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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年4月1日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第3回 人生を「どちら側」からながめるか

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人(どうぎょうににん)」の日々――。

ズキズキと痛み出した右膝

 7世紀後半、修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)石鎚山(いしづちさん)で修行をしたことで、四国は山岳信仰の場となり、同じく天平年間には法相宗(ほっそうしゅう)の高僧行基(ぎょうき)が四国を巡り歩いて教えを伝えた(巡錫)(じゅんしゃく)。やがて海岸をめぐる辺地(へじ)や山岳で修行をする修験者たちが現れる。若き日の空海もその一人だった。

 当初の遍路は宗教者によって専ら行われていた。今のように一般庶民が遍路をするようになったのは江戸中期とされる。1687年、高野聖の眞念が『四國徧禮道指南(しこくへんろみちしるべ)』を刊行し、庶民向けに修行者たちとは違う安全なルートを記した。「同書の刊行は、修行の“辺路”から巡礼の“遍路”への画期となった」(愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センター 『四国遍路の世界』収録、胡光(えべすひかる)「第3講 江戸時代の遍路日記に見る四国」)。

 そうした発展の中で、遍路は物見遊山的な娯楽性も伴うようになった。他方、難病を抱えたり、罪を犯したりして故郷へ帰ることができなくなった人たちが遍路に出るようになる。彼らは托鉢(修行)をしながら生涯四国を巡り続けた。職業遍路、草遍路と呼ばれる人たちだ。現在も少ないながら修行の遍路や草遍路がいる。

 しかし、圧倒的に多いのはそれ以外の人たちだ。老若男女、彼らの目的はさまざまだ。近年ではSNSの発達により外国人が急増している。歩き遍路の半数を超えるというデータもある。晴と()、聖と俗、また多宗教・多人種を抱え込む四国遍路は、多様性が渦巻いている。

 朝7時、六番安楽寺(あんらくじ)境内の池のほとりに巨漢の外国人が寝そべっていた。全身にタトゥーが入っていて、まるで錦鯉みたいだ。もし白衣を着ていなかったら、とても話しかける勇気はなかっただろう。

 「Good morning!」挨拶をすると、髭の中から思いもよらない愛らしい笑みをこぼした。第一印象や見かけで人を判断してはいけない。

 朝から右膝がズキズキと痛む。きっと古傷の左膝を庇いながら歩いていたのだろう。(もっと)も数日前まで寝込んでいたのだ。身体のどこが故障を起こしても無理もないことだ。今日の最高気温は33℃の予報。十一番藤井寺(ふじいでら)までの25キロの道筋にはあまり木蔭がなく、日本最大とされる吉野川の中洲は免れようのない暑さが容易に予想された。

 六年前桜の下をくぐった八番熊谷寺(くまだにじ)だが、今日は萩の花を分けて入る。納経所脇の日蔭でタトゥーの外国人や茶髪の女性が休んでいた。タトゥーの彼はニューヨークから来ていた。みな異常な残暑に閉口している。「わたし、お遍路なめてました」女性が煙草の煙を吐きながら言った。

 私も然り。お遍路の厳しさは知っていたが、9月の四国をなめていたと思う。彼女は遍路ころがし(難所)で有名な十二番焼山寺(しょうさんじ)の手前で離脱することにしたそうだ。

 「これじゃあ、夏のお遍路や」…宿の主の言葉が度々甦る。明日の焼山寺は遍路で二番目に高い(標高800メートル)山岳札所で、三つの山を一日で越えなくてはならない。暑さが体力、気力、食欲と何もかもを奪っていく。ひどくなる一方の膝の痛みをこらえながら、この身体で登り切ることができるだろうか。

 意識が朦朧としかけた時、後ろから来た車が止まり、運転席の男性が声をかけてきた。「暑い中大変ですね。今日はどこまで?」。十一番藤井寺までだと答えると、「あれ、もしかして黛まどかさんじゃないですか⁉」と声を上げた。男性はTさんといった。興奮して車から降り、捲し立てるように話し出した。Tさんは地元の人ではなく、今日たまたまこの道を通ったそうだ。それから驚くことを口にした。「日和佐の名田さんが…」。

 名田さんとは、三十年近くお接待を続け、仲間と共に日和佐(徳島県)の遍路道に「俳句の小径」をつくった女性だ。数年前、拙著を読んだと丁寧な手紙をくださり、何度かやりとりをしていた。日和佐を通るときにはお訪ねしようと、手紙を持参していたのだ。その名田さんの名前が、行きずりの人の口から出たのだ。今度はこちらの方がすっかり興奮してしまった。

 お大師様のお導きだろうか。予想だにしなかった不思議な出来事は、私に聖書学者H・S・クシュナーの一文を想い起こさせた。

 「人生を私たちの側からながめるなら、神の処罰や報奨の形は、独断的で構図もない、まるで裏から見るつづれ織りのようです。しかし、私たちの人生を外から、神の側から見てみると、ゆがめられたものや結び止められたもののそれぞれが、素晴らしい構図を生み出すために適切な位置にあり、立派な芸術作品を作り出していることがわかるというのです」(『なぜ私だけが苦しむのか』岩波現代文庫)

