2021年12月9日
鴻巣友季子×竹内康浩『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』刊行記念対談
謎とき対談 風と共にサリンジャー
サリンジャーの名短篇「バナナフィッシュにうってつけの日」のラストについて、これまで誰も発したことのない問いを投げかけ、名うての読み手たちを仰天させた竹内康浩・朴舜起著『謎ときサリンジャー』(新潮選書)。スカーレット・オハラとレット・バトラーという名キャラクターを擁し、めくるめく展開が心揺さぶる巨篇『風と共に去りぬ』の本質は恋愛小説ではない、として熱烈なファンたちを瞠目させた鴻巣友季子著『謎とき『風と共に去りぬ』』(新潮選書)。それぞれの著者が、文学作品を読む楽しみを思う存分、語り合います。
最高に遅い読書が謎を解く
竹内 『謎ときサリンジャー』……いかがでしたか?
鴻巣 とにかく圧倒されました! 「バナナフィッシュ」の主人公、グラス家の長兄シーモアの死を「それは本当に自殺だったのだろうか」と問うところから始まるじゃないですか。他殺かもしれないし、他殺じゃないかもしれない……非常に惹きつけられる謎ですよね。
竹内 ありがとうございます。
鴻巣 その後の論証の手厚さと確かさが読み心地の快感につながってるんだと思うんですけれど、読めば読むほど知らないところに連れていかれる。そのスリルと不安が戦慄を呼ぶんですよね。ぞくぞくとする。でも、快感が常に上回るわけです。一歩一歩、論証が固められていくことで。「ああ、そうなのか」という覆しがある。
竹内 不安という言葉、すごくよく分かります。「ぞくぞく」した感じにどうして不安が混じるかというと、理屈に合わないからですよね。筋に合わない。
鴻巣 自分がこれまで思っていた筋に合わないと不安になりますよ。
竹内 読者には誰しも、ストーリー全体とか筋とかに調和させたいという欲望が基本的にありますものね。
鴻巣 あります。
竹内 だから、そこからはみ出たところは見ないことにしたり、見てもすぐ忘れちゃう。でも、私は読むときにあまり筋とかは考えないタイプで……それって多分、翻訳家である鴻巣さんと似たようなところがあると想像するんですが。翻訳してる時って全部、完全に細部まで見てますよね。あらすじとかじゃなくて。
鴻巣 そうですね。翻訳してる時は一言一言体験していく感じです。
竹内 ですよね。普通に読んでいく場合、作家が作品を書くスピードと比べると圧倒的に早いはずです。だから、あらすじも押さえやすい。でも私、読むのがむちゃくちゃ遅いんです。自慢にならないですけど。だからなのか、筋とは関係ないところが気になってしまう。引っかかる場所が出て来てしまう。
鴻巣 『風と共に去りぬ』を訳していたとき、レット・バトラーが挨拶したばかりのメラニー[編集部註:主人公スカーレット・オハラの恋敵]の目をすごい勢いでのぞき込む場面があるんです。ほぼ初対面なのに、いきなり目の奥の奥までのぞき込んで、メラニーに畏怖を感じているような表現があって、「ん? なんだろう? 変だな?」って思ったんですよね。その謎は、最後まで訳してみてもすぐには解けなくて。結局一冊本を書くことになったんですが(笑)、ただ精読していたときには気づかなかったですし、訳してみて初めて気がついたことでした。そういうことは確かにありますね。
竹内 最高に遅い読書を翻訳家の方々はされているんでしょうね。
鴻巣 やっぱり作家の書いた速度よりも早くは訳せない。竹内さんの読み方は、それに近いんですかね。
竹内 そもそもサリンジャーの〈グラス家の物語(グラス・サーガ)〉はシリーズ物なのに、十何年もかけて書いてますよね。「バナナフィッシュ」が『ニューヨーカー』に発表されたのが1948年。最後の作品となった「ハプワース16、1924年」が1965年。最高に遅い読書を読者に強いている。それに、私にとってサリンジャーはそれこそ卒論以来の付き合いですから……飽きもせず読んでいるのは間違いないですよね。かなりゆっくり。
鴻巣 本当に時間のかかる読書。でも実際、それぐらいかけて読んで欲しかったんですかね、サリンジャーは。
竹内 そうしないと分かってもらえない何かがあったということなのかもしれないですね。結果的に読者は「時間の旅」をさせられた。現在から過去へ逆行させるという……そういう読書を私たちはすることになったと思うんです。
鴻巣 竹内さんが書いておられましたが、最初の「バナナフィッシュ」の時、シーモアは31歳。この年齢で彼は「自殺」するわけですが、その7年後に発表された「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」では25歳、17年後の「ハプワース」では7歳。若くなっていってる。この7歳のシーモア少年がまた子供とは思えない言葉遣いで自身の死を予言している……そこがどうにもサリンジャー作品全体を謎だらけにしていた原因のひとつだったわけですけど、本書を読んで「なるほど、未来において予告される死なのか」と思いましたよ。
竹内 「始点」と「終点」はちゃんと接続されてるんだと。
鴻巣 読みの速度を極限まで落として初めて見えてくるものというのはありますよね。
二人で一人、一人で二人
鴻巣 今回の本は共著ですよね。そもそもは竹内さんのお弟子さんで、共著者でもある朴舜起さんの論文が元になってるんですか?
