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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年3月18日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第2回 遍路という“トポス”

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人(どうぎょうににん)」の日々――。

父の供養も目的の一つ

 9月17日、徳島市内のホテルに前泊した私は、JR高徳線で一番札所霊山寺(りょうぜんじ)の最寄り駅板東(ばんどう)駅へと向かった。二輌電車の中にたった一人お遍路さんらしき若い外国人男性が座っていた。歩きのお遍路さんは今や日本人よりも外国人の方が多いくらいだ。「お遍路ですか?」声をかけると、俄に顔をほころばせて隣の席に移ってきた。

 ドイツから来たという26歳。二度目の遍路で、前回歩き終えた三十四番種間寺(たねまじ)からスタートするそうだ。杖と白衣を買いに霊山寺に立ち寄り、そのまま高知へと向かう。身体も大きいが声も大きく、とにかく明るい。

 「どうして遍路をすることにしたの?」と尋ねると、ふっと真顔になった。「わかりません。でも遍路には何か特別な力があります」。

 仕事で悩み、心身ともに病んでいた状態で最初の遍路にやってきた。そして遍路を機に人生を転換することにしたという。

 「帰国したら、ソーシャルワーカーとして新しい職場で働くんです」。「道行く人に“お接待”をする四国では、すべての人がソーシャルワーカーね」 

 お接待とは無償で施しをする慣習だ。私がお接待文化に触れると、彼は何度も深く頷いた。「確かに、彼らは真のソーシャルワーカーだ!」。

 第一次大戦下のこの町に、ドイツ兵俘虜(ふりょ)収容所があり、俘虜を人道的に処遇したことは有名な話だ。住民と俘虜の間にはさまざまな交流も生まれたという。お接待、善根など遠来の客を寛容に受け入れもてなすという精神と習慣が風土に根付いていたからこそだ。この地にそのような歴史があったとは、彼は思いもしないだろう。

 新品の白衣をまとい金剛杖を携えてすっかりお遍路さんになった彼と共に参拝する。霊山寺は弘法大師の念持仏であった釈迦誕生仏を本堂に納めることから、四国八十八ヶ所の第一番札所と定められた。

 「気を付けて、良き巡礼を!」山門で握手を交わすと、大きなリュックをゆすりながら真昼の板東の町へと消えていった。

ドイツ人のお遍路さん。一番霊山寺にて

 

おのが振る鈴とむつんで秋遍路   黛 執

 

 1600キロに及ぶ「同行二人」の旅がふたたびはじまる。

 二度目の巡礼は「母のため」であるが、父の供養も大きな目的の一つだ。父には遍路を詠んだ名句が多い。私の遍路記(前掲)を読み、歩き遍路に強く興味を示した。「あと三十歳若ければ、歩いてみたかったな…」。

 登山が趣味だった父は何度もそう呟いた。同行二人、遍路中はいつも弘法大師空海が一緒にいてくださるが、亡き父も共にいてくれるはずだ。心臓や腰に疾患があった父には叶わぬ夢だったが、身体を持たぬ今なら楽に巡拝できるだろう。

 私は遺影と父の念珠を丁寧にハンカチにくるんで、リュックのポケットに入れた。我が家の菩提寺は曹洞宗だが、念珠は高野山で買ったものだった。父がなぜ、いつこの念珠を求めたのか訊くすべはもうない。念珠の親玉を青空に透かして見上げると、弘法大師の御姿がくっきりと浮かび上がった。

 秋遍路のつもりで彼岸の頃を選んだが、この年 (2023年)の9月の残暑といったら度を超していた。秋風どころか熱風が全身にまとわりつき、日向を歩いているとたちまち汗だくになる。

 午後3時、既に自販機でミネラルウォーターを買うこと三度。それでも身体の中に焼け石を抱え込んでいるように、乾きが突き上げてくる。たまりかねて四番大日寺(だいにちじ)へと向かう途中の寺で水を求め、ペットボトルに詰めた。

 ところで、札所を巡拝することを「打つ」というが、これは納め札が今のように紙ではなく木製や銅製だった時代に、札を本堂や大師堂の柱などに釘で打ち付けていた習慣に由来する。

 4時25分、大日寺に到着。4時半以降は燈明や線香を供えてはいけないというので、札を納め、般若心経を唱える。すると道中で度々顔を合わせた日本人と外国人の男性二人連れと再会した。聞けば連れではなく今日たまたま出会ったのだという。