 名田さんのご子息は20歳で難病を発病。長い闘病の間にはご主人が他界され、その後ご子息も42歳の若さで亡くなっている。長きにわたり善根を積まれてきた人が、なぜそのような目に遭うのか。

 善人が災いに襲われなければならない問題について劇作家ソーントン・ワイルダーの著書を引きながら解説する“つづれ織り”のメタファは、名田さんの多難な人生をなぞる時、(にわか)に説得力を持つ。

 「私たちの側」から見ている世界だけがすべてではない。いまこうして私が立っている場所にも、過去の様々な出来事や、数えきれない人々の感情が堆積し、念や縁となって縦横無尽に存在している。それらは少なからず現象世界に影響を与えている、そう考えてしかるべきだろう。げんに、あと数分この場所を通るのが遅くても早くてもTさんには行き合わなかったのだから。

 車が去った後、額を流れる汗に目をしばたたかせながら、今起こっていることを整理しようと必死で頭を回転させていた。しかし考えれば考えるほど、この摩訶不思議な邂逅も「神の側」から見れば芸術的な“つづれ織り”の一部に思えてくるのだった。

四国遍路の最大の難所「焼山寺」へ至る山道
四国遍路の最大の難所「焼山寺」へ至る山道

最初にして最大の“遍路ころがし”

 九番法輪寺(ほうりんじ)を打ち、細い車道を十番切幡寺(きりはたじ)へ向かって歩く。が、暑さと右膝の激痛でなかなか前に進まない。脛も痛み出した。

 切幡寺は本堂へと続く長い石段がある。なんとか参拝は果たしたが、下りでいよいよ右膝が悲鳴を上げはじめた。一歩につき20センチほどしか進まない。既に二時を過ぎていた。その様子を見ていた参道の仏具店のご主人が車で送りましょうか?と申し出てくれた。

 「本当は完歩(全行程を歩きとおすこと)されたい方ですよね?」。一口に歩き遍路といっても、たとえ1メートルでも交通機関は利用したくない人と、利用できるところは利用する人に大きく分けられる。「でも今のままでは明日の焼山寺は難しいでしょう。早めに宿に入って脚を休ませた方がいいと思います」。

 前回の私ならお気持ちだけ受け、歩いたと思う。しかし今回は体調が万全でない上に別格二十霊場参拝もあり、まだまだ先が長い。お言葉に甘えて藤井寺近くの宿まで送っていただくことにした。

 この日の宿泊者は男性二人に女性二人。コロナの感染対策で食堂ではテレビに向かって一列に座る。向き合わないので隣の若い男性としか話ができない。前列の男性は見覚えのある横顔だった。初日に出会った横浜からのお遍路さんだ。

 「ここで一緒になりましたね!」私の声に男性が後ろを振り向いた。遍路道で彼は荷物の重さをぼやいていた。聞けばスマホ五台とバッテリーチャージャー四台を持ってきているという。様々な機能を駆使してフル装備で臨んだようだ。遍路の間くらいデジタルデトックスしませんか? つい余計なことを言ってしまったが、男性は「できません」と爽やかに返した。

 明日は最初にして最大の“遍路ころがし”焼山寺だ。期待と不安で話が膨らむ。先ほどから背中しか見えない若い女性が気になった。「お隣の方も明日は焼山寺を打ちますか?」声を掛けると、くるっと身体を反転させた。「迷っているんです。初めてなので心配で…」とても不安そうだ。「だったら一緒に登りませんか? 険しい道のりだからみんなで登った方が楽しいし!」。

 翌朝6時、四人揃って宿を出た。右膝は昨日少し休ませたのでなんとか(しの)げている。7時半、藤井寺境内から焼山寺を目指して山道を登りはじめる。距離にすれば13キロほどだが、三つの山を登っては下るという行程だ。

 横浜の男性がお地蔵様の前で立ち止まった。どうやらポケモン・ゴーも進行中のようだ。「こういう所に面白いモンスターがいるんですけどね。先を急ぐので止めておきます」。私はお地蔵様の傍らに咲く野花の方が心惹かれるのだが。

 同じ道を歩いているようでも、それぞれに見えている風景も見ているものも違うのだろう。認知科学によれば、人は見えるものではなくて、見たいものを見ているのだという。ただ“歩く”ということだけが私たちを等しく貫いている。

端山からの眺め

 端山(はばやま)休憩所に着いた。吉野川を見下ろす眺望は良いが、事前に注意されていた通りスズメバチが物騒な羽音を立てて、周囲を飛び回っている。冷や冷やしながら、休息もそこそこに私たちは再び歩き始めた。

 焼山寺への道には今も遍路墓が残る。その下には遍路の途上で息絶えた人々が地元の人たちによって葬られ、今も眠っている。ほとんどが江戸後期から明治期のものだ。かつて遍路は死出の旅でもあった。

 「昨夜声を掛けていただいて本当に良かったです。一人では歩けませんでした」女性は智恵さんといい大阪から来ていた。お遍路さん同士は暗黙の了解として動機を尋ねることはしない。重い理由を背負って遍路をしている人が少なくないからだ。

 しかし私は外国人と若い人には遍路の理由を訊くことがある。「お若いのに、よく一人で遍路を決意しましたね」振り返って尋ねると、智恵さんが言った。「母を亡くしたんです。昨年の春」。

 

*次回は、4月15日月曜日更新の予定です。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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