たとえば、その土地自体にも周辺にも大した天然資源がなく、かと言って交通の要衝でもなく、その上に面積も非常に小さい、ありふれた地域や島があるとする。ところが、それが二つの大国に挟まれていたりすると、時と場合によっては、血で血を洗う「領土紛争」の現場になる。
私は、子供の頃から不思議であった。こんなところを争う人的・物的負担を考えれば、あっさり相手に譲る方がいいのではないか。そうでなければ、ジャンケンかクジ引きにしたらよいのではないか。
これはある意味で完全に正しいが、別の意味で全くの無知から出る考えである。なぜなら、これは、「所有」という観念の争いで、物の価値自体の問題では無いからである。
私が昔「譲ればよい」説を述べたところ、当時のクラスメートは即座に言った。
「そんなことをしたら、他のところも譲れと言われて、最後に国が取られる」
「ジャンケン」論を主張したら、
「こんな大事な事を、そんなことで決められるわけがない。もっと大きくて重要な場所でもジャンケンで決めるのか!」
この議論は、その時争われている当の土地を問題にしていない。問題は「どちらのものとするか」という所有権のみに関心が集中している。つまり、問題は「所有」という観念なのだ。
だいたい、「所有」とは事実ではなく、制度である。この世の誰が作ったわけではない土地に、勝手に線を引いて「こっちからこっちはオレのもの」などというアイデアにまともな根拠が無いのは当然であろう。
ならば、「自分で作ったもの」の所有は当然なのかと言えば、それも僭越な話である。なぜなら、その「自分」を自分で作っていないからだ。この話は、根拠の底が最初から抜けているのである。だから、近代以降の思想では、わざわざ身体は無条件に自分の所有物と決めて置いて、その身体の労働の結果を、さらなる所有の権利のあるものと認めたのだ(ジョン・ロック)。
根拠が無いのにもかかわらず、大国がわずかの土地に拘り、桁外れの大金持ちでもさらに金を欲しがるのは、所有欲の対象が物ではないからである。では何を欲望しているのか。
それは無いはずの「根拠」である。
あらゆる「所有」には、実は根拠が無い。
それは人工的に合意して制度として納得するしかない。ならば、「所有」は所有し続けること、闇雲に所有を欲望し続ける行為で、その意味を補填するしかない。底の抜けたバケツに水が満ちているように見せかけるには、際限なく水を流し込むしかない。
もう一つ、所有物は、必要物ではない。必要物なら、すでに使っているか、すぐに使い切って、所有する余地が無い。いわゆる「剰余物」しか所有の対象にはならない。ではなぜ、人は当座必要の無い物の所有に血道をあげるのか。それは、所有を自己の存在根拠に代用するからである。
近代以降の社会は市場を基盤に形成される。この取引と競争を基軸とする社会でこそ、所有は問題になる。所有は取引と競争の前提であり、取引と競争に参加できない人間を、市場は必要としない。
ならば、「市場的人間」は、自分の幻想的な存在根拠を保つため、際限なく所有し続けなければならない。すなわち、他人が欲しがるものを、他人より多く所有しなければならない。自分の趣味であろうが無かろうが、必要であろうが無かろうが、とにかく所有することで、「市場的人間」たる自分の存在を強化し、正当化しなければならない。
「市場的人間」とは、いわば「われ思う、ゆえにわれ有り」の人ではなく、「われ所有する、ゆえにわれ有り」の人である。「考える葦」ではなく、「所有する葦」なのだ。だから、「市場的人間」は、自己決定と自己責任という浅はかなアイデアを金科玉条のごとく喧伝するのだ。
「所有」とは、廃棄や破壊も含めて、自分の思いどおりにできることであり、その範囲での責任を取ることだからである。これはまさに自己決定と自己責任の核心的意味で、こんな思い上がった考え方は、市場以外では通用しない。いま、これが大手を振っているのは、市場が経済を超えて、不躾にも社会全体を侵食しているからである。
すると、ゴミ屋敷の主人も、「断捨離」の御仁や、「ミニマリスト生活」主義者の所業の意味も、わかろうというものである。
あるゴミ屋敷の主人は、これは「ゴミ」ではなく「資源」だと言い続けていた。もしゴミなら所有する意味が無く、市場化した社会からはじき出される。「資源」ならば、所有の対象となり、社会との縁が幻想的に保たれる。
結果的に「ゴミ」が溜まったのではなく、意図的に「資源」を「所有」し続けるなら、この人物は、事実として孤立に陥っていても、「市場的人間」であることを諦めていないのである。それは、この社会では「人間」を諦めないことなのだ。
だとすると、意図するところなく、様々な事情から、結果的にゴミ屋敷になってしまったところに暮らしている人は、社会から孤立し、そのような自分を「ネグレクト」し、この社会において「人間」であることを諦めてしまったように、私には見える。
反対に、断捨離してミニマリストになり、何も物を置かないような部屋に住んで悦に入っている人がいるが、これはゴミ屋敷の主人のネガである。断捨離は「所有」の一形態であり、物を思いどおりにすることとしては、まるで同じである。
だから、我々は「何もない」部屋に魅了される時があるのだ。「何もない」部屋は「何でも入れられる」部屋である。あの部屋は、裏から人間の所有欲を刺激しているのだ。断捨離が流行るのは、社会が極端に市場化されているからである(昔、『清貧の思想』という本が流行ったが、発想は同じ)。
人を「人材」と呼んで憚らないのは、人間を商品として取り引きするからである(これほど貧しい人間観は、未だかつてこの世に無い)。
「個性」を大声で叫ぶのは、交易が空間の差異から利益を引き出すように、人の差異に意味があるように錯覚するからである(所詮、同じDNAなのだ。さほどの違いがあるわけがない)。
「夢」や「希望」を扇動して止まないのは、投資が時間差で儲けることを手本に、不確かな将来の為に今の自分を犠牲にする行為が、あたかも「美徳」であるかの如く洗脳するためである(40も過ぎれば、その馬鹿々々しさに嫌でも気づくだろう)。
仏教には「貧学道」という言葉がある。基本的には、修行僧は衣食住が十分満たされることを欲せず、本当に必要な物のみを持って、修行に励むべきだということである。そして、この「貧」の意味を学ぶべきだと言う。
これを「学道」だと言う以上、生活苦のような貧困状態に甘んじていろ、などという馬鹿げた話ではないことは、無論である。学ぶべき「貧」とは、欠乏生活の賞揚でも断捨離の押し付けでもなく、その根本にある、「所有」という錯覚的行為に対する根源的な批判なのだ。「所有」は、無いはずの根拠を有るかのように錯覚させる。仏教はそこを撃つ。
錯覚で突進すれば、いずれ厄災が来るのは目に見えている。市場化の果てに気候危機がやって来たが、SDGsなるものも、その底に市場の論理が働いているなら(二酸化炭素の排出量「取引」などという思いつきが、既に危険だ)、本物の厄災となって、社会を破綻させるだろう。
我々はものを「所有している」と考えるのではなく、当面の間「借りている」と考えたほうが良い。いずれ返すなら、返せるように使うべきであろう。自分の体も、所詮借りものだ。作らなかった以上、そう思う他あるまい。丁寧に使って、きちんと返すべきなのだ。
※次回は、5月8日月曜日更新の予定です。
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南直哉
みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 南直哉
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みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。
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