉主宰。2016年フジロックフェスティバルでトラッシュキャン・シナトラズをトランペットでサポート。同年から3年間刊行された文芸ムック『たべるのがおそい』編集長。


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