竹内 少なくとも大きなきっかけになってます。ただ朴さんは、弟であるバディーがシーモアを殺したという線で押していて。でも、朴さんはバディーにアリバイがあることは読み落としていた。
鴻巣 「アリバイ」ですか。本当に推理小説的な読み方から始まったんですね。
竹内 はい。そういうふうに読めるのは面白いし、朴さんが挙げた証拠の幾つかは間違いない。ただ、現実的にはバディーはそこに存在し得ないのです。その決定的な矛盾を解決するのが大問題でした。
鴻巣 どうやって解決したんですか。
竹内 前に『ライ麦でつかまえて』について本を書いたんですが、その時に不思議がっていた問題と似ている……ということに気が付いて。『ライ麦』に関しては卒論を書いたときから、主人公のホールデンと全く関係のない登場人物、むしろ真逆と言っていい人物と入れ替わるような描かれ方がずっと気になっていたんです。違っているはずなのに同じ、という奇妙な現象ですね。そこに気がついて、バディーの不思議な存在もそういうことなのかなと。
鴻巣 ビリヤードの例えというのが早々に出てくるじゃないですか。あれがとにかくものすごく鮮烈で。
竹内 核心を突くようなご感想を。
鴻巣 ネタバレになってしまったら、本当にすみません(笑)。この本の真髄に触れてるのかなと思うんですけれども、長方形のテーブルの面に一つの球が他方からぶつかってくると。当てられた方の球はポケットに落ちていく。この時、テーブルの上から消えた球は単独で勝手に落下していったのではない。その落下にはもう片方の球、ぶつかった方の球が関わっている。そして、この球は他方の球がそれまでテーブル上に占めていた場所にとどまることになる。この時、二つの球はまるで入れ替わったように見える。これが「衝突」と「入れ替わり」ということで、シーモアの死の謎を解く大きなキーとなる比喩だと思うんですね。謎ときの大きな手がかりはこの撞球の動きから生まれたんですか。
竹内 あとは、「バナナフィッシュ」が収録された短篇集『ナイン・ストーリーズ』に「テディー」という短篇があるんですね。「バナナフィッシュ」が同書の冒頭に置かれていて、「テディー」は最後。「バナナフィッシュ」の答え合わせのような作品と言ってもいいと思うんですが、この作品の結末は空っぽのプールに子供が落下する。『ライ麦』もやっぱり子供が落っこちていくという話ですから、その全体の落下のイメージを最初に提示しておきたいと思ったんです。学術論文を書くときもそうなんですが、最初に答を書いておきたい。ビリヤードの比喩はちょうどいいかと。
鴻巣 ビリヤードは英語で「プール(pool)」とも言いますしね。
竹内 そうなんです。さらに「シーモア序章」でも、シーモアとバディーにとってビリヤードが大事だったと書かれてます。それと、ビー玉遊び。あれもやっぱり、一方が他方に衝突して、場所を入れ替える遊びですよね。
鴻巣 そこなんですよね。とにかく私が惹かれたのは。シーモアとバディーは二人で一人であり、一人は二人であるというような。すると、何気なく目にしていた『ナイン・ストーリーズ』のエピグラフもぜんぜん違って見えてくる。
竹内 白隠慧鶴禅師の「隻手の公案」ですね。「二つの手による拍手の音を私たちは知っている。しかし、一つの手による拍手の音とは何か(“We know the sound of two hands clapping. But what is the sound of one hand clapping?”)」
鴻巣 謎めいていますよね。『謎ときサリンジャー』について英文学者の阿部公彦さんが「ぞっとするような快感を覚えた」って仰ってましたけど、本当に総毛立ちました。実は我田引水的で申し訳ないんですが、『風と共に去りぬ』という小説も、実は一人が二人、二人が一人の話だと私は思っているんですね。
『風と共に去りぬ』はロマンスではない
竹内 『謎とき『風と共に去りぬ』』で鴻巣さんは、壮大なロマンスと思われている小説だけれど、実際はぜんぜん違うとお書きになっています。
