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私の同行二人――ふたたびの四国遍路

2024年7月15日 私の同行二人――ふたたびの四国遍路

第11回 「ありがとう」が湧き出すとき

著者: 黛まどか

俳人・黛まどかは、とてつもなく「歩く人」だ。これまでも国内外の巡礼の道をいくつも歩いてきた。これという定かな理由はない。ただ、仕事と暮らしに追われる日常の中、ときに無性に歩きだしたくなる。旅に出たくなるのだ。今回は二度目の四国八十八ヶ所霊場に加えて別格二十霊場、併せて百八か寺・1600キロを二か月かけて歩く。ときに躓き、道に迷いながらも、歩いて詠む、歩いて書く「同行二人(どうぎょうににん)」の日々――。

手許に戻ってきた金剛杖

 ほっとしてベンチの方に向かうと、男性のお遍路さんが座っていた。「もしかして大坂遍路道を来ましたか?」。はいと言うと、驚いた顔をした。「いやあ、突然現れたからそうかなと。キツかったでしょう?」大変でしたと答えると、「その割にはケロっとしてましたよ」と褒めてくださった。“辛いときほど笑顔で”を実践できていたことが嬉しかった(心の中は泣いていたのだが)。

 男性はKさんといい、70代半ば。お遍路は五回目だ。「今回で最後にしようと思ってるんですけどね」と言った後で「でもすぐに戻ってきちゃうかな」と自問自答するように言った。「お四国病ですね」私が言うと、「そうかもね」と笑った。お四国病とは、遍路に魅せられて憑かれたように何度も四国遍路にやってくることを言う。

 ベンチに金剛杖を置こうとした時だった。杖の頭に付けていたカバーがないことに気が付いた。険しい道の途中で落としたに違いない。ここまで苦楽を共にしてきたカバーだ。ショックを受けていると、「確か今日お泊りの岩本寺宿坊の売店で売っていますよ」と慰めてくれた。

 KさんはGPSマップはほとんど使わず、昔ながらの地図を頼りに歩いている。「間違えながらも、地図を見て自分で考えて歩かなきゃ遍路じゃないですよね」と。「ご苦労様です」草引きをしていたお年寄りが手を止めて挨拶する。「農作業をしている人に(ねぎら)われるたびに恥ずかしくなるんです」と言うと、「本当に。なんか恐縮しちゃうよね」とKさん。

 休憩を取りに四阿(あずまや)に入ると、昨夜のゲストハウスに電話をかけた。遅出のあのお遍路さんに、途中で杖カバーを見つけたら拾って来てもらうよう託したのだ。山道で落としたら見つからないでしょう、とKさんは言うが、なぜか手許に戻ってくるような気がする。カバーを手に感激する自分の姿が浮かぶのだ。

 夕刻、宿坊の夕食会場に入ると、杖カバーを手に男性が立っていた。「はい、ありましたよ」。Kさんが目を丸くした。「ここまで歩いてきて思い入れがあるカバーでしょうから、絶対見つけてあげなきゃと必死でしたよ」男性がほほ笑んだ。クールで近寄りがたい印象だった彼の別の一面を見た思いだ。

 食事を終え部屋に戻ると、金剛杖にカバーを被せて紐をしっかり巻きつけた。想像通り、カバーを手にして感激する私がここにいる。またしても現実の方が後から追いついてきた。

 翌朝、十数キロ先の宿を目指して、宿坊を遅めに出た。遍路の距離としては短すぎるのだが、前回もお世話になった農家民宿のおかあさんに会いたいのだ。金木犀の甘い香りが時折漂う中、伊与木川に沿って歩く。

 宿は遍路道を数キロ逸れたところにあるため、宿のおとうさんが市野々橋まで車で迎えにきてくれていた。「9月はあんなに暑かったに、10月になったら急に気温が下がったき、慌てて炬燵出しました」「異常気象ですね」と言うと、おとうさんは頷いた。「もっと人間は慎ましうせんといかんがやないろうか。生活そのものを見直さんといかんと思うがですよ」。

6年前にもお世話になった農家民宿「かじか」

 広い屋敷の庭先でおかあさんが待ってくれていた。今回も二階建ての離れに一人で泊めていただく。「6年前とすべて同じです。変わったのはこの夫婦が年を取っただけです」そう言って夫妻は笑った。102歳のおばあさんを看取った離れには、家族の歳月と思いがしみ込んでいる。

 先程からおかあさんが少し動く度に胸を押さえ、息を整えているのが気になっている。実はこの週末は夫婦で東京へ出かける予定だったが、おかあさんの体調が悪いため、東京へ行くのを止めて検査入院することにしたそうだ。旅行がキャンセルになったので、私は受けていただけたのだ。

 「検査結果が悪かったら、これ以上は治療せんと、このまんま寿命を迎えたらええわと思いよります」。運命を静かに受け入れる態度には、胆力の強さが窺えた。

 夕食は四万十川の鮎の塩焼きなど、心づくしの手料理が並んだ。何気なく部屋を見回すと、本棚に拙著『奇跡の四国遍路』が置いてあった。前回私が泊まったことは既に御存じだろう。遍路中は本名は使っていないのだが、名乗ることにした。

「実は私…」と言いかけると、「黛さんじゃないですか?」とおかあさん。頷くと、「まあ、やっぱり」と言って畳の上に座り直された。「その節は本当にありがとうございました」澄んだ瞳から玉のような涙が零れた。「東京に住む義弟がお姉さんのことではないかと本を送ってくれました」。

 6年の間におかあさんは心臓の手術を繰り返し、私は父を亡くした。多くは語り合わなかったが、互いの上を流れた歳月の重さを思っていた。その夜はおかあさんが出してくれた綿入れを羽織り、ゆっくりと過ごした。

