最終回 昭和20年生まれ、団塊世代が「友達」を振り返るとき
著者: 山野井春絵
「LINEが既読スルー」友人からの突然のサインに、「嫌われた? でもなぜ?」と思い悩む。あるいは、仲の良かった友人と「もう会わない」そう決意して、自ら距離を置く――。友人関係をめぐって、そんなほろ苦い経験をしたことはありませんか?
自らも友人との離別に苦しんだ経験のあるライターが、「いつ・どのようにして友達と別れたのか?」その経緯を20~80代の人々にインタビュー。「理由なきフェイドアウト」から「いわくつきの絶交」まで、さまざまなケースを紹介。離別の後悔を晴らすかのごとく、「大人になってからの友情」を見つめ直します。
※本連載は、プライバシー保護の観点から、インタビューに登場した人物の氏名や属性、環境の一部を変更・再構成しています。
老いたとき、人は「友達」の存在をどう考えるようになるのだろうか。健康寿命を超え、一人、また一人といなくなっていく友達。かつての友情、若かりし日の思い出は美しく煌めき、宝物になるのか。離別の記憶は、いつまでも苦々しいままだろうか。または、すべては忘却の彼方か。生の終焉が近づいたとき、友達との関係はどのように昇華されるのだろう? そんな好奇心から、私は両親を含め、何人かの後期高齢者にインタビューを行った。
本連載の最後にお届けするのは、終戦の年に生まれた男性の、同級生との離別の物語だ。なお本人はすでに鬼籍に入っており、記憶をたどって話してくれたのは、男性の妻である。
喜良志さんと幸子さん夫婦は同級生。中部地方の田舎町に生まれ、同じ地域に暮らし続けてきた。喜良志さんが40代のころ、親友たちとの関係に変化があった。幸子さんは妻として、また同級生として、その様子をつぶさに見てきた。
赤い夕陽が牛舎を染めて
私たちは昭和20年、この地に生まれました。現在はショッピングモールなども増え、開けた郊外の街になりましたが、戦時中は疎開先だったほどの田舎でした。私たちが生まれ育ったのは、小中学校まで5kmほど離れた集落です。口下手な喜良志と、正義感の強い健ちゃん(健次郎)、お調子者の廣と、癇癪持ちの大一郎、泣き虫の夕子ちゃん、そしておっちょこちょいな私。近所の同級生6人とはいつも一緒に登下校し、放課後はそのきょうだいたちと大勢で遊んでいました。
川に飛び込んで魚を追いかけたり、神社の境内でかくれんぼをしたり。山の中でアケビやグミの実を探して駆け回りました。農作業が忙しいとき、それぞれがきょうだいの面倒を見ながら田んぼや畑で汗を流しました。つぎはぎだらけの服を着て鼻水を垂らし、みなが等しく飢えていました。
ほとんどが農家でしたが、健ちゃんの家は、代々続く仕出し屋でした。戦時中は休業していたそうですが、戦地から戻ってきた健ちゃんの父親が立て直し、人気店へと成長させていきました。一方、町外れで牛舎を営んでいた大一郎の家は、半分を軍用牛として供出したところから傾いていったそうです。しばらく残りの牛たちを生質(担保)にしていましたが、エサやりにも苦労した挙句、病気で失って、借金だけが残りました。
背が小さな大一郎は、独特の家畜のにおいが染みついた服を着ていたことと、すぐに真っ赤になって怒る様子をからかわれて、別の集落の子どもたちからいじめに遭っていました。それをいつも庇っていたのが健ちゃんでした。体を張って大一郎を守る健ちゃんと、優しく話を聞いてやる喜良志。廣は、ときにいじめっ子側についたりして、うまく立ち回っていました。
高校受験を控えた、中学3年生のある日のことです。登校の待ち合わせ場所に、大一郎が現れません。健ちゃんと喜良志が、大一郎の家まで迎えにいくと言い、私と夕子ちゃん、廣の3人は先に行くことに。1時間ほど遅れて到着した健ちゃんと喜良志は、神妙な顔で先生と話をしていました。休み時間、廊下に出た多くの友達が2人を取り囲みました。
「大一郎はいなかった。もう誰も、あそこには住んでいない」
喜良志がうつむきながらそう言うと、廣が「夜逃げだな!」と声を上げ、健ちゃんにゲンコツを食らいます。「だって、うちの親が言ってたんだよ、あそこは夜逃げ寸前だって」。夕子ちゃんは机に突っ伏して泣いてしまいました。