鴻巣 ヒロインのスカーレット・オハラと、その親友であり、恋敵と思われているメラニー・ウィルクスという登場人物がいるんですが、この二人は実は一人の人物から生まれているんですね。別の言い方をすると、あえて二つに分けた人物。そのことを延々と書いたのがその本なんですが、サリンジャー作品もまたこういう分身論というのか、オルターエゴの概念で鮮やかに解かれていったというのが本当に快感だったんです。
竹内 どうして二人なのに一人というような問題が発生するのかを考えると、二人が根源でつながっているからかもしれません。シーモアとバディーの場合は特に、実際には別々にしゃべってるけど、お互いがお互いの口でしゃべっているというような関係になっている。メラニーとスカーレットの場合はどうなんでしょうか。
鴻巣 『風と共に去りぬ』のヒロインは、もともとパンジー・オハラという名前だったんですね。このパンジー・オハラにはさらに前身がおり、マーガレット・ミッチェルの前作のヒロインで、パンジー・ハミルトンという名前だったんです。この未発表作品はフィッツジェラルド風ジャズエイジ小説だったんですが、うまくいかなくて行き詰まってしまった。試行錯誤の末にサザンストーリー、南部の物語を書くというちょっと時代に逆行するような方向にミッチェルは行ったんですけど、その際に、パンジー・ハミルトンを二人に分けるようにして、一人をパンジー・オハラにしたんですね。おてんばで今風の反抗児。
竹内 スカーレットの原型ですね。
鴻巣 はい。で、もう一人がメラニー・ハミルトン。ハミルトンという姓は日本で言ったら何ですかね。割と古式ゆかしい、伝統ある家柄を思わせる苗字です。パンジーの方は今でいうキラキラネームとまでは言わないですけど、ミッチェルの生まれた1900年前後に人気のピークがあった女子名のようです。『風と共に去りぬ』が刊行された1936年当時はちょっと意味合いが変わっていて、編集者から名前の変更を求められ、スカーレットが生まれました。
竹内 パンジーだとちょっとヴィヴィアン・リーが演じるイメージじゃないですね(笑)。
鴻巣 なんとなく脱力する名前ですよね?(笑) ところが、このスカーレット・オハラはメラニーのお兄さんと結婚してすぐハミルトン姓に戻っちゃうんです。一方でメラニーはスカーレットが恋い慕っているアシュリーという人と結婚してウィルクス姓になってしまう。ハミルトンという姓は二人が共有しながら作品の中にあるのに、すごく目立たない。スカーレットなんて、自分がスカーレット・ハミルトンだなんて思ったこともないかもしれない(笑)。全編通してこの呼称は一回しか出てきません。でもハミルトン姓が二人をつないでいるんです。
竹内 鴻巣さんはこの「裏主人公」のメラニーとスカーレットの戦いであり、絆であり、複雑で矛盾した関係が『風と共に去りぬ』の大きなテーマだと仰ってますよね。
鴻巣 これって要するにマーガレット・ミッチェルとその実母の代理戦争とも言えると思うんですよね。古式ゆかしいサザンレディのメラニーは、いわば男性に付き従って家父長制を支えていく旧世代、スカーレットはそれに反抗して新しいことをして世界を引っかき回すようなタイプ。おそらくマーガレット・ミッチェルは南部婦人の母のように生きたかったけれど、そうは生きられなかった娘として、自分の中にメラニーのような存在を抱えて生きていた――ということなのではないかと。そう考えると、この小説の本質はロマンスではない。
竹内 なるほど、実際に根源と言える人物がいたということですね。これはすごく面白いです。シーモアとバディーの場合も、元々は一つの「若い男」が、最後の銃声で死体のシーモアと遺されたバディーに分裂したようにも読めます。創作の原理として、さっきのハミルトンの話と似てますよね。ハミルトンも名字をバトンタッチしてる。バディーも、シーモアが死んだ時に、何かを引き継いでいる。
鴻巣 そうなんです。
「母殺し」の小説!?