 外国人は30代後半のドイツ人でフィリップと名乗った。遍路をするつもりで来たのではなかったが、巡礼者を見ていたら関心を持ち、四番札所まで歩いてきたと言う。たしかに軽装だ。

 「今日泊まる宿を決めていないらしいんです。すみませんが、あなたの泊まる宿に交渉してあげてくれませんか?」日本人のお遍路さんに頼まれて、ひとまず一緒に宿へ向かうことになった。

 今から電話で空室を確認しますね、と私が言うと、彼は「それはスマートですが、宿に着いて部屋があるかないか訊くことにします」と言う。なかったらどうしますか? そう重ねると、

 「なんとかなるでしょう。今回の旅はすべて成行きに任せると決めてきました。そしたらすべてがより素晴らしい方へといくんです!」

 途中、柿を拾って食べたり、蟷螂(かまきり)を摑まえたり、そうかと思えばじっと佇んで古い日本家屋を愛でたりと好奇心旺盛だ。

 宿は素泊まりのドミトリーなら空いているということだった。「パーフェクト!」彼はコンビニに夕食と着替えの下着を買いに出かけた。結局私の食事もドミトリーに運ばれて、遍路初日の夕食はドミトリーの若者たちと共にすることになった。フィリップはフランクフルトで“禅”の修行をしているそうだ。それぞれの食事を分け合いながら話が弾む。

 貧困に苦しむ子供たちのためにチャリティ活動をしているというフィリップ。「いつか僕も遍路をしながら募金を集めたいと思います。その時はあなたもまた歩いて、子供たちのために俳句を詠んでください。素敵なアイディアでしょう?」。

 これこそ巡礼者の食事だ。体調が回復せず食欲のない私に彼が言った。「胃が悪いのは考えすぎだから。考えたことは脳の中で堂々巡りさせずに、口に出して、自分を赦して」。それは前回の遍路の結願(けちがん)間際に何人かの人に言われた言葉と同じだった。「考え過ぎないことです」…。出会いによってもたらされた、たくさんのメッセージは不思議なくらい符合し、連続し、紡ぎ上げられた。それは、あたかも一つの意思に拠るかのようだった。

 今回の遍路でも、見知らぬ人々との出会いを通してきっとメッセージを受け取るに違いない。確信はあったが、既にもう始まっているようだ。

 ややあって彼が言った。「明日遍路に一日同行させてもらえますか?」。断る理由はない。明日は別格一番大山寺(たいさんじ)を打つ。「別格霊場」とは八十八か寺以外の空海ゆかりの二十か寺で、八十八か寺とあわせて煩悩の数一〇八になる。

 夜11時、お遍路さんにしては夜更かしをして布団に入った。

路面温度40℃ もの秋遍路

 翌朝7時過ぎに宿を出発した。大山寺へ向かう前に、五番地蔵寺(じぞうじ)を打つ。本堂と大師堂で読経をしている間、フィリップは樹齢八百年と伝わる大銀杏の木蔭でその様子をじっと見ていた。読経といっても私の場合は般若心経と各寺のご本尊真言、ご宝号を唱えるのみだ。ご詠歌もご和讃も唱えないのでさして時間はかからない。

 「奥の院に五百羅漢があるようです。行ってみませんか?」。大山寺参拝を控えているので、私一人ならまず奥の院へは行かなかっただろう。“成行き”に任せることにし、奥の院を訪ねた。

 「コ」の字型に配置された五百羅漢堂は、まだひっそりと冷たい静寂の中にあった。中央の釈迦堂に鎮座する釈迦如来像を取り巻くように、木造等身大の羅漢像が並ぶ。大正時代に三百体を焼失し今は二百体程の羅漢が喜怒哀楽の表情を浮かべている。その中に必ず亡き人に似た顔があるという。

 ここに来たのは父に会うためだったのか。私は父を探した。羅漢のどの一つも見逃すことのないよう、端からつぶさに見ていった。が、みなインド風もしくは中国風の顔つきで、父に似た顔は一つとして見つからなかった。そんなものかとがっかりして外に出ると、フィリップが待っていてくれた。