学校帰りに、5人で大一郎の家を見にいきました。夕陽に照らされた牛舎は空っぽです。家の引き戸を男の子たちが開け、私たちは薄暗い家の中に入りました。
土間には丸めた新聞紙があちこちに落ちていました。炊事場の盥には、茶碗や湯呑みが洗われないままに突っ込んでありました。靴を脱いでボロボロの畳に上がり込み、あちこちを見て回る健ちゃんに、私たちはついて回りました。奥にあった寝床は真っ暗。雨戸を開けてみると、裸電球が低い位置にぶらさがっており、布団は誰かが抜け出たばかりというように膨らんでいるのが見えました。そこには、まだ生活の気配が濃厚に残されていたのです。しかし住人は誰もいませんでした。近所のおじさんたちがやってきて、私たちはこっぴどく叱られ、逃げるように帰宅しました。
高校を卒業すると、喜良志は地元の役場に就職。健ちゃんは実家の仕出し屋に入り、町内の祝いごとや仏事の料理を支えるようになりました。保健師として働いていた私と喜良志が結婚したのは、日本中が初めての万博を前に浮き足立っていたころです。健ちゃんも同じ時期にお見合い結婚をして、働き者の奥さんをもらいました。私たちと健ちゃん夫婦は、子どもたちの年齢もほぼ一緒になり、仲良くお付き合いをしていました。
平日休みの健ちゃんは、夕方、喜良志が役場から戻ってくる時間を見計らってわが家を訪れ、2人はよく縁側で向かい合い、将棋を指していました。そうしているうちに、健ちゃんの奥さんと子どもたちもやってきます。私と健ちゃんの奥さんは、台所でお惣菜を作りながら、いろんな話をしました。
やがて健ちゃんの仕出し屋は宴会場をいくつか備えた3階建てのビルになり、住み込みの従業員を抱えるほど大きくなっていきました。私たちはその宴会場で、流行しはじめていたカラオケを楽しみました。公務員家庭のわが家が直接好景気の恩恵を受けることはありませんでしたが、友達のおかげで、こんな田舎町でもなんだか「将来にはいいことしか待っていない」というような、ワクワクした気持ちでいられたのです。
白いクラウンと東京の奥様
一家で夜逃げをして行方知れずになっていた大一郎が私たちの町へ戻ってきたのは、「めだかの兄妹」という曲が流行した年でした。関東で建築関係の仕事を興した大一郎は、東京育ちのきれいな奥さんと一人息子を伴って、真っ白なクラウンでふるさとに帰ってきたのです。大一郎は、かつて追われた土地を買い戻し、家と社屋を建てるのだと言いました。大一郎の歓迎会は、もちろん健ちゃんの店の宴会場で行われました。8ミリフィルムに凝っていた健ちゃんがその様子を録画してくれました。子どもたちが「めだかの兄妹」を合唱しているシーンを、その後何度も布団のシーツを壁に張って映写してくれたので、よく覚えているのです。大一郎は、派手なスーツを着てサングラスをかけ、終始奥さんの肩に手を回して、ご機嫌な様子でした。その日はご挨拶にと奥さんから木箱入りのカステラが同級生たちにふるまわれ、「都会のお土産は違うね」と感動したことも記憶に残っています。
その後、すぐに地元でも事業を軌道に乗せた大一郎は、牛舎跡に大きな自邸を建てはじめました。2年ほどをかけて完成したその家は、天守閣のような3階部分を擁する、まさにお城でした。門扉には堂々と金塗りの家紋を掲げ、庭にはこだわりの松やソテツがいくつも植えられました。屋根付きの駐車場には、何台も高級車が並んでいました。
牛刺しは2切れまで
それは、そのお城のような家で起こりました。すっかり「地元の名士」になった大一郎が催した、会社設立何周年かのパーティーでのできごとです。
贅を尽くした、三間続きの大広間。奥には、舞台まで設えてあり、高級旅館のようでした。近所だけでなく、同じ中学だった仲間や、町の助役なども大勢招待された、それは華やかな会でした。大一郎からは「最上級の料理を頼む」と依頼があったとのことで、健ちゃんは何日も前から張り切っていたようです。