竹内 鴻巣さんがおっしゃるのは、母のテーマみたいなものが『風と共に去りぬ』の根源にはあるんだということでした。それはものすごく納得です。あの小説って、大事なのは土地なんだって話のようでもあるので。スカーレットのお父さんがタラの土地の大切さを説く場面がありますし。
鴻巣 ありますねえ。「このタラの土地を愛する時がやって来る」とか、「土地は永遠に残る」とか「この世で唯一価値あるものは土地だけだ」とか。映画版だと特に、そんなセリフがいっぱい出て来ます。
竹内 天が父なら大地は母という見方があるとすれば、つまりは母なんだということでしょうか。ミッチェル自身の母問題が最終的に小説内の母問題で解決される。その根源性というのが面白いです。よく練られた小説だというのがよく分かります。
鴻巣 そういう意味では、あの小説にはスカーレットにとっての「母」が3人出てくるんですね。実の母と、メラニーと、レット・バトラー。レットというと男らしい男のイメージですが、じつにケアの細やかな人で、今でいうイクメンみたいになっていく。だけれども、この3人が3人ともスカーレットの人生から退場してしまうんですね。母とメラニーは死に、レットは去る。「父殺し」ならぬ「母殺し」の小説――という面はあるのかなと思います。
竹内 面白いですね。母殺しが根源的な創作のエネルギー。しかも、母殺しの小説なのに、最後は土地があるから大丈夫という。
鴻巣 そうですね。母なる大地ですよ。その上、最終的には「タラへ帰ろう」ってスカーレットは言うんですけど、それって残ってる老人やら扶養家族やらを全部養って生きていきます……という話でもあるわけです。疑似大家族の介護小説ですよ。
竹内 だとすると、スカーレットはみんなのお母さんになるということですか。
鴻巣 そうとも言えます。一家の大黒柱として。お金を稼いでいるのも彼女ですが。
竹内 レット・バトラーが去った後、地面から野菜の端っこみたいなやつをほじり出して「もう飢えさせない」って言う場面がありましたよね。それも図式的には、スカーレットが地面、畑になる、つまりは彼女自身が食べ物を生み出す、ということでしょうか。
鴻巣 ああ、大地に倒れて土と一体化する場面ですね。もう飢えさせないのは大地であって、大地が私である、という?
竹内 母殺しをして母になる、そういう小説にも見えてきました。
鴻巣 ここは必ず載せてください。素晴らしい。
竹内 『風と共に去りぬ』の最終盤で、妊娠したがゆえに死んでしまうメラニーが描かれています。誕生と死がそこで結びついているわけですけど、メラニーの死によってスカーレットにも新しい役割が与えられる。でもそれって逆転ですよね。生まれて死ぬのが普通の順番だけれど、ミッチェルが描いたものは逆で、死んだからこそ新しいスカーレットが生まれてくる。死から何かが生まれてくるというのはいろんな作家が考えている根源的な問題かもしれませんね。
サリンジャーの祝福
鴻巣 最初に触れたメラニーの瞳の話もそうなんですけど、ゆっくりと時間をかけて読んでみると、作家が書いたと思っていることは書いていなくて、書いていないと思ってることが書かれたりしていることに気づくことがありますよね。どうしても引っかかることが出て来てしまう。
竹内 サリンジャーの場合、すごく技巧的な作家であるということはもう自分で承知していて書いていると思いますが、すべてが意図の産物というわけではないでしょう。
鴻巣 私、この『謎ときサリンジャー』を読んで、もう一つ謎が解けた小説があって。それはヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』なんです。あれも一種身代わりの話で、希死念慮を持っているダロウェイ夫人の1日が描かれるんですが、最後に帰還兵のセプティマスという男性が投身自殺をしてしまうんですね。精神科に入れられそうになって、追い詰められて。彼の自殺の話をパーティーで聞くことでダロウェイ夫人は生きていこうとするんです。今までもウルフ研究の中で身代わりという説は定着していましたが、竹内さんのご本を読んでやっとしっくりきたと思ったんです。なるほど、作者のなかでビリヤード、玉突きが起きたのではないかと。
竹内 『ライ麦畑』でも似たようなことが起きています。主人公のホールデンの弟のアリーが10歳くらいで白血病で死んでいて。このアリーの死にホールデンがどう向き合うかという問題が常にありました。このホールデンとアリーの関係が、バディーとシーモアにも映し出されていると考えてみたのでした。