 翌朝、見せたいものがあると、おとうさんが丹精している寒蘭(かんらん)を見せてくださった。屋敷裏へ行くのは初めてだったが、納屋の中まできれいに掃除されていた。お二人が日常の一齣一齣を丁寧に生きていることが、そこここに感じられた。

「疲れたら舐めてください」。おとうさんが庭で採取している日本蜜蜂のはちみつを小瓶に詰めて持たせてくれた。私の遍路にいつも美しい時間と気づきを与えてくれる、農家民宿「かじか」だ。

 

同行二人しばらくは花野行き  まどか

 

「荷物の量は不安の量」

 朝露に野花が輝くなかを歩く。高速道路建設中の高知ではあちらこちらで工事のため遍路道が迂回させられる。明治時代に造られた熊井隧道は辛うじて通ることができた。100メートルほどのレンガ積アーチの隧道は物音ひとつなく、出口で木々が朝日に輝いている。

明治に造られた熊井隧道

 四万十市までは、その後の国道56号が長い。左手に海を見ながら炎天下をひたすら歩む。木蔭のある公園までがんばろう、と歩いていると後ろから大柄な男性がやってきた。大きなリュックを背負いひどく汗をかいている。「暑いわね~。最高気温27℃というけれど、もっと暑い気がするわ」私が言うと、彼はリュックの肩紐に取り付けた小さな温度計を見た。「30℃超えていますよ。昨日もそうでした」。

 30代半ば、テントを背負っての野宿のお遍路さんだ。悩みを抱えて遍路に来た。もともと趣味で登山をしていたので、歩くことは慣れている。「でも、遍路をなめていました」。

 荷物が重すぎて、焼山寺の山中で日暮れてしまいそうになり、徳島に暮らす友人に助けを求めた。その後荷物を作り直して再出発したそうだ。靴を買い直し、リュックの重さを5キロ減らした。「荷物の量は不安の量。あなたが不安と闘って不安を捨てることができたとき、荷物は減る…」出会った人の言葉が響いたという。

 「一人で歩いていると思考が負のスパイラルに入っちゃって…遍路一周したら何かが変わるのか、わからないのですけれど」「変わりますよ。負のスパイラルも大事なプロセスだと思うの。とことん向き合って」。

 彼は頷くと、前方を指さした。「足摺岬、真南です!」小さなコンパスも肩紐に付けている。「一時間歩いたので、この先の公園で休みましょう」彼は地図で公園を確認して言った。

 「食べますか?」シリアルにナッツやマーブルチョコを混ぜたものをリュックから取り出すと私の手のひらにのせてくれた。登山用の行動食らしい。彼が額に巻いたバンダナを絞ると音がするほど汗が絞れた。ストレッチで身体のあちこちを伸ばしながら自分のことを語り出した。

 以前は保険会社に勤めていた。成績は良かったが、金融という仕事そのものにずっと疑問を抱いていた。「お金がお金を生むってことがわからないのです。実体がないじゃないですか」同僚や上司からは考え過ぎだと言われたという。

 私もかつては銀行で働いていた。が、就職した先がたまたま銀行だったというだけで、金融業そのものについて深く考えたことなど一度もなかった。

 「20代前半、バックパッカーで世界一周したんです。偶然とは思えない不思議な出会いがたくさんあって」「遍路でも不思議な出会いがありますよ。そして不思議なことが連続して起こります」。信仰心はないが、何か大きな力に導かれているという感覚はあると言う。「焼山寺で“なめるなよ”とがつんとメッセージを送られた気がしました」。

 後半になればなるほど感度が上がるので“サイン”を見逃さないようにと励ます。彼は“サイン”の意味を即座に解したようだった。

 再び歩きはじめて気が付いた。彼がスマホを使うのをまだ一度も見ていない。写真は極力撮らないようにしているそうだ。「後で見たらきっと記憶と違って見えちゃうと思うんですよ」。そして地図を開いた。「僕がテントを張る休憩所は、あなたの宿の先なので、お宿の前まで送りますよ」。

 GPSマップは使わない。地図は全体感を把握するのに使い、あとは方角と地形で判断し、道標を見る。

 「当たり前のことですが、世の中ってすべて人の仕事で出来上がっているんだって、お遍路で気づいたんです。そして心から“ありがとう”と言えるようになりました。“有難し”、有ることが当然じゃないと思えるようになりました。感謝の思いが心から湧き出るんです。これまで感謝の思いが足りなかったなと」

 そして海の方を向くと目を細めた。「この海の色! 川もきれいですよね。四国って、街を流れる川まで澄んでいる!」。

四万十市へ。国道56号の左手は海

 彼のお蔭で今日は一度も迷うことなく宿に着いた。「ありがとうございました。この後もお気をつけて」そう言って去っていった彼。誠実だから悩むのだ。名前も訊かずに別れてしまったけれど、必ずやこの遍路で何かを見出し何かをのこして帰るだろう。

 有難し…彼と過ごした時間は、多くの発見をもらった掛け替えのないものだった。私の方こそ、ありがとう。

 

*次回は、8月5日月曜日配信の予定です。

 

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

黛まどか

俳人。神奈川県生まれ。1994年、句集『B面の夏』で第40回角川俳句賞奨励賞を受賞。2010年4月より1年間文化庁「文化交流使」として欧州で活動。スペイン・サンティアゴ巡礼道、韓国プサン―ソウル、四国遍路など踏破。「歩いて詠む・歩いて書く」ことをライフワークとしている。オペラの台本執筆、校歌の作詞など多方面で活躍。現在、北里大学・京都橘大学・昭和女子大学客員教授。著書に、句集『北落師門』、随筆『暮らしの中の二十四節気』など多数。(「黛」は正しくは「代」に「黑」)

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