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お坊さんらしく、ない。

 師匠に正式に弟子入りする前、いわば「弟子見習い」のような期間がひと月ほどあった。
 その初日、「替えの下着だけ持って来れば、あとは何も要らん」
 と言われて、小さなバッグ一つで寺に行ったら、通された小部屋に師匠がいて、
「ここに坐れ」
 指さされたところに正座すると、師匠はいきなり黒い布状の物を私の前に並べた。
「お前の左にあるのがお袈裟(けさ)法衣(ほうえ)、右は作務衣と言って、労働着だ」
「はい」
「じゃ、立て。今すぐ作務衣に着替えて、今着ている服を外の焼却炉で全部焼いて来い」
「えっ!?」
「これから先、お前は法衣か作務衣以外、着てはいかん。これが唯一の弟子入りの条件だ」 

 不肖の弟子は、唯一の条件を20年以上守り続けた。無論、師匠の言いつけを守ろうという気持ちもあったが、それ以上にこの「強制」が快適だったからである。
 何を着るかで迷うことは永遠に無くなり、作務衣に至っては、これ以上着て楽な衣類は想像できない。ファッションに興味も関心もない身には、うってつけである。
 袈裟は、インドで仏教が興って以来、僧侶の正式な衣服であり、最初期には、捨てられていたり、布施された布を縫い合わせて作って、これを素肌に纏っていたようである(後に下着状の物もつけるようになったらしい)。
 それが中国など寒い地方に伝わると、袈裟の下にさらに衣服を纏うようになり、これが法衣である。
 東アジアの僧侶の場合、この法衣を着て、その上に袈裟をつけるのが、正装になる。我が宗派では、法要や坐禅、僧堂での正式の食事、大事な講義などでは、正装が必要だ。
 袈裟には、首にかける略式のものがあり、これを「絡子(らくす)」と言う。正装するまでもない時には、これを用いる。
 その他に、法衣を簡略化した「改良衣」という物もあるが、これはそう古くからあるものではない。短い読経をするとか、外出するときなど、これを着る。昔は法衣の裾を独特にまとめた姿で外出していた。最近でも厳格な師家はそうする。
 作務衣の「作務」は修行道場の労働のことで、文字どおり労働用である。昨今は「古来より禅僧が着る伝統の作務衣」などという売り言葉で、盛大に市販されているが、「古来」と「伝統」は完全な誤解だ。私が調べた限り、現在のスタイルの作務衣は、昭和40年代、永平寺に出入りしていた法衣店が作って売り出したのである。
 あと、我々がよく使うのが長作務衣だ。昔は実際に作務で着ていたらしいが、現在では主に修行僧の外出着で、一見すると襟の無いトレンチコートのように見える。以前、永平寺の中を長作務衣で歩いていたら、修学旅行の中学生に指をさされて、
「あっ! 坊さんが特攻服着てる!?」 

 というわけで、出家得度以来20年以上、師匠の言いつけを守って、私は袈裟・法衣・作務衣・長作務衣以外着なかったのであるが、実は一度だけ、それを破ってしまったことがある。
 本山での修行を終え、東京で有志の僧と修行する場を得たころ、私は結婚して1年くらいが過ぎていた。つまり、結婚直後から別居状態だったのだ。
 立ち上げたその道場が軌道に乗ってきて、私は意気軒高な良い気分でいたので、「新婚別居」の異常さなどまるで気がつかなかったのだが、母親が心配した。
「余計なこと言うようだけど、新婚旅行はいかないの?」
「え? 旅行?」
「そうよ。要するに今、別居でしょ。それもいきなり。旅行もしないなんて、まずいと思わないの?」
「でも何にも言わないし」
「言われたときはお終いよ」 