内容は「豪華だった」ということしか覚えていませんが、一つだけ忘れられない料理があります。「牛刺し」です。健ちゃんは霜降り牛肉の大きな塊を用意し、客の前でそれを薄く引いて、大一郎の奥さんが用意した大きな古伊万里の皿に盛り付けました。子どもたちはその周りに群がっていきます。大一郎の一人息子、小学生の剛志くんは鼻高々で、「俺の家だから、俺が最初に食べる」と箸をつけ、一口含むと、目を白黒させました。
「パパ、こんなおいしいもの、俺は初めて食べたぞ!」
その言葉に、大一郎は目を細めます。奥さんは手を叩いて、「偏食な剛志くんがこんなに食べるなんてうれしいわ。もっと食べなさい!」と喜びました。剛志くんはにんにくのすりおろしをたっぷりとのせて、一皿分ほどの牛刺しをペロリと食べ終えると、満足してその場から離れ、そこへほかの子どもたちが列をなしました。健ちゃんが「大人の分がなくなってしまうから、子どもたちは2切れまで!」と言うと、「え〜」とがっかりした声が上がりました。
やがて舞台の上では、大一郎自慢のレーザーディスクを使ったカラオケ大会がはじまり、盛り上がっていました。しばらくすると、突然、大一郎の奥さんがキャーッと悲鳴を上げたのです。見ると、奥さんの膝の上に、剛志くんが覆い被さるようにして吐いていました。お腹も下してしまい、ズボンが濡れています。
「ややっ。おい、これは食中毒じゃないか!」
そう声を上げたのは、廣でした。廣は水道工事の仕事をしており、大一郎は大のお得意様です。大一郎が帰郷してからというもの、すっかり子分のようにくっついていました。
「言いがかりはよしてくれ。子どもが食べ慣れないものを一気に食べて、腹がびっくりしただけだろう。食中毒だったら、今ごろみんな倒れてるわ」
健ちゃんがそう言って廣を睨みました。保健師である私も同じ意見でした。ところが大一郎の奥さんはパニック状態で、救急車を呼べと大騒ぎ。救急車が到着すると、パーティーはなし崩し的にお開きになりました。
当時は今ほど衛生管理の概念が広まっておらず、学校や食堂で頻繁に集団食中毒が起こっていました。「O157」が、まだ取り沙汰される以前のことです。運良く、そのときの剛志くんはただの食あたりで、その日のうちに病院から戻ってきました。私は、健ちゃんが「2切れまで」と言ってくれたので、うちの子たちは食あたりにならずに済んだ、よかったな、と思っていました。
冗談が広めた悪い噂
あのころ役場の近所に、地元の男性たちが溜まり場にしている炉端焼き屋がありました。店の前にはほぼ毎日、夕方になると大一郎のクラウンと、廣のスーパーカブが止められていました。当時は飲酒運転の取り締まりもずいぶん甘かったのです。
たまに喜良志と健ちゃんも、その店に顔を出していました。「今日は遅くなるよ」と喜良志が電話をしてくる日は、仕事帰りに、きまってその店に寄っていました。
パーティーからしばらく経ったある晩、喜良志は「おかしなことになった」と言いながら帰宅しました。聞けば、例の救急車騒ぎが、健ちゃんの店に悪影響を及ぼしているというのです。
「大一郎たちが酔って、冗談で『剛志くんが死にかけた』なんて言ったらしいんだ。聞いてた誰かがそれに尾ひれをつけて言いふらして、事実とは違う話になって広まったみたいだ。俺は役場の若い子から聞いたから、大一郎に確かめてみたんだが……」
その日も酔っていた大一郎は、「健次郎の店のものを食べて調子が悪くなったのは事実なんだから、何も俺は嘘はついていない。ただの冗談を真にうける方が悪い」と言ったそうです。
「よくよく聞いてみたら、奥さんの方が神経質になっていて、もう健ちゃんの店は使いたくないと言ってるみたいなんだよ。奥さんが『健次郎さんが謝りに来ない』と。まあ、大一郎も、奥さんには弱いからなあ」
「保健所の指導が入ったわけでもないし、大したことはないでしょうけど、健ちゃんは気分を害してしまうかもしれないわね」
私は、なんだか嫌な予感がしていました。
狭い田舎町です。昔、“ひどいいじめっ子だった健次郎”が、成り上がった牛舎の大一郎を妬み、牛刺しで嫌がらせをした……そんなおかしな噂が、またたく間に広まっていきました。
風評被害から傾いた健ちゃんの仕出し屋