鴻巣 『ライ麦畑』のラスト、回転木馬に乗った妹フィービーを見守りながら、ホールデンはずぶ濡れになりますよね。ここでホールデンは祝福されている。最高の喜びを感じている。それがなぜなのか。「結果的に逝く者と残される者に切り離された兄弟が、入れ替わり可能な二者という新たな関係で結ばれる。もはや生き残った者と死んだ者の区別は意味をなさない。」ページにめちゃめちゃ線を引いてありますけど、私。
竹内 そこですね。
鴻巣 引き継ぎとかバトンタッチとか身代わり。竹内さんは『謎ときサリンジャー』で「死者の代役」という言葉を使われてました。「彼らには、ある死者の『代役』であるがゆえに、逆説的だが、他の人に代わってはもらえない掛け替えのない仕事が、たしかにあった」 ビリヤードから白隠禅師の「隻手音声」から、つながっていった果てのここに至るルートというのがものすごいスリリングでした。
竹内 ありがとうございます。この世界は、生死もそうですけど、敵味方や勝ち負けで分断されているところがたくさんあります。でもサリンジャーの作品は巧みにひねった上で「片手」に見えるものが「実は両手」だったことを書いてます。この世に一人で取り残されたようなホールデンも最後の雨の中で死者と出会っています。困難に見える世界ですけれど、サリンジャーはすでにそうした登場人物を通して、われわれに祝福を与えていたのかもしれない、そういう気がしてならないです。
(了)
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竹内康浩,朴舜起『謎ときサリンジャー――「自殺」したのは誰なのか』
2021/8/26
公式HPはこちら。
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鴻巣友季子
1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。
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竹内康浩
1965年、愛知県生まれ。アメリカ文学者。東京大学文学部卒。北海道大学大学院文学研究院教授。Mark X:Who Killed Huck Finn's Father?(マークX――誰がハック・フィンの父を殺したか?)がアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)の評論・評伝部門で日本人初の最終候補となる。サリンジャーの他、スコット・フィッツジェラルド、フラナリー・オコナー、マーク・トウェイン、エドガー・アラン・ポー等に関する論文を主にアメリカで発表している。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
- 鴻巣友季子
-
1963年、東京生まれ。翻訳家、文芸評論家。英語圏の現代文学の紹介とともに古典新訳にも力を注ぐ。『風と共に去りぬ』(全5巻、新潮文庫)の他、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(同)、ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」(『世界文学全集2-01』河出書房新社)の新訳も手がける。他訳書に、J・M・クッツェー『恥辱』『イエスの幼子時代』(ともに早川書房)、アマンダ・ゴーマン『わたしたちの登る丘』(文春文庫)など多数。『熟成する物語たち』『謎とき『風と共に去りぬ』 矛盾と葛藤にみちた世界文学』(ともに新潮社)、『翻訳ってなんだろう? あの名作を訳してみる』(ともに筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。
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著者の本
- 竹内康浩
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1965年、愛知県生まれ。アメリカ文学者。東京大学文学部卒。北海道大学大学院文学研究院教授。Mark X:Who Killed Huck Finn's Father?(マークX――誰がハック・フィンの父を殺したか?)がアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)の評論・評伝部門で日本人初の最終候補となる。サリンジャーの他、スコット・フィッツジェラルド、フラナリー・オコナー、マーク・トウェイン、エドガー・アラン・ポー等に関する論文を主にアメリカで発表している。
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