 大山寺への道はしばし高速道路に沿って歩く。高速道路という日常と遍路という非日常がすれ違う。車が騒音を立てながら走り抜けていく。こちらは大きな荷物を背負い、鈴の音をこぼしながらかたつむりのような歩みで進む。

 つい二日前には私も高速バスの車中にいたことが夢の中のことのようだ。思えば私たちは、何というスピードで日常を生きていることか。

 今日の最高気温の予報は32℃。日向(ひなた)のアスファルトの路面温度は40℃以上になっているはずだ。今日ももう二本目のペットボトルを飲み干してしまった。太陽から逃れるように小さなトンネルに入ると涼風が吹き抜けた。

 露草、葛の花、ホトトギス、水引草、萩…暑さとは裏腹に草花はすっかり秋にある。しだいに右膝に痛みを感じるようになっていた。前回の遍路で左膝の靭帯を傷めてしまい、古傷は今も運動をすると痛む。しかし今日は右膝だ。嫌な予感が過ったが、きっと明日になれば回復するだろうと気持ちを切り替えて歩く。

 11時過ぎに大山寺の山門に到着。さらにそこから古びた石段が二百六十段、上に向かって伸びていた。境内に着くと、木蔭に荷物を置き思い思いに過ごす。ご本尊は千手観世音菩薩。読経を終えると、納経所で別格霊場初の御朱印をいただいた。

 ここ大山寺のように別格霊場には山中にある寺が少なくない。三番慈眼寺(じげんじ)や七番出石寺(しゅっせきじ)、後半に連続する別格霊場も、遍路道からはだいぶ離れた山中にある。その一つ目をようやく納めたのだ。安堵感と共に膝の痛みと不安もまた頭をもたげる。が、先々のことをあれこれ心配しても仕方がない。“成行き”に任せるとしよう。

大山寺山門の仁王像

 弁当を食べて山を下りはじめると、道端に1メートル近い蛇が横たわっていた。鱗で覆われた黄色味がかった皮膚にはまだ艶があり、どうやら死んで間もないようだ。「ドイツではこんなに大きな蛇は見ません」フィリップは屈むとそっと蛇を撫でた。「ああ、君の皮膚はこんな感触をしていたんだね…初めて知ったよ」そして、ありがとうと言うと蛇から離れた。

 その後もフィリップは蝶の大きさに驚き、蜥蜴(とかげ)の美しさを称えた。彼のこころと五感は常に開かれていた。

 下りはじめて右膝の痛みが一気に増した。休憩のため四阿(あずまや)に入った途端、ばらばらと(ひょう)が降るような大きな音がした。大風が吹き、したたか団栗(どんぐり)を落としたのだ。

 「きっと山が歓迎してくれているのね」

 風や雨、花、鳥、虫、団栗などを介して、自然が呼びかけてくるような、親しんでくるようなことがある。遍路でこのような瞬間に出遭うたびに私は“命の根源”を思う。人も自然も根源は同じではないか。

 そして“霊性”を考えずにはいられない。遍路では“仏性”と言う方がふさわしいかもしれない。一切(いっさい)衆生(しゅじょう)悉有(しつう)仏性(ぶっしょう)というように、あらゆるものが本来もっている「仏」としての本性だ。

 また遍路道に遍在する“意思”のようなものを感じる。五百羅漢も、蛇も、団栗も、この不思議な道行も、目には見えないものの“はたらき”の顕れではないか。そんなことを話しながら、遍路ではいきなり深い話ができるのだと言うと、フィリップは頷いた。「遍路とはそういう場“トポス”、ですね」。

 遍路は来るものを拒まず、弘法大師は誰にでも寄り添う。そして囁き続ける。ある時は風となり、雨となり、花となり、木の実となり、月となり、星となり、ある時は道行く人の口を借りて、呼びかけ続ける。それらの“サイン”を受け取れるかどうかは、こちら側にかかっている。私たちが気づかなくても、大師が諦めることはない。それが同行二人なのだ。

 うどんを食べた後、バスで徳島市内へ戻るフィリップと別れた。「君と出会わなければ、こんなに素晴らしい旅にはならなかった。ありがとう」。それはあなたが“成行き”を信じたからよ、と答えると彼は目に涙を滲ませた。

 「Life is beautiful…should be beautiful.もし僕らが“執着”を手放すことさえできれば」

 

 観音の千手に余る木の実かな     まどか

 

*次回は、4月1日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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