 母親がこの種の苦言を呈するのは、極めて稀である。基本的にマザコンである私は、にわかに心配になり、アドバイスに従うことにした。そして、行先その他一切の手配を、妻に丁重にお願いしたのである。
 まもなく、アマゾンの奥地かというような、聞いたこともない名前の島が、行先として通告されてきた。有名なリゾート地らしかった。
 そして、出発3日前に、大きなスーツケースと小包が届いたのである。小包には手紙とサングラスが入っていて、手紙には、出発前日に泊まるホテルの名前と、スーツケースは開けないまま持ってくるようにという指示と、事前にサングラスをかけて眼を馴らしておくべきだという助言が、箇条書きにしてあった。
 飛行機は成田からだったので、出発前日、私は東京から、当然の如く、と言うより何の疑念もなく、いつものように長作務衣を着て、
 その日初めて黒のサングラスをかけ、スーツケースを引きずりながら外に出た。
 サングラスは間もなく馴れて、気にもならなくなったが、そうしたら今度は妙なことが気になりだした。
 最初は単に大きなスーツケースを持って歩いているので、歩道を行く前後の人々が厚意で私を()けてくれていると思っていたのだが、それにしては、その避け方が必要以上に機敏なのである。私が歩いていると、なんだか前の方の人たちが、早々に両側に割れていくように見えるのだ。
 私は何となく変だなと思って、ふと傍らのショーウインドーを見たら、そこにいたのは、SF映画の傑作、「マトリックス」の主人公であった。頭に毛がない分、さらに剣呑な姿になっている。
 このとき、今後の展開に若干の不安が兆したが、その時はやりすごして、とにかくホテルに行って、一泊した。
 ところが翌朝起きてみると、着てきた作務衣が無い。どうしたのだろうとウロウロ探していたら、妻がビニールパックを差し出した。
「今日からこれ着てちょうだい!」
 見ると、ポロシャツだのジーパンだの、20数年前に永遠に別れを告げたはずの服である。傍らには開けられたスーツケースがあり、そこには日付ごとにパックされた衣服が整然と詰められていた。
 これで「スーツケースは開けないで持ってくること」の意味がわかった。中身を事前に知ったら、私が絶対に持って来ないと、彼女は見抜いていたのだ。
 私は正直、「このヤロー!」と口に出かかったが、瞬間、あのショーウインドーに映ったマトリックスを思い出した。あれがあのまま、リゾート地に乗り込むとしたら、それはいささか問題かもしれぬ。彼女の懸念もわからんではない。それに何よりこの期に及んで彼女と揉めると、この先非常に苦しい状況に陥るだろう…。

  私は文字どおり「非常時」に鑑み、20年ぶりに「娑婆(しゃば)服」(修行僧の隠語。俗服のことである)を着ることにした。すると…裸でぬいぐるみに入ったようだった!まるで服を着ている気がしない!!
 私は生まれて初めて信じがたい違和感の中、ギクシャクギクシャクと音が出そうな覚束ない足取りで、ほとんど何もかも上の空のまま空港に向かった。そしてなんと、離陸して1時間もたたないうちに発熱したのである。
 過去の感覚から推して、389度はあっただろう。私は目的地に着くまで、水を飲むだけで何もできず、強烈な違和感と高熱で朦朧としていたのである。
 あくる朝、島のホテルで、私は本当に合掌して、妻を拝み倒した。
「たのむ! 作務衣、返してくれ! これじゃ旅行どころではなくなるぞ」
 妻もまさか生理的なレベルの激変が起こるとは想定していなかったようで、珍獣を見るような目つきで私を見つつ、作務衣を出してきた。
 その作務衣の袖に腕を通したときのことは、今も忘れられない。昔の特撮ヒーローものの主題歌ではないが、「電流火花が体を走る」とはあのことである。指の先・足の先から感電したように生気と存在感が蘇ってきた。
 以後、再び私は「娑婆服」と縁が切れた。師匠の出した「条件」はすでに「血肉化」していたわけである。 

 このウイルス禍の前、人の往来に何の懸念もなかったころ、駅の改札口で人と待ち合わせをしていたことがある。すると、ふいに力士のような大男の西洋人が、のっしのっしという迫力で、一直線に私のほうに近づいてきた。
 何事かと身構えて、不審の視線を相手の顔に向けると、彼は私の目の前に直立し、丁寧に一礼したかと思うと、驚くばかりに流暢な日本語で、
「いやァ、今どきそういう格好で歩いている人を見ることは滅多にない。お坊さんでしょ? これからもガンバッテ下さい!」
 言い終わると、彼はまた丁寧にお辞儀をして、きれいに回れ右をして雑踏に紛れ込んでいった。
 日常が僧形の自分には、そういう格好をしていることを忘れている。そこに突然、他人から格好のことを指摘されると、今更ながら、そうだった! と自覚し直すことになる。
 私にはこのような自覚が存外大事なことのように思う。
 我々は自分が何者であるかを、常に意識しているわけではない。自分が自分であることは当たり前だと思っている。
 しかし、自分が自分であることは、そう単純な話ではない。実は他人の視線に依存して、初めて自分たりえている。身分証明書は他人が発行することを考えれば、すぐにわかるだろう。そこに我々の辛さと脆さがある。
 僧侶という生き方も、自分の意志だけで貫くことは、実は至難であるし、できない。それは他者からそう認められることで支えられている。
 普段忘れている自分の僧形を他人に依って気づかされることは、自分が自分であることさえ他者に依存せざるを得ない困難の露出でもある。そう思うと、袈裟は単なる僧侶のユニホームではなく、我々はそれを身に着けるたび、「お前はこれからも僧侶であり続けるつもりなのか」と、袈裟から問われているのだろう。
 宗祖道元禅師が生涯にわたり袈裟の功徳を説き続けたゆえんである。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

南直哉

みなみ・じきさい 禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。1958年長野県生まれ。84年、出家得度。曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、2005年より恐山へ。2018年、『超越と実存』(新潮社)で小林秀雄賞受賞。著書に『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『老師と少年』(新潮文庫)、『恐山 死者のいる場所』(新潮新書)、『死ぬ練習』(宝島社)などがある。

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