健ちゃんの店には嫌がらせの電話がひっきりなしにかかってきて、売り上げも激減したと、奥さんは肩を落としていました。「あの店は危ない」などの声を、私もあちこちで聞き、胸を痛めました。私は喜良志に、なんとかならないかと訴えましたが、「人の噂も七十五日というから、しばらく待つしかないだろうな。健ちゃんの腕は確かなんだから、ちゃんとお客さんもわかってるよ」と言います。
ところがそれから半年ほど経ち、噂もずいぶん収まったところで、健ちゃんは入院してしまったのです。胃潰瘍でした。当時は現在のようにいい薬もなく、ずいぶんこじらせて、入院は長期になりました。しばらくは奥さんと二番手の男の子で店を切り盛りしていましたが、二番手が突然店を辞めてしまい、健ちゃんの店は休業を余儀なくされました。
そんなころです。大一郎と廣が、「同窓会旅行を計画した」と手づくりのチラシを持ってうちへやってきました。「みんなには世話になってるから、恩返しがしたい。会社の税金対策のようなものだから、俺が仕切らせてもらう」とのことで、日程、行き先はほぼ決まっており、参加費は格安の設定でした。
「うちは家族で参加する。喜良志と幸子ちゃんも、家族でくるだろう? 夕子ちゃんもお姉さんと一緒に参加するって」
廣がうれしそうに言いました。健ちゃんのところにも声をかけたかと喜良志が尋ねると、大一郎が言いました。
「もちろん。だけどまだ体調が悪いから、今回は見送ると言ってたらしい」
それを聞いて、私と喜良志は安心しました。いろいろあっても、やはり幼馴染。絆は断たれてはいなかったのだな、と思ったのです。
参加したのは、中学の同級生たちとその家族、総勢40人ほど。2台のマイクロバスを貸切っての同窓会旅行は、豪華絢爛でした。宿泊先は金沢の最高級温泉旅館。道中も車内のサロンでカラオケ、到着したら温泉。宴会場では私たち女性がせっせとお酌をして回りました。大一郎の奥さんが、「子どもは21時には寝かせます」と声をかけ、女性と子どもたちが部屋に引き上げた後は、男性は街へ繰り出し、スナックで朝方まで楽しんでいたようです。
帰路、バスの中では参加者にたくさんのお土産が配られるなど、いたれりつくせり。一人いくらかかったのかわかりませんが、私たちが支払ったお金は、おそらく三分の一にも達していなかっただろうと思います。ほとんどを、大一郎が支払ったのでした。
その後何年も、大一郎は同級生たちをこのような豪華な旅行に連れ出しましたが、私が参加したのは初回だけです。子どもたちが、「バスは煙くて気持ち悪いから行きたくない」と嫌がったためです。男性のほとんどがたばこを吸う時代でした。やがて参加者は男性だけになり、同級生だけでなく、大一郎が接待したい人をもてなす旅行になっていったようです。
喧嘩もしていないのに、疎遠になった理由
初回の旅行から戻ると、私はお土産を持って健ちゃんの家へ行きました。健ちゃんは退院して自宅で療養をしていました。健ちゃんの奥さんと玄関先で話をしていると、すっかり痩せた健ちゃんが奥から顔を出しました。
「幸子ちゃん、わざわざ申しわけないね」
「健ちゃん、退院できてよかったね。もっと早く元気になって、一緒に旅行へ行きたかったなあ。みんな寂しがっていたよ」
健ちゃんは寂しそうな表情を見せました。
「ええ、そうか。みんな楽しそうで、よかったな。俺も早く元気になるよ。喜良志によろしく伝えてくれよ」
健ちゃんがふたたび奥へ引っ込むと、奥さんが言いました。
「あの人、本当に弱ってしまって。ごめんなさいね。店は、いまのままでは維持ができないから、ビルはもう手放そうと思ってるの。住み込みの子たちにも、みんな出ていってもらったし。だけどこうやってあの人が病気になったのは、ちょっと休めってことだったのかな。まあ、あまり愚痴を言ってもいけないから」
振り返ってみれば、当時、田舎だったこの町にも、いくつか新たな飲食店や、ファミリーレストランができていました。仕出し文化が衰退していくなかで、不幸な出来事が重なったのだと思います。
それからしばらくして、廣がいつもの炉端焼き屋の帰りに、わが家に寄りました。
「喜良志、えらいこっちゃ!」
玄関先で、大声でそう言うので、私は「静かに!」と廣を叱りつけました。ごめんごめんと頭をかきながら上がり込むと、水屋(食器棚)から勝手にコップを2つ取り出し、一升瓶から酒をなみなみと注ぎ入れました。
「健ちゃんが、大一郎のことを名誉毀損で訴えるって。店が傾いたのは、大一郎のせいだって」
私たちはびっくりしました。
「どうしよう、俺のことも訴えると言われたら」
廣はコップ酒を両手で持ちながら、情けない顔をしています。喜良志が言いました。
「どこからの話だよ、それは」
「わからないけど、さっき炉端焼き屋で、そういう話を聞いたんだよ」
常連客が数人で噂していたとのことで、話を広めた張本人はわかりませんでした。喜良志は健ちゃんの家にすぐに電話をしましたが、誰も出ません。逆に、大一郎から電話がかかってきました。大一郎も噂を聞きつけて、憤慨していました。
「旅行に誘われなかっただけで、逆恨みするなんて、健ちゃんも意外と情けない男だな」
喜良志と大一郎が電話でやりとりをしている間、廣がそう私に言いました。
「旅行には誘ったって、言ってたじゃない」
私が言うと、
「いや、それが……」
問いただすと、廣は大一郎から健ちゃんを誘うように頼まれていたそうですが、「気を利かせて」誘わなかったそうです。
「店も傾いてきてるみたいだし、旅行なんて心から楽しめないだろうと思って、俺の気遣いだったんだよ」
訴訟騒動は根も葉もない噂でしたが、これをきっかけに、健ちゃんと大一郎・廣は完全に疎遠になってしまいました。
口の悪い人たちがいたものです。商売人同士のすれ違いを面白がって、あることないこと吹聴し、それが人から人へと伝わる間に、まるで違う話になって本人へと戻ってしまう。当人は、相手に問いただすこともせず、悪い噂だけを信じ込み、被害妄想に取り憑かれる……。直接喧嘩をしなくても、こうして関係が崩れるということがあるのだと、私は悲しい気持ちで傍観していました。
喜良志は中立の立場をとっていましたが、健ちゃんが将棋を指しにわが家に来ることもなくなりました。
やがて健ちゃんはビルを売却し、自宅を改装して、小さな惣菜店を作りました。私はよくその店に買い物へ行きました。奥さんはいつも通り接してくれるのですが、健ちゃんはほとんど私とも目を合わせなくなっていました。
はじめは健ちゃんのことを気にかけ、大一郎との仲を取り持とうとしていた喜良志でしたが、何度か突っぱねられたことで意地になり、そのうち連絡することもやめてしまいました。大一郎の主催する旅行にはそれから一、二度参加しましたが、「もう気が乗らない」と断るようになり、炉端焼き屋にもほとんど行かなくなりました。
廣を中心とした大一郎を囲む仲間は人数を増やし、「大判鮫会」と呼ばれるようになっていました。大一郎を取り巻く小判鮫。その名称を気に入った大一郎は、特注した大きな鮫の彫刻を会社の玄関に置きました。
大判鮫会の解散
大一郎の一人息子、剛志くんが交通事故で亡くなったのは、彼が中学3年生になった春のことでした。剛志くんは成績優秀で、家から片道2時間ほどかかる私立学校に通っていたのですが、学校のそばの大きな道路でトラックにはねられてしまいました。葬儀での大一郎は、まるで空気が抜けた風船のようでした。本格的なバブル崩壊も重なって事業は行き詰まり、そこからは、みるみるうちに富を失いました。奥さんも東京へ戻ってしまい、大きな屋敷はすっかりうらぶれていきます。大一郎に群がっていた人間は、驚くほどの速さで去っていきました。コレクションしていた高級車も一台残らずなくなり、たまに軽トラックに乗っている大一郎を見かけました。
ときが経ち、廣が脳卒中で60代のはじめに亡くなると、その数年後、大一郎も、誰にも看取られることなく、肝がんで寂しい最期を迎えました。福祉課の知人から大一郎の死を知らされた喜良志は、私を伴って火葬場での直葬に立ち会いました。職員の方が、棺の小窓を開けて、「お顔を確認されますか?」と声をかけてくれましたが、喜良志は「結構です」と断りました。私は少し離れたところに立って、その様子を眺めていました。
帰りの車の中で、喜良志が言いました。
「不思議なもんで、大一郎のことは、子どものころの顔ばかり思い出す。こっちに戻ってきてからのことも思い出すけど、顔は、子どものまま。だから、最後に顔を見たくなかった。見なくてよかった」
「廣も大一郎も、あまり付き合いがなくなっていたけど、いなくなったらやっぱり、あなたも寂しいでしょう?」
「うーん。寂しくもあり、寂しくもなし。懐かしいとか、悲しいという感情も、年をとると、変わってくるもんだね。薄れてくるというのかな」
喜良志はそう言いましたが、言葉の裏には寂しさが滲んでいることを、私は感じていました。その夜はお酒を飲みながら、珍しく饒舌に昔話をしていました。
友達になって後悔はしていない
喜良志がふたたび健ちゃんと交流するようになったのは、70歳を過ぎてからのことです。健ちゃんが胃がんで入院していることを知り、2人でお見舞いに行ったところから、付き合いが復活しました。健ちゃんが胃を半分以上切除して退院してくると、喜良志が健ちゃんの家へ赴き、将棋を指すようになりました。2人でどんなことを話していたのかわかりません。
健ちゃんが75歳で亡くなったときは、コロナが流行していたので、葬儀にも行けませんでした。健ちゃんの店はずいぶん前に息子さんが跡を継ぎ、お弁当のチェーン店を展開して、大きく広げています。
喜良志は一昨年、肺炎で亡くなりました。家族で看取ることができたのは、よかったです。
……すみません。こんな話で、よかったんでしょうか。でもこうやって思い出してみると、昔のことの方が、くっきりしているんですよね。若いころは、時間が長く感じるからでしょうか。60代以降は特に、もう時間が倍速になったようで。
年齢を重ねると、回想、回想の毎日です。夢の中や、ふとしたときに、幼いころの思い出が蘇ってくることがあります。でも、思い出して胸がキュッとするとか、そういう「感情」は、どんどんなくなっていくんですよね。懐かしがることそのものが、懐かしいというんでしょうか。喜良志が言っていたように、「懐かしむ」という行為そのものにも、若さが必要だったのかなと思うんです。
8人きょうだいの末っ子だった喜良志は、きょうだいも、友達のことも、見送るばかりでしたが、葬儀の後にいつも言っていたことがあります。
「いいことも、悪いことも、すべては終わる。みんな必ず死ぬんだな」
夕子ちゃんは、わりと近くに住んでいますが、最後に会ったのは喜良志の葬儀のときです。年賀状では、近いのになかなか会えないね、とお互いに書いています。いま私は、自分のきょうだいと、子ども、孫にも会えるので、特に寂しいと感じることはないです。人間、最後はやっぱり友達よりも家族かな、と思います。
だけど、友達になって後悔している、ということは、ないですね。たぶん、喜良志も、健ちゃんも、大一郎も、廣も、後悔は、してないんじゃないですか。それぞれが必死に生きた、その人生の中に、ポツポツと友達との思い出があって、それはそれでよかったなあ〜と、あちらで仲良く話しているかもしれませんね。
私は、できるならば大人ではなくて、子どものころの彼らにまた会いたいです。貧乏だったけど、みんなでいれば、それだけで楽しかったからです。
(※本連載は、今回が最終回です。2026年後半に書籍化を予定しています。この連載では、プライバシー保護の観点から、インタビューに登場した人物の氏名や属性、環境の一部を変更・再構成しています)
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山野井春絵
1973年生まれ、愛知県出身。ライター、インタビュアー。同志社女子大学卒業、金城学院大学大学院修士課程修了。広告代理店、編集プロダクション、広報職を経てフリーに。WEBメディアや雑誌でタレント・文化人から政治家・ビジネスパーソンまで、多数の人物インタビュー記事を執筆。湘南と信州で二拠点生活。ペットはインコと柴犬。(撮影:殿村誠士)
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
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